被爆75年・ヒロシマから

被爆者の「生きた証」を残したい:3世代の家族写真を撮影する堂畝紘子さん

社会 地方

広島・長崎の原爆被爆者と子ども、そして孫――。3世代の家族写真撮影を「被爆体験の継承の場にしたい」と活動する女性写真家がいる。広島市の堂畝紘子(どううね・ひろこ)さん(38)。これまでに90家族の記録を残し、各地で写真展を開催している。

7月3日、東京・汐留の高層ビルにあるロビーギャラリー。堂畝さんは母、娘の3人で、黙々と翌日から始まる写真展の設営作業に追われていた。タイトルは『生きて、繋いで』。被爆三世とその家族写真を通じ、戦争と平和の意味を考え、人間が生きることの尊さを訴えるプロジェクトだ。

新型コロナウイルスの感染拡大により、5月に大阪市、広島県呉市で予定されていた写真展はいずれも中止に。福岡県での7月の写真展も延期となった。「外出自粛の風潮が続き、どのくらいの人々が写真を見に来てくれるのか。PR活動もできないままスタートしますが、今はできることをやるしかありません」とマスク姿で語る。2020年は被爆75年の節目の年。今回、東京では日本人が戦争の過去を振り返る8月を、まるまる展示期間に充てることができた。

東京・汐留の写真展会場。設営は小学生の娘さんもお手伝い(右)
東京・汐留の写真展会場。設営は小学生の娘さんもお手伝い(右)

被爆体験を「他人事」から「我が事」に

なぜ「被爆三世」なのか。そこには、原爆投下から70年以上もの時が過ぎ、「われわれの世代は戦争、そして平和への関心をなかなか持てない」という堂畝さんの問題意識がある。

「例えば、被爆証言をする語り部さんのお話をわが事として受けとめたり、関心を持って被爆地を訪れることは、戦争を知らずに生きてきた私たちにとって簡単なことではないと感じています。それでは、関心を持ってもらうにはどうしたらいいのか。一人ひとりの身近なところにきっかけがあればいいのではないかと考えました。家族のことは自分に引き寄せて共感できるし、語り部をされていない方の話を聞けるのは家族だけかもしれません」

写真のモデルは友人・知人の紹介だったり、インターネットを通じての応募だったり。撮影時にはおじいちゃんやおばあちゃんの被爆体験を、孫である被爆三世に語ってもらう時間をつくっている。語ってもらった被爆体験は写真展で、キャプションに添えて展示する。

被爆三世の夫婦と、2人のそれぞれの被爆者の祖母、母やきょうだい、子どもらが一堂に会し、2016年11月に原爆ドーム対岸で撮影。写真をプリントして「このおばあちゃん2人が生きていたからこそ、これだけの命がつながったんだなと実感した」(堂畝さん)。撮影活動の一つの転機になったという作品。

<堂畝さんの作品から①>

被爆三世の夫婦と、2人のそれぞれの被爆者の祖母、母やきょうだい、子どもらが一堂に会し、2016年11月に原爆ドーム対岸で撮影。写真をプリントして「このおばあちゃん2人が生きていたからこそ、これだけの命がつながったんだなと実感した」(堂畝さん)。撮影活動の一つの転機になったという作品。

手探りで始めた撮影

高校時代に平和記念式典のボランティアをするなど、「戦争と平和」の問題にずっと関心を持ってきた。

「広島で育ったので、例えば銭湯に行くとおばあさんたちの背中にケロイドがあるのは当たり前でした。会うたびに自分のケロイドを私に見せる親戚もいて、小さい時は『嫌だな、恐いな』と思っていた。しかし、小学校3年生で参加したピースキャンプで考えが変わった。初めて原爆以外の『戦争の話』を聞いて、『他人事ではいけないのではないか。目をそらすのはやめよう』と感じるようになりました」

高校卒業後に上京し、カメラマンのアシスタントや写真店の店長を経験。休暇を取っては、日本各地の戦争遺跡の撮影を続けた。2011年の東日本大震災を機に故郷に戻り、出張撮影サービスの「こはる写真館」を開業した。

被爆70年を迎えた2015年。「いまこそ平和に関わる活動をしたい」と思いながら、堂畝さんは「私ができることは何だろうか。撮影すべきテーマは」と悩んでいた。焦りだけが募る中、高校時代の友人の一言が背中を押してくれた。「私を撮ってみる?被爆三世の私と家族を撮ってみたら、何か見えるかもしれないよ」

手探りで始めた撮影活動。当初はなかなか視点が定まらず、「ただの家族の集合写真のようだ」「もっと被爆者の怒りや悲しみを撮れ」などと酷評されたことも。しかし、撮影を重ねるうちに見えてきたこともある。

「祖父母が話をしている間に、家族や孫の表情がはっきりと変わる瞬間がある。遠めからのファインダー越しでも、次第にそれが読み取れるようになってきた。世代を越えて、被爆体験が『孫にとってもわが事になった』瞬間なのだと思う。そんな時にやりがいを感じます」

5年間続けて、「孫世代が、いかに上の世代の話を聞いていないかを痛感した」とも。もちろん家族の関係は人それぞれ。戦争の話を聞きたいと思っていても「軽々しく聞いていいのか」と葛藤する孫世代もたくさんいた。最初は「家族で話をするきっかけだけつくれれば」と思っていたが、今はもう少し踏み込んで、撮影の時に家族の対話の時間を多くとるよう心がけている。

8月6日に広島、9日に長崎で2度被爆した山口彊(やまぐち・つとむ)さん(中央パネル)とその家族=2017年8月。山口さんは90歳で語り部活動を始めて原爆の悲惨さを世に訴え、2010年に93歳でこの世を去った。家族は「祖父の願いを継承して、私たち被爆者家族は核兵器廃絶と世界恒久平和を発信していきます」とメッセージを寄せている。

<堂畝さんの作品から②>

8月6日に広島、9日に長崎で2度被爆した山口彊(やまぐち・つとむ)さん(中央パネル)とその家族=2017年8月。山口さんは90歳で語り部活動を始めて原爆の悲惨さを世に訴え、2010年に93歳でこの世を去った。家族は「祖父の願いを継承して、私たち被爆者家族は核兵器廃絶と世界恒久平和を発信していきます」とメッセージを寄せている。

住吉橋(広島市中区、爆心地から1.4キロ)で、祖母の遺影とともに立つ孫=2019年3月。当時16歳の祖母は動員先の工場で被爆。家族を探しに市中心部に向かう際、この橋で川を流れる多くの死体を目撃したことを後に手記に残した。

<堂畝さんの作品から③>

住吉橋(広島市中区、爆心地から1.4キロ)で、祖母の遺影とともに立つ孫=2019年3月。当時16歳の祖母は動員先の工場で被爆。家族を探しに市中心部に向かう際、この橋で川を流れる多くの死体を目撃したことを後に手記に残した。

「生きている証し」を記録する

「私たちは、被爆者のおじいちゃん・おばあちゃんが体験した記憶を直接聞くことができる最後の世代です」――。撮影プロジェクトを説明する際、堂畝さんはこのように話す。被爆体験を継承していく活動でありたい。しかし一方で、最近は「それよりも、とにかく家族の写真を撮り、記録に残すことを優先してもいいのでは」とも感じているという。

せっかく先方が申し込んでくれながら、祖父母の病気が悪化したなどの理由で撮影がかなわなかったケースが最近相次いだことが理由だ。この5年間で撮影した家族の中でも、その後に亡くなってしまった被爆者は少なくない。

「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に写っている、自分もその写真の中にいるというのが、とても大事なことだと思うのです。その写真から、命のつながりを実感できる。また、被爆者の生きている証しを残すことで、それが10年後、20年後に活きてくるかもしれません」

「一つひとつの出会いの中で、勉強させてもらった。撮影を通じて家族が変わっていく様子を見ながら、私も日々変わっていく」と話す堂畝さん。「命を記録する」ことを信条に、これからも撮り続ける。

「被爆三世これからの私たちはproject」ホームページ

http://hibaku3sei.tiyogami.com/info.html

 

東京での写真展詳細は次の通り

写真展『生きて、繋いで -被爆三世の家族写真-』

  • 期間:2020年7月4日-9月7日
  • 会場:共同通信社本社ビル 汐留メディアタワー3階 ギャラリーウオーク
    東京都港区東新橋1-7-1
    (ゆりかもめ、都営大江戸線・汐留駅からすぐ。JR新橋駅から徒歩5分)
  • 時間:平日/9時から19時、土日祝/10時から18時

バナー写真:堂畝紘子さん(撮影・石井雅仁)

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