占領期最大の恐怖「公職追放」

占領期最大の恐怖「公職追放」:「権利も罰も男女平等」の論理で市川房枝をパージしたGHQ(8)

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「男女平等」を明文化した新憲法が公布されてから4カ月後の1947年3月、婦人運動家の市川房枝は女性第1号の公職追放となった。女性を追放してよいか戸惑う日本側担当者を前に、GHQは「権利と罰則を含めすべての点で男女平等」と追放を即断した。マッカーサー連合国軍最高司令官は市川を「軍国主義拡張の勢力に接近した」と厳しく見ていた。3年7カ月間の追放体験を経て、市川は再び女性の基本的人権と恒久平和を守る活動に直進していく。

「GHQは女性の追放を望むのか」

終戦後の民主化で「時代の寵児(ちょうじ)」として活躍を始めた市川は、天国から地獄に落ちるように、「戦争協力者」となって公職追放された。決定時の経過を記したGHQ文書が米国立公文書館に残っている。

モンペ姿で、焦土の東京を奔走する市川房枝(1945年8月=市川房枝記念会提供)
モンペ姿で、焦土の東京を奔走する市川房枝(1945年8月=市川房枝記念会提供)

参院選(1947年4月)の立候補を前にした市川について、公職追放に当たるか調べていた日本側の「中央公職適否審査委員会」は、この連載の前回で述べたように、市川が追放指令「C項 超国家主義的・暴力主義的団体の有力分子」に該当する「大日本言論報国会」の理事だったので、GHQの公職追放担当課長のネピア少佐に報告した。

ネピア課長は「C項に該当する団体の理事は誰でも追放となるのは明白だが、なぜ今、このことが特別視されているのか」と尋ねた。これに対し日本側の事務局員は、「彼女が最初の女性追放者になるという理由で問題になっている。GHQは女性の追放を望んでいるのか」と質問した。

ネピア課長は「追放指令に該当する者は誰でも追放に指定される。権利と罰則を含め、すべての点で平等の原則が女性に求められることがマッカーサー最高司令官の政策であると理解している」と答えた。この後、ネピア課長はGHQ内で公職追放に関し強い発言権を持っていたケーディス民政局次長らに報告し、「戦時中の活動が追放指令に該当する者は誰でも指定される。追放該当者の性は全く関係ない」という考えで一致した。

ネピア課長は後日、GHQで婦人問題を担当する民間情報教育局(CIE)のウィード中尉(女性)と市川の件で話したが、ウィードは「市川房枝は取り立てて好ましい人物ではない。たとえCIEが市川のために(追放阻止に)介入できたとしても、そのようにしないだろう」と語った。

「市川は軍国主義勢力に接近した」とマッカーサー

マッカーサーの真意は、48年7月、米YWCAの市川の友人にあてた書簡に現れている。要旨はこうだ。

「市川は言論報国会という超国家主義団体の理事であったために公職追放を受けた。さらに1932年以降、全体主義・軍国主義の拡張勢力に接近した」
「言論報国会の活動を推進した理事は男性も同じく公職追放された。もし市川が別の基準で追放から外されたとすれば、それは女性だからということになり、性における平等が失われる」

婦人運動家の市川が、戦後、やっと獲得したばかりの「男女平等」の原則を早速、自分に適用されて追放されたのは、あまりにも皮肉なことだった。市川の追放指定解除をめぐって、不可解なことが続く。

日本側の追放問題を審査する「公職資格訴願審査委員会」は48年4月、市川の請願を受けて審査し、追放解除の決定をした。理由は「市川の経歴や信条からみても、彼女が日本の民主的平和愛好者の一人であることは知られている。調査によっても、市川が国粋主義者である証拠は見出せない。彼女が婦人運動史に貢献したことに鑑みて、そのような人物を公職追放することは、はなはだ不公平である」というものだ。

これに対し、GHQのホイットニー民政局長は、市川が大日本言論報国会理事だったから、ということで、日本側の追放解除決定を不許可とした。GHQは、追放該当の基準を定めたら、その人がどんなことをしたかを問わず、役職や地位で一律に追放してしまう姿勢をなかなか改めなかった。

同年6月の官報に、市川の追放指定解除が掲載されたが、翌日付で「不解除」と訂正されることもあった。こうして、一度は開かれかかった市川の追放解除は閉ざされた。

「市川追放の背後に納得できない不明朗さ」

市川は追放から間もなく2年となる49年1月、近況報告の中で、「私と同じ言論報国会の理事で、追放解除になった人が2人おり、私のだめな理由が納得できない」といら立ちをあらわにしている。また、同月の婦人団体による市川追放取消運動の中間報告には、「1年半にわたるこの運動を通じ、市川氏追放の背後に納得できない不明朗さを感じさせられ、――」と書かれている。

この点に関し、連載の前回の冒頭で紹介した財団法人「市川房枝記念会」刊行の本「市川房枝の言説と活動 年表で検証する公職追放1937~1950」には、次のような記載がある。

「GHQで婦人問題を担当していたウィード中尉は、当時、婦人問題顧問(非公式)に任命されていた加藤シズエ(婦人解放運動家、衆院、参院議員=社会党)とは密接な関係にあった。市川と加藤との間にはすでに戦前から婦人運動を通じて確執があり、戦後、両者の関係はより溝が深まったと言える。市川が追放の背後に表面には表れない何かの動きを感じていたことを一部の人に語っているが、市川がそうした苦しい心境の淵にさまよっていたことは否定できない事実であろう」

同書の執筆メンバーで、市川房枝研究会主任研究員だった伊藤康子氏(元中京女子大教授)は、「アメリカのウィードたちは日本の婦人運動について、アメリカで本を出した加藤シズエ以外の運動については理解が薄く、それで加藤だけを頼みにしたのではないか。公職追放当時の市川を敬愛してやまない人々が、憤慨の矛先をアメリカに向けるわけにはいかないので、加藤シズエに向けたのかもしれない」と説明する。

追放中の功労者表彰

追放中の市川を喜ばせたのは、同49年4月、「婦人の日」に平塚らいてう(「元始、女性は太陽であった」の言葉で知られる婦人運動家)らと共に、婦選運動の先駆的功労者として表彰されたことだ。GHQから「追放者の表彰」にクレームがあったが、婦人団体協議会は「日本女性たちの総意はアメリカに関係ない」と干渉をはねのけた。

感謝状をもらった市川は、「婦人の地位向上のために30年間闘ってきたことは事実だが、極端なる国家主義者、軍国主義者として追放に処せられている現在、これを受けることは皮肉でもあり、面はゆい」と語った。

3年7カ月の格子なき牢獄から解放

それから1年たってもGHQは市川の追放解除を認めなかった。しかし、50年6月の朝鮮戦争勃発で事態は急変する。同10月13日、1万人余の追放解除が発表され、その中に市川房枝も含まれていた。

「3年7カ月の格子なき牢獄から解放された」。57歳の市川は万感の思いでこう述べた。

追放解除の日、自宅前で(1950年10月13日、東京・代々木で=市川房枝記念会提供)
追放解除の日、自宅前で(1950年10月13日、東京・代々木で=市川房枝記念会提供)

世間は市川を温かく迎えた。追放解除直後の1週間に、市川は相次いで大手新聞に登場。翌月には新日本婦人同盟を「日本婦人有権者同盟」に改称し、会長に復帰した。新年(51年)元日のNHK新春放送にも登場。そして、53年の参院選に東京地方区から立候補して当選し、途中から全国区に移り、参院議員を通算5期25年務めることになる。

戦争と追放の思いを吐露した晩年インタビュー

市川は85歳になった78年、出版社のインタビューで、戦争と追放について振り返り、苦悩した心境を吐露している。

「共産党の人は、はっきり戦争に反対して監獄に行ったけれど、そうでない人は大なり小なりみんな(戦争に)協力したと言っていいでしょうね。(中略)戦争反対(の運動)を民間として起こし得なかったことに対しては、私は少し反省しています。この次そういう場合になったら、一生懸命、反対しようと――」

「私は戦争協力者として追放になりましたが、ある程度戦争に協力したことは事実ですからね。その責任は感じています。しかし、それを不名誉とは思いません。(中略)私はあの時代のああいう状況の下において国民の一人である以上、当然とはいわないまでも恥とは思わない。間違っているでしょうかね」

市川はこのインタビューの中で、公職追放になった婦人は、戦時中に結成された「大日本婦人会」の会長、理事らを含めて「4、5人」だったと語っている。全国約21万人の追放者から見ると、女性の追放者が極めて少ないのは、終戦まで女性が主要な地位につくことが、まれだったからだ。

非戦を貫けず、追放となった重い体験は、再出発した市川の婦人運動と並ぶ、恒久平和を守る活動の礎となる。男女平等を実現するためには、戦争をしてはいけないと悟った市川は、こんなスローガンを提唱していた。

「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:市川房枝(参院議員会館で、1980年=市川房枝記念会提供)

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