戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件

政権の指示で法相がついに指揮権発動:戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件(5)

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政権党の幹事長逮捕を巡り、党・内閣と検察の板挟みになった犬養健(たける)法相。「閣僚でありながら、内閣の崩壊を黙って見ているのか」という政権の圧力に屈し、ついに幹事長逮捕の延期を検事総長に命じる「指揮権」を発動した。しかし、法相は翌日に辞任。一連の経過は、政府が指揮権を使えば検察捜査をつぶせるが、大臣の首も飛ぶという先例となり、以後、指揮権が発動されたことはない。

吉田首相に異を唱えた佐藤幹事長

指揮権発動の2日前(1954年4月19日)、佐藤藤佐(とうすけ)検事総長は2回、犬養法相に佐藤栄作・自由党幹事長の逮捕を許可するよう求めた。捜査の大詰めを迎えていた検察としては、幹事長逮捕が日延べされると、贈収賄事件(汚職)の贈賄側となる海運・造船会社社長らの勾留期限が切れて、釈放されてしまうからだ。物的証拠の少ない贈収賄事件では、贈収賄の両方を同時に拘束して取り調べたかった。しかし、犬養法相は検察の方針を認めなかった。

吉田茂首相はこの日、自由党内から更迭論も出ている犬養法相の続投を決めた。だが、検察を止められない法相にいらだっていた佐藤幹事長は、恩師の首相に異を唱えた。

同日の佐藤栄作日記。「(犬養法相がとどまる決定をした吉田首相に)余は断固反対して、此の際犬養を馘首(かくしゅ=首を切り落とすこと、転じて、免職)すべしと論ず。すでに辞表を副総理まで提出しおる際、留任さす事の不可を、その人格からして縷々(るる)説明す。しかし結局は老首相の胸中も察し、遂に此の案を呑む。しかし必ずや臍(ほぞ)をかむ事あり」
「夕刊その他(ニュース)にて新幹事長等の下馬評あり。断固(佐藤幹事長自身が)辞任の意なき事を発表す」

犬養法相はこの日の夜、記者たちに、結論が持ち越しになったのは、「法律上の問題があるからだ」と語っている。この事件の核心である、大型船建造で船会社が負担すべき融資の利子が半減された「外航船舶建造融資利子補給法」成立に関し、佐藤幹事長の容疑は「第三者収賄」という特殊で、法律上の解釈が難しい罪名だった。これは公務員が賄賂を直接受け取らず、自分と関係のある第三者に提供させるものだ。

船主協会と造船工業会から佐藤幹事長への2000万円(現在の貨幣価値で約4億円)は、自由党に入っているので、この容疑となった。これを佐藤幹事長から見れば、2000万円を自分の懐に入れたのではなく、党のための金を集めただけだと解釈できる。だから、佐藤幹事長は自分が辞める必要はない、検察の誤った捜査を止められない法相はけしからんと、強気でいられたのだ。

「前夜」遅くに覚悟を決めた犬養法相

翌20日朝、吉田首相、緒方副総理、犬養法相の三者会談が行われた。一方、佐藤検事総長は3回目の検察首脳会議を開き、その前後に3回法相に会って、自由党幹事長の逮捕を認める指示を求めた(請訓)。だが、法相は最後まで認めなかった。 

犬養法相はこの日、緒方副総理と何度も会談を重ねている。指揮権発動の当事者になることを渋る法相に対し、緒方副総理は吉田内閣の閣僚であることを自覚し、佐藤幹事長逮捕で内閣崩壊の事態を招かないよう、厳しく説得を続けた。法相は深夜、ようやく覚悟を決めた。

佐藤幹事長はこうした指揮権発動前夜の動き、特に煮え切らない法相を苦々しく見ていた。4月20日の佐藤日記。
「(午後3時に吉田首相と会談後)緒方氏(副総理)に報告せんとせし処、犬養と会談中。なお決せざる様子。誠にもってのほか故、犬養退席後、あらためてその人となりを説き、此の際初志通り断固一刻も早く命令を出すべき事を進言する」
「緒方氏もその積りの様子につき、余(佐藤)安心して辞せし処、(夜の)八時半すぎから十一時迄かかって漸(ようや)く最終的断を見る。誠に優柔不断、残念至極」

検察側の結論を前に緒方竹虎副総理を訪れた犬養健法相(左)。右は清原邦一法務次官=1954年4月20日(共同)
検察側の結論を前に緒方竹虎副総理を訪れた犬養健法相(左)。右は清原邦一法務次官=1954年4月20日(共同)

法相に「ゾルゲ事件」で摘発された過去

佐藤幹事長は吉田首相と緒方副総理に、犬養法相の人柄を語ってまで辞めさせるべきだと言っていた。犬養は白樺(しらかば)派の作家で、父が「五・一五事件」で射殺された犬養毅首相であることは知られている。犬養法相にはもう一つ、こんなことがあった。

開戦直前の1941年に摘発された大規模な国際スパイ「ゾルゲ事件」で取り調べを受け、起訴されたのだ。当時、衆院議員だった犬養は、ゾルゲ諜報(ちょうほう)団の日本人グループの中心人物で、知人の尾崎秀実(元朝日新聞記者。死刑)に、国情の秘密事項を漏らしたことで国防保安法違反などに問われた。犬養は、尾崎がソ連のスパイ、ゾルゲと通じていたことを知らなかったこともあり無罪となった。こうした過去を持つ犬養は、保守本流の佐藤とは相いれぬタイプの人だったのだろう。

「重要法案成立は事件捜査よりも重要」

そして、運命の日、4月21日となった。朝刊が指揮権発動となることを伝えていた。早朝、首相公邸で吉田首相、緒方副総理、佐藤幹事長らが朝食をとりながら、最終的な協議を行った。犬養法相は辞めさせないで内閣改造はせず、内閣不信任案が出ても、その成否に党の運命をかけることなどを決めた。前例のない指揮権発動で起きる混乱に対して、政府・政権党の覚悟を確認した。

犬養法相は昼ごろ、佐藤検事総長を呼び、佐藤幹事長逮捕をしばらく延期するよう書面で指示した。史上初めての指揮権が発動されたのだ。法相は直ちに記者会見した。

「事件の法律的性格と重要法案の審議の状況に鑑み、特殊例外的なものとして、国際的、国家的重要法案の通過の見通しを得るまで暫時(検事総長からの佐藤幹事長に対する)逮捕請求を見合わせ、任意捜査を継続するよう指示した」

取り囲んだ記者の質問に、犬養法相はこう答えた。

「(逮捕の延期は)重要法案成立までで、その時期は内閣と相談して決める」

「重要法案の成立が、この事件捜査よりも内閣の重要任務だと考える」

「政党内閣の下では、重要法案(教育、防衛関係)を通過させるため、幹事長の逮捕は例外的に延ばすべきだ」

「検察陣の士気にも影響し遺憾」と検事総長

これに対し、佐藤検事総長は、「前例のなかった法務大臣の権限の発動なので、今後、検察陣が捜査を続けるのに相当困難を来たすと考えられる。検察陣の士気にも影響することを考えると、(指揮権の)発動は誠に遺憾に思う。しかし、刑事訴訟法で許された手続きや方法を活用して捜査陣を督励し、所期の目的を果たしたい」と談話を発表した。

また、検事総長は記者たちに、登山に例えて、「(登頂間近の)八、九合目あたりで急に障害にぶつかったようなもので、これからは回り道をしながらよじ登らねばならない」と語った。

逮捕された海運・造船会社の社長らの取り調べが行われていた東京拘置所では、指揮権発動を聞いた特捜検事たちが無言のまま、ぼうぜんとした様子で、畳敷きの休憩室に集まってきた。この事件の「最大の人物」逮捕を目前にしていただけに、現場の担当者のショックは大きかった。夜に入って馬場義続検事正が来て、真相究明のため懸命な捜査を続けていた検事たちに、涙を浮かべて頭を下げた。

「(この場の)一同は、無念の思いをこらえ切れない一方、一度に疲れが出て、ゆっくり寝たい、風呂へ入りたいの一心で、早々にして三三五五帰途を急いだのであった」。特捜部の検事として捜査に加わった伊藤栄樹・元検事総長は自著『秋霜烈日』(朝日新聞社刊)で、こう書いている。

検察の取り調べは中断され、捜査はこうして頓挫した。検察捜査を押しつぶした指揮権は、検察庁法第14条但(ただ)し書き「法務大臣は、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる」に基づく。検察庁法の中で最も特異で難解な規定だ。

司法権と密接な関係にある「検察権」は三権分立の行政権に属し、内閣が責任を負う。法相は、事件の捜査や起訴するかの処分について、一線の検察官を直接指揮できないが、検事総長を指揮して全検察を動かすことができるのが、この指揮権だ。だが、内閣が党利党略で、自分たちを守るために行使されるべきものではない。

法相の指揮権発動を発表する佐藤藤佐検事総長=1954年4月21日(毎日新聞社/アフロ)
法相の指揮権発動を発表する佐藤藤佐検事総長=1954年4月21日(毎日新聞社/アフロ)

犬養法相が翌日に辞任

犬養法相はこの日、記者会見を終えると、午後2時過ぎ、緒方副総理に辞表を提出した。指揮権発動の当事者になったことに動揺し、辞めると言ってきた法相に対し、副総理は大声で叱った。「きみは国務大臣であろうが」。法務大臣と呼ばず、国のために務める国務大臣と言った。

法相に辞められると、内閣が犬養に無理強いしたことが明らかとなる。吉田首相は慰留して、明朝、回答することした。しかし、犬養は辞表を撤回せず、22日、内閣を去った。

指揮権発動は直ちに政治問題化して、内閣不信任案が出される。長期政権がぐらぐらと大きく揺れ始めた。

バナー写真:検察が自身の逮捕許諾を求める中、首相官邸を出る佐藤栄作・自由党幹事長(中央)=1954年4月20日(読売新聞社/アフロ)

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