占領期最大の恐怖「公職追放」:石橋湛山首相在任65日の潔い引き際(14・最終回)
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追放中に米大統領特使と極秘会談
占領下でマッカーサー元帥の責任を初めて追及した日本人となった石橋湛山は、マッカーサー本人が解任されるまで追放解除を許されなかった。4年余の追放生活から解放されたのは51年6月。この間、表立った政治活動を行うことは出来なかった。
だが、その4カ月前(同年2月)、石橋は対日講和の責任者だったダレス米大統領特使(後に国務長官)の求めにより、宿泊先の帝国ホテルで密かに同じ追放中の鳩山一郎(後に首相)、石井光次郎(元商工相、後に衆院議長)と共に会った。極秘会談のきっかけは、意外にも昭和天皇からのメッセージだった。
昭和天皇は前年6月にダレスが来日した際、式部官長などを通じて、「米国から高官が来日し、日本側と講和問題で話し合う場合、日本政府や連合国最高司令部(GHQ)が承認する人物と会うだけではなく、現在公職追放中であれ、日米双方の信頼を得た善意と経験ある人物と会うべきである」「公職追放令の緩和が日米双方の国益に最も好ましい影響を与える」などと米国務省側に伝言を託していたのである。(この連載5回目で詳述)
天皇は、戦後5年が経ち、追放者も早く自由となり、復興に役立ってほしいと願っていた。この時は朝鮮戦争の勃発で実現しなかったが、ダレスの再来日で “追放組”との会談が行われた。石橋、鳩山らは追放解除、そして表舞台に復帰できる日が近いことを実感したことだろう。
自由党から2度の除名
だが、石橋が追放解除となった同じ月に、反吉田勢力の陣頭指揮をとるはずだった鳩山が病気で倒れた。「病身の鳩山君を総理総裁の重任に推挙するのは、(現職の)総理大臣としては無責任」と吉田は長期政権を続ける。石橋は翌52年10月の衆院選で議席を回復したが、その直前に「反党活動」を理由に自由党から除名を通告された。
「(私に対する除名は)GHQが好ましからざる人物として追放したやり方とソックリそのままではないか。吉田君はいつのまにか、占領当局のお仕置きが身についてきたものとみえる。今度の吉田追放令は、まさに僕等に対する挑戦状だ」
「僕を司令部が追放した時に、世間では吉田がやらせたんだと言ったが、僕は信用しなかった。しかし、今度のやり口をみると、世間が言う通りかな、と思っている。昨今の吉田君のやり方は、彼自身が最も嫌っているはずのファッショそのものである」
2度の除名を受け、また自由党を離党するなど抵抗した石橋はこう述べて、吉田内閣打倒の一翼を担っていく。そして、54年11月に反吉田勢力が結集した「日本民主党」の結党に加わり、翌月、第5次吉田内閣を総辞職に追い込んだ。誕生した鳩山内閣では通産大臣を務めた。55年に民主、自由両党が保守合同し、自由民主党(鳩山総裁)が結成。鳩山政権は2年で退陣し、石橋は運命の時を迎える。
自民党総裁選で逆転勝利
56年12月、自民党初の総裁選は、岸信介、石井光次郎、そして石橋の激しい闘いとなった。奇しくも3人とも追放経験者だ。当初、石橋は劣勢だったが、石井支持派と「2、3位連合」を成立させ、第1回投票で1位だった岸に、決戦投票では7票差で逆転勝ちした。こうして石橋は72歳で首相になった。
年明けの正月早々、10カ所を回る全国遊説を行った。「五つの誓い」と掲げた綱領は、「国会運営の正常化、政官界の粛正、雇用の増大、福祉国家の建設、世界平和の確立」。さらに、宰相湛山ならでは演説が続いた。
「私は皆さんのご機嫌を伺うことはない。所信通りに進んでまいるので、皆さんのご理解とご協力をお願いする」
ケネディ米大統領が「国民諸君よ、国家が皆さんのために何ができるかを問わないで――」と就任演説する4年前のことだ。
大蔵大臣には池田勇人(後に首相)を起用し、「1000億円減税、1000億円施策(計画)」の積極経済政策を打ち出した。後の池田政権の「所得倍増計画」を先取りした内容が含まれている。池田は実は、石橋が自由党を除名された時の党幹事長だったこともあるが、石橋には蔵相時代に大蔵次官として抜擢した池田に対するわだかまりはなかった。
「政治的良心に従い」早期退陣
国民の期待が膨らむ一方で、高齢の石橋には真冬の寒さは厳しすぎた。母校の早稲田大学で卒業者初の総理大臣の就任祝賀会が野外の庭園で開かれたが、石橋はその2日後にカゼをこじらせて倒れた。初めは老人性肺炎とされたが、脳梗塞だった。1カ月ほど療養した後、同2月に「(今後さらに)約2カ月の静養加療を要する」と診断が出ると、石橋は総辞職を即断した。
「新内閣の首相として最も重要なる予算審議に一日も出席できないことが明かになりました以上は、首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います」(石橋書簡)
わずか2カ月ほどの短命内閣に終わったが、首相の座にしがみつかない石橋の潔さは称賛された。「政治家はかくありたい」(浅沼稲次郎・社会党書記長、当時)、「不明朗なことの多い政界に石橋の退陣ぶりはまことに鮮やかで、国民の心を打つものがある」(読売新聞)。
後任の首相には、石橋とはタイプの全く違う岸信介が任命された。公職追放と石橋湛山に詳しい立正大学名誉教授の増田弘氏はこう述べる。
「石橋内閣がもし2年間継続していたならば、その後の日本の政状況も大きく変わっていたであろう。歴史に『もし』が許されるならば、石橋湛山が追放された1947年当時に適用したい。湛山の『格子無き牢獄』に閉じ込められた4年余の長い喪失は、戦後日本の一つの可能性を奪われたほどの重大な意味を持った。アメリカは強引な湛山追放で、占領行政史上に汚点を残したと言わざるをえない」
日本の戦後史を大きく変えた公職追放を、今、語る人、知ろうとする人は極めて少ない。だが、この連載で述べてきたように、21万人が追放され、事前に追放処分を恐れて辞職した者や、追放当事者の家族・親族を合わせれば100万人以上が影響を受けた歴史がある。戦争の悲惨さを語り継ぐためにも、我々は容易に忘れ去っていいのだろうか。(終わり)
※この連載での参考、引用文献:『公職追放論』(増田弘著、岩波書店)、『公職追放三大政治パージの研究』(増田弘著、東京大学出版会)、『指導者追放』(H・ベアワルド著、勁草書房)、『回想十年』(吉田茂著)、『占領期』(五百旗頭真著、講談社)、『内務省対占領軍』(草柳大蔵著、朝日新聞社)、『昭和天皇実録 昭和二十年~二十九年』(宮内庁)、『侍従長の回想』(藤田尚徳著、講談社)、『ドキュメント昭和天皇 第八巻・象徴』(田中伸尚著、緑風出版)、『鳩山一郎・薫日記 上巻』(中央公論新社)、『私の履歴書 第7集 鳩山一郎ほか』(日本経済新聞)、『市川房枝の言説と活動 年表で検証する公職追放』(市川房枝研究会編、市川房枝記念会出版部)、『闘うフェミニスト政治家 市川房枝』(新藤久美子著、岩波書店)、『近代日本女性史への証言―市川房枝ほか』(「歴史評論」編集部編、ドメス出版)、『湛山回想』(石橋湛山著、岩波書店)、『湛山除名 小日本主義の運命』(佐高信著、岩波書店)、『自由思想158号「今だから話そう 追放のカラクリ 見殺しにされた蔵相』(石橋湛山記念財団)、『GHQと日本共産党』(公安調査庁)、『風の男 白洲次郎』(青柳恵介著、新潮社)、『占領と講和 戦後日本の出発』(北岡伸一、五百旗頭真編、星雲社)、『人間であることをやめるな 「石橋湛山と言論の自由』(半藤一利著、講談社)、『早稲田大学百年史 第五巻』
バナー写真:病気療養中の石橋湛山氏=1957年2月18日(共同)