占領期最大の恐怖「公職追放」

占領期最大の恐怖「公職追放」:終戦の翌年、正月早々の衝撃(1)

社会 政治・外交 歴史 暮らし

日本は敗戦後、勝者の占領軍に7年間支配された。占領期の前半に日本は史上、初めての異民族による公職追放(パージ)を経験。職業軍人をはじめ、「好ましくない人物」と判断された政治家、経済人、言論人、地方の実力者ら約21万人が追放され、社会的制裁を受けた。戦勝国が行う粛清に全国の人々が脅えたのだ。しかし、荒療治のパージがなければ、戦後の非軍事化と民主化は実現しなかったともいわれる。語られなくなった公職追放の実態を、連載で見ていく。

ポツダム宣言に基づくパージ

終戦(1945年8月15日)の20日前、米英中3か国の首脳が日本の戦争終結条件を示した「ポツダム宣言」を日本に発した。日本が受諾したこの宣言の第6項に、「無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序が生まれない。そのため、日本国民を欺き世界征服に乗り出す過ちを犯させた者を永久に除去する」(意訳)とある。この規定に基づき、GHQ(連合国軍総司令部)によるパージが行われた。


増田 弘氏
政治学者。立正大学名誉教授。専門は、日本政治外交史・日米関係・安全保障論。1947年神奈川県生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒業、同大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。著書に『公職追放』(東京大学出版会、1998年)、『マッカーサー』(同、2009年)など。

公職追放研究の第一人者で、多くの元GHQ担当官とも米国で面談し、この分野の著書も多い増田弘・立正大学名誉教授は、パージの意義をこう話す。「公職追放なくして戦後民主主義は考えられない。パージは日本人を、戦争推進に関与・協力した軍国主義タイプと、平和国家として日本が再生するのに好ましいタイプの2つに切り分ける“ナイフ”だった。民主化の推進力となった公職追放は、新憲法制定や教育改革などと並んで日本変革に重大な足跡を残した」

米国は戦時中の43年から、日本降伏後の対日戦後計画に取り組んでいた。武装解除のほか、日本の戦争を主導した戦犯の逮捕、大政翼賛会などの解散に加え、戦争政策に関与した役人や好戦的国家主義者らを公職や私的企業から締め出す「公職追放」の構想をまとめる。

45年8月末、GHQトップの連合国軍最高司令官に任命されたマッカーサーが、絶対的権力者として日本に上陸した。マッカーサーとその幕僚たちは、米政府の構想を実行していく。

GHQの標的となった内務省

昭和天皇とマッカーサーの初めての会見が行われた1週間後、二人並んだ写真に日本人の多くが大きなショックを受けていた頃、マッカーサー司令部が突然の発表を行う。終戦からまだ40日しかたっていない45年10月4日、GHQは日本政府に、治安維持法や特別高等警察(特高)などの廃止、内務大臣や警保局長、警視総監、各道府県警察部長(本部長)、特高全職員らの罷免を命じた。

マッカーサー連合国軍最高司令官と天皇陛下(1945年9月27日、東京・アメリカ大使館)=時事通信
マッカーサー連合国軍最高司令官と天皇陛下(1945年9月27日、東京・アメリカ大使館)=時事通信

これにより、内相や内務省の警察の首脳、特高職員ら約6000人が一斉に辞めさせられた。天皇とマッカーサーの写真を掲載しようとした新聞を内務省が発禁処分とし、それをGHQが怒りを込めて覆したことも関係していた。当時、最有力の官庁だった内務省はGHQの標的とされ、後日、解体されていく。

東久邇内閣は終戦直後に、皇族の東久邇宮(最前列)を首班としてスタートしたが、50日足らずで総辞職した=共同通信
東久邇内閣は終戦直後に、皇族の東久邇宮(最前列)を首班としてスタートしたが、50日足らずで総辞職した=共同通信

特高パージはまだ公職追放の前触れに過ぎないが、この指令で終戦直後に始まったばかりの東久邇内閣が崩壊した。首相の東久邇宮稔彦(なるひこ)王は皇族(当時)で、「全国民が総懺悔(ざんげ=悔い改めること)するのが我が国再建の第一歩」と「一億総懺悔」を訴えていた。しかし、首相はGHQの突然の指令に納得できず、抵抗の意地を示して総辞職したのだ。GHQはさらに同月30日、教職パージを命じ、これで軍国主義的な教職員約7000人が追放された。

当時の日本にはGHQの動きに賛同する者は少なく、占領軍に非協力的だった。これに不満だったGHQは、同11月に日本軍の武装解除がほぼ完了すると、近づく総選挙の前に「好ましからざる人たち」の一掃を計画する。これで、日本中が震え上がるのは、年が明けてのことである。

GHQが考案した追放者範囲を広げる規定

1946年1月1日、久しぶりに戦火を恐れることのない正月を迎えた。昭和天皇は年頭に当たり、「新日本建設に関する詔書」を発表し、現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定した(人間宣言)。そして同1月4日、ついにGHQから日本政府に「公職追放令」(第1次)が通達された。

追放の該当者は、A項が戦争犯罪人、B項が陸海軍軍人、C項は超国家主義・暴力主義者、D項は大政翼賛会指導者、E項は海外金融・開発機関の役員、F項が占領地の行政長官、G項はその他の軍国主義者や極端な国家主義者。追放の対象となる在職期間は、日中戦争の発端とされる盧溝橋事件の起こった1937年7月から、終戦の45年8月までとされた。

該当者の対象項目で問題なのがG項で、「軍国主義政権反対者を攻撃した者。言論、著作、行動により好戦的国家主義や侵略の活発な主唱者たることを明らかにした一切の者」などが含まれる。

「G項は追放に該当するか、白か黒かを判定する時に、いかようにも判断できる項目で、追放者の範囲を広げるため、GHQが考案したものだ。G項が魚のすくい網のような効果を発揮して、後に首相になる鳩山一郎や石橋湛山ら大物政治家らも、これで次々と追放されることになった」と増田氏は説明する。

追放者の烙印をおされると、公職から追放され、退職金も恩給ももらえない。政治家であれば政治活動が禁止され、経済人なら会社にも入れず、言論人は言論活動ができなくなった。

日本のパージ政策は、先に降伏したドイツでの非ナチス化政策をモデルとした。ドイツでは、ナチス党員ら追放者に対して重労働、財産の没収、市民権の剝奪など刑罰的な制裁を科した。日本ではそこまで厳しくなかったとはいえ、周囲から冷たい視線を浴びて、いつまで追放されるかわからず、「塀のない監獄」に長く入っているようなものだった。さらに、ドイツにはなかった独特のG項があるので、すねに傷を持つ日本人はおびえた。

「人間宣言」直後の昭和天皇の苦悩

人間宣言したばかりの昭和天皇も、GHQ指令に苦悩しておられた。指令の内容を知った時の天皇の様子を、藤田尚徳侍従長(元海軍大将)が自著の『侍従長の回想』に書き残している。

陛下「ずいぶんと厳しい残酷なものだね。この通りに実行したら、今まで国のために忠実に働いてきた官吏その他も、生活できなくなるのではないか。藤田(侍従長)に聞くが、これは私にも退位せよというナゾではないだろうか」。真剣なおたずねであった。

「マッカーサー元帥がどう考えているか、幣原総理大臣に聞かせてみようか」。陛下は思いつめた表情をなさった。

侍従長は緊張しながらこう答えた。「それはなさらぬ方がよろしいと存じます。もしも幣原首相がマッカーサー元帥にご退位のことを聞けば、元帥の返事はイエスかノーか二つしかございません。ご退位の可能性が二分の一はございます。元帥が意見を明らかにすれば、占領下においては引き込みがつきませぬ」

陛下「そうか、その考えもあるな。では幣原に聞かせるのはよそう」

退位して、一身が楽になるというためではない。国民のため、日本再建に役立つのならば、戦争の責任をとって退位する覚悟、これが陛下のご心境であった。

公職追放指令が天皇の退位問題とからんで、昭和史が大きく変わったかもしれない瞬間だった。

この日夕、昭和天皇は石渡荘太郎宮内大臣から退任の申し出を受けた。石渡宮相が元大政翼賛会事務総長だったことで、追放指定の該当者となったからだ。藤田侍従長も後日、海軍の正規軍人で海軍次官だったことなどで追放該当のため退任。この時のことを藤田侍従長は前著で書いている。

私(侍従長)が石渡宮相に先手を打たれたことを申し上げると、陛下はやはり寂しい表情をなさった。

「宮中で働いている者にも該当者は少なくないであろうが、急にすべてが去っては、疑惑を生じる向きもあろう」

天皇はこうして側近を次々と失っていった。

6閣僚が追放該当で内閣崩壊の危機

公職追放指令の激震はなおも続き、内閣が大混乱する。同9日にマッカーサー連合国最高司令官と面談した吉田茂外相は、内閣閣僚に内相、文相ら6名の追放該当者がいることを告げられた。東久邇内閣を継ぎ、73歳の幣原喜重郎(外務省出身)を首班とした幣原内閣は、またしても公職追放で内閣総辞職の危機を迎えた。憲法改正に取り組んでいたので、担当の松本烝治国務大臣(元満鉄監事が追放理由)を除く5閣僚を入れ替えた改造で、ようやく危機を乗り切った。

幣原喜重郎(前列中央)内閣はGHQの公職追放指令で6閣僚が追放該当となり、崩壊の危機に=共同通信
幣原喜重郎(前列中央)内閣はGHQの公職追放指令で6閣僚が追放該当となり、崩壊の危機に=共同通信

同17日、さらに衝撃的な記事が新聞に掲載された。昭和天皇の弟宮3方をはじめ、東久邇前首相(元陸軍大将)ら皇族15方が公職追放の指定該当者に含まれることが報じられた。終戦まで多くの男性皇族は、軍歴があったからだ。東久邇前首相らは47年に皇籍離脱後、公職追放となった。

こうしてパージの波紋が拡大していく。1年後にまた、さらに広範囲な追放が実施され、全国で100万人もの国民が大きな影響を受けることになる。
(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:米軍艦ミズーリ号上で行われた降伏文書調印式(1945年9月2日)=共同通信

昭和天皇 GHQ マッカーサー元帥 公職追放 幣原内閣 東久邇内閣 増田弘