犬山紙子対談「この女性(ひと)に会いたい」

森田富美子(SNSで戦争体験を発信する長崎被爆者): 「自分が見て体験したことを伝えていくのが私の務め」: 犬山紙子対談 第10回

社会 歴史

コラムニストの犬山紙子さんが、各分野で活躍をされている女性と、さまざまなトピックスについて語り合う本連載。今回は自らの被爆体験をツイッターで発信し続け、3万人のフォロワーを持つ93歳の森田富美子さん(@Iam90yearsold)にご登場いただきました。原爆の日を前に、森田さんの被爆体験や、未来への想いについて伺いました。

森田 富美子 MORITA Fumiko

1929年6月、長崎県生まれ。45年8月9日、16歳の時、爆心地から10キロほど離れた軍需工場で「報国隊」として働いていたとき、原爆が投下され、両親と幼い弟たち3人を失った。2019年6月、90歳になってからツイッターのアカウントを開設。現在、「わたくし93歳」というアカウントで、「#戦争反対」の投稿を続けている。フォロワーは3.2万人

引っ越した先が爆心地に

犬山 私は今40歳で、戦争を経験しておらず、祖母にも戦時中の話を聞いたことがありませんでした。ところが森田さんのツイッターでの戦争体験や、ロシアのウクライナ侵攻についての発信を見て、私ももっと知らなくてはいけないと気付かされました。

森田 自分の体験を語ることはつらいことでもありますが、伝えていくことが私の務めだと思っています。

犬山 森田さんは長崎で被爆をされたとうかがっています。

森田 当時、私は16歳の女学生でした。あの日は「報国隊」として友人たちと造船工場で部品の製造などに従事していて、家族は長崎市駒場町の実家におりました。駒場町は港や工場とも離れていましたので、爆撃されることはないだろうと引っ越したばかりでした。

犬山 確かに地図で見ても、爆弾が落とされる可能性は低そうに見えます。

森田 別荘地帯と言われるような場所でしたから。ところが実家からわずか200メートルほどのところに原爆が落ちたのです。空襲警報が解除されて、人々が自宅に戻った直後に投下されたとのことでした。火の手が上がる実家の方向を見て家族のことが心配で。

工場から実家までは、燃えさかる街を避けて、遠回りをしながら、一晩中必死に歩いて帰りました。ところが自宅にたどり着くと、父は立ったまま門柱に寄り掛かるような状態で真っ黒焦げになっていました。家に入ると、母親は小学1年生になる末弟をしっかりと抱いて、茶の間では2番目の弟(小学3年)がかがんだ状態で黒い塊になって死んでいました。黒焦げなので顔の判別もできなくて、燃え残っていた小さな端切れで、これが弟なんだと分かるような状態でした。長弟(小学5年)は、いつものように友だちと川にカニ取りに行っていたのでしょうか、見付けることはできませんでした。

唯一、おびえて防空壕の中から出て来られなかった妹だけが助かって、私を見つけるなり「みんな死んだ、みんな死んだ」と言いながら、駆け寄ってきました。後から聞いたら、爆撃直後、妹は父が生きているように見えたらしく、「お父さん、逃げよう」と声をかけたそうです。すると通りかかった男性が「危ない」と手を引いて一緒に逃げてくれた。直後に後ろからものすごい勢いで火の手が迫ってきたそうです。

森田冨美子さん
森田富美子さん

犬山 考えただけで、恐ろしいことです。

被爆直後の凄惨な光景

森田 そのまま私は妹の手を引いて別の街に住んでいた叔父の家まで歩いて行きました。

犬山 原爆直後の街を子供の足で歩いて行くのは大変でしたでしょう。

森田 そうですね。それでも翌日には叔父と一緒にリヤカーを引いて、実家に戻りました。道中、ものすごく腫れ上がった馬がいたり、遺体が並べられていたり、街は壊滅的な状態で、私も叔父もただただ黙って歩いたのを覚えています。実家に着いた後、火葬だけはしたいと思い、家族を順番にトタン板に乗せて運んで、木を集めて火をつけました。今思えば16歳の子によくそんなことができたなと思うのですが、あのときは無我夢中でしたね。火葬が終わって手を見たら、血やゴミで真っ黒だったのですが、私に残されたものはこれだけしかないと思って、手や足に一生懸命その汚れをすり込みました。

犬山 残されたものが手についた血やゴミ……。原爆の恐ろしさをそんなところからも痛感させられます。16歳の子がそれだけのことをしなくてはいけないのも、つらいことですね。

森田 ただ、なぜか当時、涙は出ませんでした。泣くようになったのは、結婚をしてから。トイレやお風呂場でふっと思い出して、急に涙が出るんです。いろいろな人が「大変でしたね」と言ってくださって、自分ではそんなふうに感じていないのにと思っていましたが、今思えばやはり大変な状況ですよね。

犬山 本来、自分の大事な家族が亡くなった話を初対面の人に話すのはつらいことです。ただ、それでも伝えなければならないという森田さんの原動力はどこにあるのでしょう。

森田 伝えなければならないことが数限りなくあるからです。例えば、戦時中、長崎港には三菱重工の造船工場がありまして、そこで戦艦「武蔵」を作っていたそうです。父は三菱の関連会社に勤めていたこともあって、当時、わが家の空き部屋に、軍曹さんや水兵さんらを何人か預かっていました。毎晩、みんなで音楽を流して歌ったり、一緒に食事をしたりと、それはもうにぎやかで。そして武蔵が完成した出発の日、玄関先に並んだ彼らは母に向かい、「お母さん、ありがとうございました!」と敬礼をし、母もきちんと敬礼を返しました。しかしその後、崩れるようにしゃがみ込み、二度と顔を上げることはありませんでした。門まで送って行くつもりだった私は、ただ嗚咽(おえつ)する母の背中と去って行く5人の背中を見ていました。

犬山 それは死の覚悟を持って出征されたということでしょうか?

犬山紙子さん
犬山紙子さん

森田 本当のところは分かりませんが、そうだったのではないでしょうか。7年ほど前、沈没した武蔵が見つかったとテレビ番組で放送された時には、彼らを思い出して、思わず手を合わせていました。そのような人々がいたということを、マスコミや私たちがきちんと伝えていかないと、彼らがかわいそうだと思います。

戦争を知らない人たちに伝えたいこと

犬山 確かに口にしなければ、人々の痛みは知られることもなく、なかったことになってしまいます。

森田 最近思うのは、今の閣僚もみんな戦争を知らない人たちばかりですよね。全国各地に原発のある日本は、もし核戦争になれば全滅すると私は思っています。そうなったら政治家は自分も死ぬのだということを考えているのかと。

犬山 投票する人たちも戦争を知らない人が大多数になっています。実際に核の恐ろしさを目の当たりにしている森田さんが、核戦争が起きたら日本なんか全滅するとおっしゃている、その言葉が本当に重いし、安易に核を肯定する流れに歯止めをかけるものだと思っています。

森田 以前、ある大臣が「自分の子供を戦争に出したくないですよね。だったら軍隊を作りましょう」という趣旨のことをおっしゃっていたんです。

犬山 でも、軍隊の人も誰かの子供ですよね。

森田 そうですよね。さらに別の議員も「有事の際には、核の持ち込みを容認すべき」と発言をされた。何も知らないで、そういうことを言うのかと私は腹が立ちました。

犬山 核の被害を自分ごととして考えなければいけないと強く思います。そのためにも、森田さんのお話がすごく大切。今、森田さんが戦争を知らない人たちに知ってほしいこと、してほしいことがあれば教えてください。

森田 私が政治家に思うのは、まず他国の人たちと外交を通して仲良くしていただきたいということです。そして、子供たちにも友達と仲良くしてほしいということです。

犬山 日々仲良くすることの延長線上に、暴力ではなく、外交で解決していく考えを持った大人が育つということ、私も感じます。

真珠湾とNY同時多発テロ現場へ慰霊の旅

森田 よく「アメリカが憎くはないか」と聞かれましたが、私はそういう考えを持ったことは一度もありません。ハワイでは真珠湾にお参りに行きました。私のツイッターのアイコンは、9.11同時多発テロが起きた3年後の2004年、ニューヨークのツインタワー跡地を慰霊に訪れたときに自由の女神の格好をして撮ったものです。それを見て「誰に家族をやられたのか、分かってないんじゃないか」と書かれたこともありました。だけど理不尽に亡くなった人たちを前に、敵も味方も関係ありません。あの写真は平和を願う私の姿なんです。

犬山 2016年にオバマ大統領(当時)が広島で、安倍首相(当時)が真珠湾で祈られたことがありました。亡くなった方に心を寄せて、お互いに祈り合う姿勢は、とても大切だとお話を聞いていて感じました。こうやって森田さんの声がツイッターやティックトックなど、若い人たちに伝わりやすい媒体で届いているということはすごく希望が持てます。

森田 2020年に毎日新聞映像部の取材を受けた際、動画を短く編集してティックトックにアップして下さったんです。そうしたら「すごいコメントが入っています。すぐに見てください」と電話が入って。見ると「私は16歳です」という女の子たちからのコメントがたくさん入っていました。

犬山 16歳というと、森田さんが被爆をされた年齢ですよね。

森田 そうなんです。最初は彼女たちに「ありがとう。戦争を起こさないで」とお返事を書いていたのですが、その日のうちにコメントが1000を超えて、追いつかなくなってしまって。

犬山 みんな心の中には何かを秘めているんですね。そして森田さんは、そういう若い学生の方々とツイッターでやりとりをされていて。森田さんが分け隔てなく、そこにいる人の幸せを願うから、若い方にも思いが伝わるのでしょうね。これからの活動も応援しています。今日はありがとうございました。

対談まとめ:林田順子 撮影:野口直人

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