戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件

指揮権発動から8カ月、長期政権に幕:戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件(6)

歴史 社会 政治・外交

前代未聞の指揮権が発動されると、国会は大荒れとなった。内閣不信任案は僅差で否決されたが、新聞の世論調査で吉田内閣の不支持率が急増し、国民の怒りが顕著になる。佐藤栄作・自由党幹事長は汚職事件での訴追は免れるが、政治資金規正法違反で起訴され、辞表を提出した。吉田茂首相は国政を放り出すかのように53日もの長期外遊に。帰国後間もなく内閣不信任案が出ると、内閣総辞職して6年(通算7年)の長期政権は幕を閉じる。

「内閣に警告する決議」が賛成多数で可決

「(指揮権発動を法相に命じた)吉田君(首相)はもはや常識を失われた。吉田君はこの議場において、正気であるか、乱心しておるかを表明せられたい」

汚職事件での佐藤幹事長の逮捕延期を犬養健(たける)法相が指示した指揮権発動の翌日(1954年4月22日)、参院本会議で緊急質問が出され、野党側は口を極めて政府を追及した。首相も負けずに反論した。

「検察庁に対してなした指揮権は、法律(検察庁法)に明らかに規定されており、法に従って発動したのだ」「私は政府に対する国民の信頼はいまだ去らずと考えるから…」と進退を検討する考えがないことを明言した。

翌23日には、参院本会議で「指揮権発動に関し内閣に警告するの決議」が賛成多数で可決された。「(今回の指揮権発動は検察庁法の)不当な運用と認める。捜査を困難ならしめ、ひいては国民の疑惑を深め政治の信用を失墜せしめることとなる。政府は、過ちを改め速やかに善後の措置をとるべきである」。政府に厳しく反省を迫る内容だ。

当時の国会勢力は、前年の「バカヤロー解散」(吉田首相が国会で質問した議員に「バカヤロー」と発言したことが発端で衆院解散となった)で、吉田の自由党が大きく議席を減らし、衆院定数466議席の過半数を割り込む199議席で少数与党に。鳩山一郎率いる分党派自由党や、保守系の改進党(重光葵総裁)の協力を得て国会運営を進めてきたが、鳩山も改進党も反吉田のため、議席を伸ばしてきた左派、右派社会党(当時、社会党はサンフランシスコ講和条約などを巡って左右に分裂していた)と組めば、いつでも政権が倒れる不安定な状態だった。

勢いに乗った野党側は同24日、吉田内閣不信任案を提出。しかし、不信任案賛成の改進党から採決欠席する24人の造反者が出て、228対208で否決された。保守合同で自民党が結成される1年前のことで、保守系議員は新党結成問題で揺れていた。内閣はこうして首の皮一枚でつながる。

佐藤幹事長を政治資金規正法違反で起訴

一方、汚職事件の捜査は指揮権発動の後、贈賄側の政界工作の中心にいた海運・造船業界の実力者、俣野健輔・飯野海運社長ら、会社幹部が次々と保釈となり、終息する。しかし、汚職捜査をつぶされた検察は最後の意地を見せ、佐藤幹事長を同28日から3回、取り調べた。

佐藤幹事長が日本船主協会と造船工業会から自由党宛てに受け取った2000万円(現在の貨幣価値で約4億円)が、党の会計帳簿に記載されていなかったので、政治資金規正法違反の立件を目指したのだ。

佐藤栄作日記、4月28日。「夕五時半から河井検事の取調べを受く。相当こまかく長時間(11時ごろまで)にわたり訊問あり。(先に逮捕された自由党本部の)会計が自白せしという二重帳簿は、当方に全然覚えなし、かかる帳簿のありし事も知らずと断言しおく」。党の会計責任者が自白した二重帳簿を幹事長が強く否定できたのは、すでに証拠隠滅があったからだという見方もある。

同6月15日に国会が閉会となり、犬養法相の後任の加藤鐐五郎法相(後に衆院議長)は、佐藤幹事長の逮捕延期指示は自然消滅したと佐藤藤佐(とうすけ)検事総長に通知した。しかし、検事総長は翌16日に、「被疑者逮捕の時機を逸した現段階においては、佐藤(栄作)氏を今更逮捕しても起訴するに足る証拠集めが望めない」と談話を発表。

だが、検察は同日、佐藤幹事長を政治資金規正法違反で起訴し、一矢を報いた。これを受けて、佐藤は幹事長の辞表を提出した。1カ月前の朝日新聞の世論調査で、吉田内閣の支持率は前年より4ポイント減って23%、不支持が12ポイント増えて48%となり、国民の信頼を失ったのは明らかだった。佐藤はその要因となった事件のけじめをつけた。ただ、自分は私腹を肥やしたのではなく、党のために働いた、という思いは捨てなかった。

佐藤検事総長は7月30日、7カ月に及んだ造船疑獄事件の捜査終結宣言を行った。71人を逮捕して、34人を起訴。造船会社から海運会社に流れたリベートは2億6000万円、うち政官界に流れたのは1億1600万円(現在価値約23億円)。佐藤幹事長の次のターゲットだった池田勇人政調会長や、土光敏夫・石川島重工社長らは不起訴となった。

造船疑獄の最終結論を発表する佐藤藤佐検事総長(左中央)=1954年7月30日、最高検察庁(共同)
造船疑獄の最終結論を発表する佐藤藤佐検事総長(左中央)=1954年7月30日、最高検察庁(共同)

検察に取り調べられた池田政調会長が幹事長に

その4日前、自由党三役の人事が決定する。佐藤の後任幹事長には池田が就任した。この人事には党内がざわついた。疑獄事件の直後に、結果として無傷だったとはいえ、検察に何度も取り調べられた池田を幹事長に据えたからだ。この時になお、「吉田学校」の優等生を重んじるワンマン首相の考えは、世間の感覚とかけ離れたものになっていた。

そして同じ1954年8月、自由党支部長会議での吉田首相の発言がまた問題となる。造船疑獄と指揮権発動について語る中で、幹事長を逮捕しようとした検察捜査を批判しながら、「新聞その他で面白半分に流説しているものがあるが、政府としては流言飛語(根拠のない情報、デマのこと)を考慮せず、法律の命ずるところによって指揮権を発動したのである」と述べた。これが、「疑獄は流言飛語」と首相が言ったと報道された。

「疑獄は流言飛語」であったかの真偽を確認するため、国会(衆院決算委員会)に9月から検事総長、東京地検検事正、主任検事が証人喚問された。今では政界捜査をする検察官が国会に喚問されることはないが、当時は珍しいことではなかった。

佐藤検事総長は首相の「流言飛語」発言について聞かれると、「(検察が)流言飛語やうわさに基づいて捜査を進めることはない。そういう批判があるとすれば、全く我々の仕事を理解しない人の言葉で、とんでもない誹謗と感ずる」と答えた。

また、議員から「(道理に合わない)指揮権の行使に対し、なぜあなたは断固として法相と闘わなかったのか」「職を賭しても、法相をいさめるべきではなかったか」などと詰め寄られた。これに対し検事総長は、「検察庁法に指揮権の規定がある現在の制度のもとでは、その発動は違法とは考えていない。しかし、『指揮権を今、発動されるのは妥当ではない』と極力、法相に進言したが、とうとう押し切られた」と説明した。

さらに検事総長は検察のあり方について、「国民の納得の行く検察でなければならぬ。そのために検察はなるべく国民に理解していただいて仕事をし、国民の信頼を得る」と述べた。

造船疑獄捜査問題を究明する衆院決算委員会。証言台は、佐藤藤佐検事総長(起立)=1954年9月6日(共同)
造船疑獄捜査問題を究明する衆院決算委員会。証言台は、佐藤藤佐検事総長(起立)=1954年9月6日(共同)

鳩山、岸ら反吉田勢力が新党結成

衆院は問題発言の本人、吉田首相の証人喚問を決めたが、外遊などを理由に拒否。混迷する国政を無視するかのように、吉田は1954年9月26日、欧米7カ国歴訪に出発した。なんと53日間の長旅で、当初は幹事長だった佐藤も同行の予定だったが、事件の後なので遠慮して、途中のパリから首相一行に合流した。

日本を長期間離れ、国政を放り出したと批判された吉田は、11月17日に帰国すると、追い詰められていく。同24日には、保守系の改進党や、自由党を除名された石橋湛山(後に首相)、岸信介(佐藤栄作の兄で、後に首相)ら反吉田勢力が集まり、「日本民主党」(鳩山総裁、衆院議員120人)を結成。岸・佐藤兄弟は、吉田に関しては意見が違った。

首班に決定し、岸信介(後方右)、三木武吉(後方中央)、石井光次郎(左)の各氏らに囲まれ大いに笑う鳩山一郎氏=1955年11月頃(西日本新聞/共同通信イメージズ)
首班に決定し、岸信介(後方右)、三木武吉(後方中央)、石井光次郎(左)の各氏らに囲まれ大いに笑う鳩山一郎氏=1955年11月頃(西日本新聞/共同通信イメージズ)

自由党は同28日、吉田総裁の勇退と、緒方竹虎副総理の総裁就任を決定し、次の国会は吉田首相のままで行くことにした。12月7日に民主、左右社会党の3党共同で内閣不信任案が上程される。もう議員の数では少数与党の自由党は勝てない。吉田は衆院解散を主張した。だが、後任総裁の緒方が反対し、池田幹事長が泣きながら吉田をいさめた。ワンマン政治は限界に達した。内閣総辞職となり、吉田長期政権が終わった。

そして鳩山内閣が誕生する。翌1955年2月の総選挙で自由党は68議席減らして112議席と惨敗し、第二党に転落。指揮権発動を行った長期政権党に、国民は厳しい審判を下した。同年11月、民主、自由両党が保守合同し、衆院議員が300人に近い自由民主党が誕生した。初代総裁は鳩山、そして岸幹事長。

吉田と佐藤は新党に参加しなかった。佐藤は指揮権発動までして逮捕から守ってくれた吉田に殉じたのだ。二人が自民党に入党するのは、吉田政権を倒した鳩山が総理総裁を退いた後の57年だった。

バナー写真:堤康次郎衆院議長(右手前、後ろ向き)に吉田内閣不信任案を手渡す岸信介・日本民主党幹事長、(左へ)浅沼稲次郎・右派社会党書記長、和田博雄・左派社会党書記長=1954年12月6日(共同)

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