占領期最大の恐怖「公職追放」

占領期最大の恐怖「公職追放」:朝鮮戦争でマッカーサー解任、進むパージ解除(5)

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第1次公職追放指令(1946年1月)から2年半がたった48年5月、GHQは冷戦の本格化を重視する米本国の意向を考慮して、追放の拡大を終結させた。しかし、20万人を超える追放者が自由になるとの日本側の期待は裏切られた。「追放政策は終結したが、追放解除は別問題だ」と、マッカーサー連合国軍最高司令官が認めなかったからだ。50年からの朝鮮戦争で事態は急変。翌年にマッカーサーが解任されると、追放解除が一気に進む。

米国政府に抵抗するマッカーサー

マッカーサー説得のため、1948年3月に来日した米国務省政策企画室長のジョージ・ケナンは、帰国後も対日パージの終結に向け、積極的に動いた。同5月、英外務省や駐米英大使館の幹部と会談し、「日本人を不快にさせ、心理的不安感をもたらすパージと戦犯裁判を極力短期間で終了すべき」と説いた。米英中ソの4国で構成される日本占領管理機関「対日理事会」の英国にも、パージは主要な戦争責任者に限定すべきだと理解させたのだ。

GHQが出した第一次公職追放指令の原文コピー(1946年1月4日、ポツダム宣言の内容、追放該当者の分類などが書かれている)=増田弘名誉教授提供
GHQが出した第一次公職追放指令の原文コピー(1946年1月4日、ポツダム宣言の内容、追放該当者の分類などが書かれている)=増田弘名誉教授提供

同じくケナンとともに来日してマッカーサーを説得したドレイパー陸軍次官は同6月、マッカーサーにパージの緩和など、理解を求める文書を、かなり気遣った表現を多用して送った。しかし、マッカーサーからの返信は予想を超える厳しい反論だった。

公職追放研究の第一人者で、米国立公文書館で機密文書を調べた増田弘・立正大学名誉教授はこう説明する。「マッカーサーは、当初厳格なパージを命令しながら、今度は穏健なパージを命じるワシントンの豹変ぶりをなじった。日本民主化の旗手を任じるマッカーサーからすれば、民主化達成のためのパージ政策をたやすく撤回させるようなワシントン要人たちは許せなかった。このマッカーサーの抵抗は、ワシントンの岩盤を揺るがせた」

日本の改革よりも、安定と経済的自立の路線がワシントンの総意として定着していたので、マッカーサーの反論は認められなかった。ヨーロッパでは「ベルリン封鎖」、アジアでは朝鮮半島に分裂国家が誕生し、中国も共産党国家が樹立されつつあり、冷戦が世界的規模で広がっていたからだ。マッカーサーが大統領候補となる可能性も消えていた。

追放解除を示唆する米陸軍省

この年(48年)10月が占領期の転機となる。日本では、GHQに歓迎された社会党委員長首班の片山哲内閣が党内の内部対立などで退陣(同年2月)し、その後を継いだ中道の芦田均内閣が疑獄「昭和電工事件」で副総理が逮捕されたため総辞職。そして、保守政権の第2次吉田茂内閣が成立した。

また、米陸軍省がマッカーサーに、①旧陸海軍の大佐以下の将校②大政翼賛会などの役員③戦時中の東条政権下での「翼賛選挙」の推薦候補者――らの追放解除について見解を求める文書を送った。明らかに公職追放を解除せよという本国からの示唆だった。

だが、マッカーサーは再び激しく反論。「アメリカが単独で実施しようとしているパージ政策の転換、つまり追放解除は、ソ連を含む連合国全体の合意を得てから遂行すべき」と強調した。

こうしたことが続き、東京(GHQ)とワシントン(米政府)との激論が展開されたが、本国政府の冷戦重視派が勝った。政治的敗北を喫したマッカーサーはワシントンに正面から反論するのをやめ、沈黙を守りながら、日米両国政府が進めたい追放解除を凍結させた。このため、吉田政権が追放者のパージ解除を何度も決定しても、マッカーサーは認めなかった。いらだったワシントン政府は、マッカーサーを帰国させ、解任する案を検討するほど、深刻な事態となった。

GHQ内のパージ推進派が後退

GHQ内でも大きな動きがあった。日本再生の占領政策を担当し、公職追放を推進していた民政局(GS)の中心人物、ケーディス次長が48年12月に帰国した。政界、GHQ要人を巻き込む疑獄「昭和電工事件」で、ケーディスは高額な接待や元子爵夫人とのスキャンダルで、捜査対象になっていた。

ケーディスは保守政権が再登場するのを嫌ったが、GHQ内の反対勢力で日本の旧指導層の温存を図る情報・治安担当の「参謀第2部」が再び保守内閣を成立させるため、この事件を利用したとも言われている。リーダーを失った民政局は、それ以後、急速に発言力が弱まっていく。

対日講和で大統領特使のダレス来日

追放解除は凍結のままだったが、49年秋からワシントンでは対日講和の動きが活発化してきた。この問題の責任者として国務省顧問で大統領特使のダレスが50年6月、来日した。 

マッカーサーはダレス来日の直前の6月6日、共産党関係者の追放を日本政府に指令し、「レッド・パージ」が始まった。パージ対象がこれまでの軍国主義、全体主義の右翼から、共産主義者などの左翼に移行し、公職追放は「逆コース」に転じたのだ。

ダレス来日の同じ航空機には、米誌「ニューズウィーク」で反マッカーサー・GHQのキャンペーンを行ったカーンが乗っていた。「カーンはすでにダレスにも食い込んでいた。講和条約に関して二人は同じ意見で、日本は占領軍が成立させた諸法令を廃止、修正する権利が与えられ、『公職追放の停止』も認められる、と考えていた」(増田名誉教授)

米政府にメッセージを送った昭和天皇

昭和天皇がダレス訪日の機会をとらえて動かれた。同6月14日、天皇の側近で宮中グループの中心だった松平康昌式部官長と約1時間半にわたり話した。天皇は同24日にも松平と面会した。

松平は同22日、反マッカーサー記事を書いた「ニューズウィーク」東京支局長のパケナム邸で、幅広く日本人の講和論を聴取したいというダレスのために催された私的夕食会に出席していたのだ。この会にはカーン、パケナムのほか、日本側から大蔵、外務省、警察の担当官も参加した。松平はダレスが離日する前日の同26日にもパケナムを訪問した。

ダレスは後日、「パケナムから天皇の伝言を託された」との記述を含む訪日報告書(同7月3日付)をアチソン国務長官に提出した。それには、「米国から高官が来日し、日本側と講和問題で話し合う場合、日本政府や連合国最高司令部(GHQ)が承認する人物と会うだけではなく、現在公職追放中であれ、日米双方の信頼を得た善意と経験ある人物と会うべきである」「公職追放令の緩和が日米双方の国益に最も好ましい影響を与える」などと記されていた。

ここに書かれた「現在公職追放中、経験ある人物」とは日本の旧指導層を指すと見られる。もともとパージの拡大に不満を漏らしていた昭和天皇は、戦後5年が経ったこの時点で、追放者も早く解放されて日本復興のために働いてほしいと願っていた。天皇は新憲法のもとでは政治的な権限を持たないが、早く追放解除を行ってほしいとのお気持ちで、“天皇メッセージ”を米国政府に送ったのであろう。

朝鮮戦争の勃発で事態は急変

この最中の6月25日、朝鮮戦争が勃発し、事態が一気に変化する。マッカーサーは在日占領軍の大半を率いて朝鮮半島に向かった。日本の軍事的空白を埋めるため、7万5000人の警察予備隊(自衛隊の前身)の創設などを日本に命じ、日本の再軍備化が始まった。

緊急事態のため、警察予備隊幹部には専門的訓練を受けた職業軍人らの力が必要となり、これまでGS(民政局)が許さなかった旧軍人らの追放解除を認めるようになった。同年秋には旧陸海軍将校も追放解除になり、GSのパージ政策は崩れ去った。しかし、ダレスが、早急な追放解除に慎重な同盟国の見解を尊重して、パージ解決の判断をあいまいにしたため、この問題の主導権はまたマッカーサー側に渡ってしまった。

そのマッカーサーは朝鮮半島での劣勢を逆転するため、翌51年に入って、北朝鮮軍を支援する中国の工業地帯である東北部(旧満州)への爆撃などを、米本国に要求した。世界戦争に突入する可能性もあり、怒ったトルーマン大統領が同年4月11日、マッカーサー解任を決定した。マッカーサーは帰国し、彼の右腕だった民政局長のホイットニーも辞職して、追放解除を拒む重しはなくなった。

マッカーサー元帥=共同
マッカーサー元帥=共同

マッカーサーの後任のリッジウェー陸軍大将は同5月3日の声明で、「日本政府にすべての追放問題を再検討する権利が与えられる」と述べた。これを受け、日本政府は翌6月に、石橋湛山元蔵相(後に首相)らを含む第1次追放解除を、同8月に鳩山一郎元自由党総裁(後に首相)、財界の五島慶太、言論界の緒方竹虎、正力松太郎らを含む第2次追放解除を行い、その後も次々と追放解除が続いた。

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:朝鮮戦争での朝鮮人民軍高射砲部隊=コリアメディア/共同通信イメージズ

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