占領期最大の恐怖「公職追放」

占領期最大の恐怖「公職追放」:講和条約の発効で追放に幕(6)

政治・外交 歴史 社会

朝鮮戦争の最中の1951年4月にマッカーサー連合国軍最高司令官が解任されてから、公職追放の解除が一気に進んだ。翌52年4月、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、連合国による約7年間の日本占領が終わり、日本は独立を回復して公職追放令は廃止された。最後まで残っていた開戦当時の東条内閣の閣僚らも追放解除となり、日本人を恐れさせた公職追放は幕を下ろした。

追放解除の最後となった岸信介

マッカーサー解任後のGHQは、公職追放の解除について軍人を含めて寛容で、日本側の要求が通った。1951年9月に米サンフランシスコで、日本が主権を回復する対日平和条約と、日米安全保障条約が調印され、翌年4月に両条約が発効することになったからだ。

追放解除が順次発表されたが、いったんはGHQの承認も得て解除が内定したものの、日本側の判断で取り消されたケースがあった。岸信介(後に首相)ら、太平洋戦争の開戦を決めた東条内閣の5閣僚である。当時の吉田茂首相が、開戦の責任者である閣僚を占領中に追放解除とするのは国内外にとって適当でないと、意地を通したからだった。

追放者約21万人のうち、岸ら5閣僚と、服役中の戦犯、それに追放解除の訴願(再審査請求)を行わなかった人など計5700人が最後に残された。これらの人も52年4月の講和条約発効に伴い、すべて追放が解除となった。

GHQ追放担当官の証言

これまで公職追放の流れを見てきたが、まとめとして、GHQの公職追放担当課に所属していたハンス・ベアワルド元カルフォルニア大学政治学部教授(2010年死去)の当時の体験と追放政策に関する見解を紹介したい。昭和の初め(1927年)に東京で生まれ、少年期を日本で過ごし、19歳で日本語がうまい語学将校として再来日してGHQ民政局で勤務。帰国後、日本の公職追放について米国内で初めて本格的な研究を行い、『指導者追放―占領下日本政治史の一断面』(勁草書房、日本語版1970年)を書いた。

ベアワルド米カルフォルニア大学教授(サンフランシスコ郊外の自宅で、1993年8月=増田弘名誉教授撮影、提供)
ベアワルド米カルフォルニア大学教授(サンフランシスコ郊外の自宅で、1993年8月=増田弘名誉教授撮影、提供)

日本人からGHQへ公職追放についての密告が多かったことに関し、ベアワルド氏は「主に手紙だったが『あの人が昔、こういうことをしたので』『昔、こういうものを書いたので、もう一度調べてください。そうすれば、あの人は恐らく追放になるでしょう』という内容だ。反対に、お会いしたいという方から『ある人が最近、公職追放された。何らかの形で助けてもらえないでしょうか』と直接依頼を受けることもあった」と語っている。

追放者21万人の中で軍人が約8割を占め、官僚はわずか1%未満と少ない。この点について、「追放の基準は極めて不公平だった。陸海軍の将校はすべて追放の対象になったのに対し、官界や財界ではごく上層部の指導者だけが追放該当となったにすぎない。日本国民を誤って導いた責任を軍部に負わせようとしていた日本の指導者たちにとって、GHQの基準は極めて都合よく働いた」。

公職追放された人の内訳

実数(人数)
軍人 167,035 79.6
官僚 1,809 0.9
政治家 34,892 16.5
超国家主義者 3,483 1.6
事業家(経済界) 1,898 0.9
言論報道関係者 1,216 0.5
210,288

資料:総理府統計局と、木下半治『Purge Policy and After』(追放政策とその結果=日本太平洋問題調査会刊、1954年)。ベアワルド著『指導者追放』から引用

天皇に関してベアワルド氏は、「戦争犯罪人にも、追放の対象にもならなかった。天皇に手を触れないでおこうという決定は、連合軍にとって日本占領がやりやすくなるなどの事情があったからだ。天皇の権力を削減するため、追放に代わる別の方法が用いられた。明治憲法下で国政に関する多くの権能を持っていた天皇は、新憲法で政治的権能のない『象徴』の地位に移された」と述べている。

吉田首相も追放対象のボーダーラインだった

GHQは大物政治家の経歴などを徹底的に調べていた。「80カ月続いた占領期間中、追放基準から見て経歴に後ろ暗いところがなかったのは、短い期間の幣原首相と片山首相だけ。吉田首相にしても、追放指令に規定された公職適格性という点ではボーダーラインにあった」とベアワルド氏。吉田が、対中強硬外交をとり、奉天軍閥の指導者「張作霖」爆殺事件もあった田中義一内閣の時に外務次官であり、以前に奉天総領事だったことなどを指摘していた。

「公職追放によって利益を得た政治集団があったとすれば、社会党だ」とも述べている。多くの政党は追放で現職の国会議員を失ったが、社会党員の大部分は軍国主義時代には獄中にいたか、要注意人物だったので、追放基準に触れるような活動に参加したり、地位を得たりしていた者が少なかったからだ。こうして、社会党委員長首班の内閣を早期に誕生させることができた。

結論として公職追放は、「一国(日本)の指導者層を平和的な手段で変更するために行われた、前例のない実験であった。多くの日本人が現在、保持している平和主義的な態度を創り出すことに貢献した」とベアワルド氏は述べている。

追放の中途半端な終結が良好な日米関係に寄与

実は、日本の公職追放研究の第一人者、増田弘・立正大学名誉教授がカルフォルニア大学に留学していた当時の恩師がベアワルド氏だ。増田名誉教授はベアワルド氏のGHQ人脈を生かして全米を訪ね歩き、当時の関係者から話を聞いて、公職追放に関する多くの著書を書き上げた。

増田名誉教授は、「日本でのパージ自体が、投獄、体罰もあったドイツなどの場合と比較すれば寛大であり、しかも予想に反して短期間で終結された。このため、日本の当事者だけでなく、日本人一般の反米感情が緩和される効果を生じた。もし占領軍当局がポツダム宣言を忠実に履行し、追放該当者を永久にパージしたとすれば、日本社会に反米感情のしこりを残すことで、占領終了以後の日米関係に与えた負の影響は大きかったに違いない。米側のパージ政策が中途半端で終わったことが、皮肉にも戦後の日米2国間の良好な関係に寄与した」と述べている。

ワシントン郊外の米国立公文書館で、増田名誉教授は膨大な米側の対日パージ関係文書と取り組みながら、こんなことが頭をよぎったという。「もし日本が太平洋戦争に勝利したら、日本は米国に対しどんな占領を行い、また日本人は米国人にどのようなパージを実施したであろうか」と。

公職追放に関する米国側文書を調べた米国立公文書館の前に立つ増田名誉教授(1996年10月、増田氏提供)
公職追放に関する米国側文書を調べた米国立公文書館の前に立つ増田名誉教授(1996年10月、増田氏提供)

GHQという巨大な組織はもちろん完ぺきではなく、日本の専門家もそろってはいなかったので、様々な誤りを犯し、一方的で傲慢(ごうまん)な追放も行った。でも、日本人が米国人と同様に、これほど緻密な調査と多くの情報と、合理的な判断を積み重ねる作業を行い得ただろうかと、何度も自問したという。

日米双方が公職追放の歴史を語らない理由

戦後75年が経った今日、日米両国とも公職追放を語る人はほとんどいない。その理由について、増田名誉教授は「日本にとっては初めて異民族に支配され、パージされた屈辱の体験であり、米国側にとっても今は同盟国の日本をいじめすぎた加害者意識があるので、双方が思い出したくないからだ」と説明する。

日本では占領された厳しい時代があったことを知らず、戦争が終わって日米両国がすぐに仲良くなったと思い込む世代が増えてきたともいう。公職追放の歴史を知っておくことも、戦争の悲惨さを理解するうえで必要ではないか。

次回からは、公職追放となった著名人らのケースを検証していく。

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:記者会見する岸信介元首相=1959年、首相官邸(共同)

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