戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件

内部からも出た“検察暴走”批判:戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件(7)

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通算7年の長期政権が倒れる発端となった造船疑獄事件。しかし、裁判に入ると、無罪判決が目立った。政治資金規正法違反に問われた佐藤栄作・前自由党幹事長は、国連加盟の恩赦で免訴になり、裁判は打ち切りとなる。その佐藤が指揮権発動で逮捕を免れた汚職事件も、当時の証拠では有罪証明は難しかったと捜査検事は見ていた。政権の中枢に切り込んだ捜査は一転して、政界だけでなく検察内部からも、暴走気味だった批判されることになる。

政敵の置き土産、恩赦で救われた佐藤栄作氏

第5次吉田茂内閣が総辞職する1週間前の1954年11月30日、佐藤前幹事長は主任弁護人の松阪広政元法相、「昭電疑獄」を捜査指揮した福井盛太・前検事総長ら大物弁護士と共に、東京地裁での初公判に出廷した。

佐藤の起訴事実は、自由党本部の会計責任者と共謀し、53年に船主協会、造船工業会など5団体・会社からの寄付計5500万円(現在の貨幣価値で約11億円)を党の会計帳簿に記載せず、一部は虚偽の記入をしたというもの。公判で証人として出廷した海運会社の社長は、佐藤に渡したのは党への「政治献金」だと述べ、賄賂ではないと主張した。

2年間に60回の公判が続いていたが、56年12月19日、国連加盟の日に恩赦が行われた。選挙違反や政治資金規正法違反など政治活動に関係のある違反者が対象で、佐藤は免訴となり、裁判が判決の出る前に打ち切られる。恩師の吉田を倒した鳩山一郎首相が内閣総辞職して退く前日のことで、佐藤は皮肉にも、政敵の“置き土産”に救われた。

指揮権発動と恩赦という二度の強運に恵まれた佐藤は日記に、「国連加盟実現し大赦令(恩赦)発せられ、政治資金規制令(規正法)並びに選挙違反きえる」と書いた。佐藤はそれから4年間、日記を書かなかった。最後の「きえる」の3文字から、佐藤にとって、あの事件から解放されたことが、いかに特別なことであったか、万感の思いが感じられる。

佐藤は事件に区切りを付けてから8年後の1964年に内閣総理大臣となり、師を超える7年8カ月の長期政権を築いていく。

目立つ無罪判決

この事件では34人が起訴されたが、造船契約を結んだ造船会社からのリベートを受け取り、会社の経理に入れなかったとして特別背任罪に問われた海運会社幹部の10人は無罪となった。この罪が成立するためには、会社に損害を加える意図が必要となる。しかし、海運会社幹部らはリベートを、自社のために政治献金、機密費などとして使っていたので、検察の有罪主張は全く認められなかった。

また、国会議員らへの贈収賄事件でも、一部は「儀礼的な挨拶と雑談の中での金銭授受であり、賄賂性の認識がなかった」などとして無罪判決が言い渡された。特別背任を含めた1審無罪判決の大部分は、検察が控訴できないまま確定するという結果だった。

佐藤に恩赦が与えられた1956年に検事に任官し、後に東京高検検事長を務めた藤永幸治氏は著書の中で、「この事件は、昭和電工疑獄事件の無罪率31.5%よりも低いが、それでも21.5%であり、現在では考えられない高い数字である」「当時の特捜部が勢いの赴くままに暴走しすぎた感がしないでもない」と述べている。(『特捜検察の事件簿』講談社現代新書、1998年)

実は筆者が検察担当記者だった時の特捜部長が藤永氏で、捜査検事というより、証拠判断や法解釈に詳しい学者肌の検察官だった。穏健な方だが、吉田内閣と闘った当時の特捜部への厳しい指摘に、筆者は驚かされた。

有罪立証が困難だった佐藤幹事長の第三者収賄

佐藤幹事長を逮捕しようとした事件についても、当時の捜査検事たちがその後、有罪を立証することが困難であったことを書き残している。

佐藤幹事長の容疑は、大型船建造で船会社が負担すべき融資の利子が半減された「外航船舶建造融資利子補給法」成立に関し、船主協会と造船工業会から謝礼として2000万円(現在の貨幣価値で約4億円)を自由党に供与させたという「第三者収賄」。賄賂を本人が直接受け取らず、自分と関係のある第三者に提供させるものだ。

同協会、工業会は、佐藤が政権党の幹事長だから、金を贈ったと見るべきだろう。しかし、任意団体の政党の幹事長には職務権限はなく、収賄罪は適用されないのだ。しかも、物的証拠も乏しい。だから、特捜部は佐藤を逮捕して、検察の主張に沿った自白を取りたかった。

後の検事総長も造船疑獄捜査幹部に不信感

だが、当時の捜査陣には捜査方針に疑問を持つ特捜検事もいた。後に検事総長まで上り詰めた伊藤栄樹氏は、退官後に自著『秋霜烈日』(朝日新聞社刊、1988年)で事件を振り返ってこう書いている。

「この事実(第三者収賄)では、党に対する政治献金みたいなもので、佐藤氏が私腹をこやしたわけでもなく、迫力がない。他に佐藤氏が個人の預金口座に入れた口がいくつかわかっており、中にはこれまで名前の上がっていない海運会社からの分もあったのだから、どうしてそっちで逮捕しようとしなかったのだろう。今度の指揮権発動は、逮捕事実の選び方を間違えたことによるのではあるまいか、などと思ったものであった」

さらに、伊藤氏は捜査幹部にも不信感を持っていた。「河井信太郎主任検事との捜査観の相違とでもいうべきもの、それと、判事出身の佐藤藤佐(とうすけ)検事総長の人のよさに、(私は)相当な不安を抱いていたのである」

「河井検事は、たしかに不世出の捜査検事だったと思う。しかし、唯一の欠点といってよいと思うが、氏は、法律家とはいえなかった。法律を解釈するにあたって、無意識で捜査官に有利に曲げてしまう傾向がみられた」

「佐藤検事総長は裁判官の出身であったため、(検察の)捜査会議の欠点を十分ご存じなく、強気の意見に引きずられがちであった」

検事総長に就任し、記者会見に臨む伊藤栄樹氏=1985年12月19日、東京・霞が関(時事)
検事総長に就任し、記者会見に臨む伊藤栄樹氏=1985年12月19日、東京・霞が関(時事)

このほかにも、佐藤幹事長の第三者収賄事件で取り調べた関係者の調書などが不十分で、「当時の証拠関係では、もし裁判になっていたとしても、有罪に持ち込めたかどうか」と述べている元検察幹部もいる。

指揮権発動でこの事件の捜査は、突然終わった。伊藤氏は、その時の思いを率直にこう書き残した。

「私には、無念の思いに混じって、ホッとする気持ちがあることも否定できなかった」。佐藤幹事長の後に、池田勇人政調会長ら何人かの国会議員の逮捕が予定されており、一体この事件はどこまで発展するのか、主権回復してまだ日が浅い日本の政治はどうなるのか、「漠然とした不安が胸にあった」からだ。

初の指揮権発動で、検察もまた救われたのだった。

バナー写真:造船疑獄の裁判が行われる間、故田中義一元首相の27回忌で珍しく兄弟顔を合わせた岸信介(左)と佐藤栄作=1955年9月29日、東京・丸の内の東京会館(読売新聞社/アフロ)

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