占領期最大の恐怖「公職追放」

占領期最大の恐怖「公職追放」:「マッカーサーを初めて引っぱたいた日本人」と米紙に報道された石橋湛山(13)

政治・外交 歴史 社会 国際

「戦争協力者だった」と追放理由をねつ造してまで強引にパージを決定したGHQ。そして、閣僚の自分を見殺しにした吉田茂首相。この強力な両者に対し、石橋湛山蔵相は追放決定のその日夜、抗議書を起草して英訳させ、反撃を開始した。追放の不当性は米国内で報道され、また石橋は内外の記者と会見し、「マッカーサー連合国軍最高司令官にも責任がある」と発言。湛山の奮闘は、GHQの対日占領政策を転換させる契機にもなっていく。

官僚からも信頼された蔵相

言論界出身の異色な蔵相だった石橋は、国会での財政演説を徹夜して自分で書き上げるなど、慣例を破ることも少なくなかった。主税局長の池田勇人(後に首相)を大蔵次官に抜擢する人事も行った。初めは警戒していた大蔵省の官僚たちも、絶対権力を持つGHQに対して毅然たる態度を貫く大臣に信頼を寄せるようになった。

主要閣僚にして次期自由党総裁候補と目され、総選挙に初当選した翌月の1947年5月8日に、GHQは石橋の公職追放決定を吉田首相に伝えた。それを知った石橋は、「(軍国主義者という)事実に違ったことで追放されるのは、僕の良心が許さない。内閣にとっても不名誉なことだと思う。このまま黙ってはいない」と吉田に告げ、蔵相を退こうとはしなかった。

その夜、石橋はGHQに対する抗議書を書き、秘書官に英訳させた。「(石橋が執筆していた)東洋経済新報が終始一貫して帝国主義と全体主義とに反対し、あらゆる戦争を拒否し、枢軸国(日独伊など)との接近の危険を叫んでいた」ことを指摘。さらに石橋は、1944年2月に日米軍が戦った太平洋のクェゼリン島(マーシャル諸島)で、25歳の次男を戦死させた悲痛な思いを記している。

「(まだ戦時中の45年2月に行われた次男の追弔の会で)『私は自由主義者であるために軍部から迫害を受け、東洋経済新報も常に風前の灯だ。しかし、その私が愛児を軍隊に捧げて殺した。私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではないからだ』と述べた。私も、死んだ子供も、戦争には反対だった。しかし、私が子供を軍隊に差し出すことを拒んだら、恐らく子供も私も刑罰に処せられ、殺されたであろう。諸君(GHQ)はそこまで私が頑張らなければ、私を戦争支持者と見なされるのであろうか」

抗議書はGHQのパージを担当する民政局(GS)に届けられたが、石橋の訴えは受け入れられなかった。

大臣追放の裏側をニューズウィーク誌が暴露

同16日、吉田の命令で内閣書記官長(官房長官)らが訪れ、追放を発表すると伝えたが、石橋は「同意しない」と拒否。翌17日朝、石橋は吉田の求めで会い、パージの了解を拒絶すると、吉田は「狂犬にかまれたと思ってくれ」「(GHQは石橋に対し)占領政策背反として巣鴨(プリズン=戦犯の収容施設)に送る代わりに追放の挙に出た」などと言った。

結局、物別れとなり、政府はこの日、石橋の公職追放を発表した。その理由はGHQの決定と同じ内容だった。吉田内閣(第1次)はその数日後に総辞職して、社会党委員長首班の片山内閣が誕生した。石橋は議員資格も失い、4年余の追放となる。

石橋は追放生活に入っても内外の記者などと接触し、抵抗を続けた。占領下だったので日本国内での報道は制限されたが、米国では、石橋追放の不当性が相次いで報道されることになった。

まず、マッカーサーの占領政策を批判し、GHQのパージを非難するキャンペーンをこの年1月から行っている米誌「ニューズウィーク」が、5月26日号で「大臣追放の裏側」という記事を掲載した。パージは日本政府が行っているというのはウソで、GSが指導、命令しており、石橋追放では日本側は追放に該当しないと判定したのにGHQが覆したと暴露した。

石橋は同年10月、1カ月かけて長大な「公職追放に対する弁駁(べんばく=相手の説を打ち破る)書」を書いた。GHQが石橋を追放決定するために使った資料に対する詳細な反論である。末尾にはこう記した。

「私一個の利益のために、公職追放を免れたいとは少しも考えていない。ただ私はデモクラシーのために、デモクラシーの権威のためにあえて訴願する次第である」

マッカーサーの責任を追及した湛山

この文書の英訳文も作り、石橋は内外のジャーナリストらと会見した。外国人記者から、追放の責任者は誰かと問われると、石橋は「ホイットニー(GS局長)」と答え、マッカーサーについて問われると、「ホイットニーの上司として責任がある」と述べた。

占領下でタブーだったGHQの、しかも最高司令官の責任を追及したから、騒ぎは大きくなった。アメリカの新聞は「マッカーサーを初めて引っぱたいた日本人」との見出しを付けて報じた。日本国内では、石橋が戦犯として処罰されると、うわさされたが、石橋は「逮捕されれば裁判になり、弁解の機会が与えられるから、捕まってもいい」と覚悟していた。

石橋から追放の再審査を要求された日本の公職資格訴願委員会は、「追放解除」を決する。しかし、GSのホイットニー局長がまたも日本側の決定を拒否した。

翌48年7月、石橋は渡米する日本人ジャーナリストに自分の追放経過などを記した英文書を託し、知人に配布するよう頼んだ。また、石橋のGHQに対する抵抗に敬服した日本の政治活動家が、石橋追放問題の意見書を、米人記者を介して米国務長官、陸軍長官、上院外交委員長らに届けた。その内容は、「ニューヨーク・タイムズ」に掲載された。

GHQ批判の絶好な材料に

こうした動きの意味を、湛山に詳しく、公職追放研究の第一人者でもある増田弘・立正大学名誉教授は次のように説明する。

「すでにワシントンでは対日占領政策が再検討されていた。同年1月、ロイヤル陸軍長官の『日本をアジアの共産主義の脅威の防波堤にする』との演説が、政策転換の可能性、すなわち日本の非軍事化・民主化から、日本の経済的自立への移行を示唆していた。したがって、湛山らの果敢な行為は、マッカーサーの占領施策に懐疑的でその転換を望む米各界の重要人物にとっては、絶好の材料になった。石橋自身はマスコミ出身なので、言論の自由を守ろうとし、同時に世界のマスコミに自分が追放された不当性を訴えれば、必ず効果があると信じ続けたのだと思う」

反マッカーサーの急先鋒として政官財の各界の橋渡しを務めたのが、この連載の4回目「米国政府のパージ政策転換」でも紹介した「ニューズウィーク」極東部長のハリー・カーンである。湛山追放を例としてGHQ、マッカーサーの占領政策を批判する手紙を国務次官らに送ったり、日米開戦時の駐日大使で日米親善に尽くしたグルーら知日派と対日アメリカ委員会を結成したりして、「対日占領政策の転換を米国の内側から推進していった」(増田名誉教授)。

マッカーサー解任でようやく追放解除

マッカーサーは反論「占領政策批判に答う」を翌49年、日本の雑誌に載せたが、その内容はこれまでGSが作り上げた石橋・東洋経済批判の繰り返しだった。これに対し、石橋は「マッカーサー元帥に呈する書」を執筆。その結びに「(マッカーサー元帥閣下の全権の下にある被占領国の一人民としては)無実は無実として直言して、訂正を求めることが、むしろ義務であり、閣下に対して忠なるゆえんだと信じたからです」と書いた。

言論人らしく、どこまでも抵抗してくる「頑迷かつ戦闘的政治家」石橋を、マッカーサー率いるGHQが許すはずはなかった。朝鮮戦争が勃発(49年6月)して、警察予備隊(自衛隊の前身)創設などのため旧軍人らの追放解除が始まっても、石橋には朗報が届かなかった。

トルーマン米大統領に解任され、夫人とともに別れを告げる連合国軍最高司令官マッカーサー=1951年4月16日(共同)
トルーマン米大統領に解任され、夫人とともに別れを告げる連合国軍最高司令官マッカーサー=1951年4月16日(共同)

石橋が長い追放生活から解放されたのは、朝鮮戦争の方針をめぐってマッカーサーがトルーマン大統領によって解任され、後任の最高司令官リッジウェイが着任して2カ月後の51年6月だった。

吉田茂は3年前に首相の座に戻り、ライバルがいない間に長期政権を着々と築き上げていた。再び石橋は吉田に闘いを挑む。
(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:石橋湛山氏(左)とマッカーサー元帥(右)=共同

吉田茂 GHQ マッカーサー元帥 公職追放 増田弘 占領政策 石橋湛山