参勤交代のウソ・ホント

江戸に「参り」将軍に拝謁することが大名の「勤め」=戦のない時代の服属の意思表示

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江戸時代の参勤交代は、どのようにして成立したのか? その根底には、主君から受けた「御恩」に、家来が「奉公」し服属の意思を示すという、日本の武士社会独特の理念があった。そして、この理念を貫くため、現在の「県」にあたる「藩」が多大な負担を背負うことになる。

江戸時代に定例化した服属の形

江戸時代、日本には「藩」、現在でいう「県」が約300近くあり、それぞれに領主がいた。領主を「藩主」と呼ぶ。

藩主が有する領地の規模は、「石」(こく)という単位で表した。「石」とは米の生産量を指し、1石は米1000合(ごう / 約150キログラム)に相当する。1万石以上の生産量を持つ領地を幕府から賜り、その支配権を認めてもらった者は「大名」と呼ばれた。

幕府は日本史上、鎌倉・室町・江戸時代に3つ存在した。鎌倉・室町時代は戦(いくさ)に明け暮れていたため、いざ戦いとなった場合は軍役に就くことで、幕府への服属の意思を示した。

だが、江戸時代は平和であり、戦争はない。そこで、大名が将軍に拝謁するため江戸にやって来て、そのまま一定期間、江戸に駐在し、服属を示す新たな儀礼が定着していく。

これが「参勤」である。地方の大名たちにとっては、江戸に「参(まい)る」のが「勤(つと)め」だったのである。

江戸幕府の初代将軍・徳川家康は幕府を開いた頃、早くも「江城(江戸城)は政令の出る所、天下諸侯朝覲(ちょうきん)の地」と述べたと、『徳川実紀』にある。「朝覲」とは、位の高い人物に家来が「覲(まみ)える」こと。まさに拝謁に他ならない。

参勤交代を明文化した『武家諸法度 寛永令』

参勤がスタートしたのは元和元(1615)年、家康が大坂夏の陣で豊臣氏を滅亡させた年と考えられている。

秋田藩の藩主だった佐竹家に関する文書によれば、元和3年まで、ほぼ毎年、半年在府(半年江戸にいる)、半年在国(半年領地にいる)というサイクルを繰り返した。家康の「天下諸侯朝覲の地」という言葉に忠実に従い、1年の半分を参勤に費やした。他藩もおおむね同じだったろう。

それが元和4年頃から、「1年在府」「1年在国」の隔年に変わり、これが参勤交代制度の原型となる。もっとも、この期間はまだ厳密に制度化されたものではなく、将軍の意向に従う姿勢を見せる、つまり大名の忖度によるものだった。

政令によって義務化されるのは、寛永12年(1635)である。この年、3代将軍・徳川家光が『武家諸法度 寛永令』を出し、「大名小名在江戸交代相定むる所也 毎歳四月中参勤致すべし」と明文化する。

例えば大名・甲が4月に江戸に来る、さすれば翌年3月には暇を出す。代わって大名・乙が江戸に来て、翌年まで駐在する。参勤という勤めを、1年ごとに「交代」でやれ——そう指示したのである。

ここに至って、参勤交代は諸藩の義務となった。

周防国(現在の山口県)徳山藩の藩主・徳山毛利家が書き残した『公儀御制法』に、家光が発布した『武家諸法度 寛永令』の写しがある。大名に参勤交代の義務を明文化した画期的な法規だった / 山口県文書館蔵
周防国(現在の山口県)徳山藩の藩主・徳山毛利家が書き残した『公儀御制法』に、家光が発布した『武家諸法度 寛永令』の写しがある。大名に参勤交代の義務を明文化した画期的な法規だった / 山口県文書館蔵

参勤交代制度は、江戸時代約260年を通じ、何度か改革されている。最も大きい改革は享保7年(1722)、8代将軍・徳川吉宗が諸藩を4つのグループに分け、在府期間を半年、在国を1年半に改めたことだろう。

享保期になると、隔年の参勤が諸藩の財政に大きな負担を強いていたため、在府期間を短くする緩和策を打ち出したのである。

だが、参勤はとにかく膨大な出費を必要とし、1年から半年に短縮したところで、財政を改善できない藩も少なくなかった。

大名行列は平和な時代に無用な軍事パレード

出費がかさんだ原因は、主に人件費である。
参勤交代といえば、即座に豪華な大名行列が思い浮かぶ。平和な時代にもかかわらず、使うこともない槍や鉄砲を揃え、多くの藩士たちが長蛇の列を成して進行する軍事パレード、つまりパフォーマンスであり、大名の威厳を示威することのみが目的といってよかった。

武装を整え、人を揃え、地方から何日(遠隔地の場合は数週間)もかけて徒歩で江戸にやって来る。人件費だけでいったいいくら必要だったのか。また道中の宿泊費、江戸での滞在費などの経費も膨大だった。

下図は美作国(みまさかのくに / 現在の岡山県北東部)津山藩が、文政元年(1818)に行った参勤の大名行列図だ。

2段目中央に見える駕籠に藩主が乗っており、1段目左に鉄砲隊、同右に弓隊が並ぶ。
これは襖絵(ふすまえ)の5枚目の部分で、全体は7枚。人数や武装、道具類はこの7倍あり、それが行列を成して江戸と美作間約600km超を往復した。

図の正式名称は『拾万石御加増後初入国御共立之図』。津山藩が5万石を加増され10万石となった翌年、江戸から凱旋帰国する大名行列を描いている。駕籠の中の藩主は第7代藩主・松平斉孝(まつだいらなりたか) / 津山郷土博物館蔵
図の正式名称は『拾万石御加増後初御入国御共立之図』。津山藩が5万石を加増され10万石となった翌年、江戸から凱旋帰国する大名行列を描いている。駕籠の中の藩主は第7代藩主・松平斉孝(まつだいらなりたか) / 津山郷土博物館蔵

通説では、出費にあえいだ諸藩を弱体化させることで、幕府に反逆する体力をそぐ——それが参勤の狙いだったと言われている。

しかし、実は、幕府は参勤に過度のコストを費やさないよう、たびたび諸藩に指示しており、必ずしも弱体化を狙っていたわけではない。参勤による藩政圧迫は、威厳を誇示するために行列を華麗にしたり、田舎侍となめられぬよう江戸で贅沢な暮らしをしたりと、見栄も大きな要因だったのである。このあたりの話は、また、別の回で詳しく触れたいと思う。

バナー写真:『拾万石御加増後初御入国御共立之図』の先頭部分。1段目左端は「宿割隊」と呼ばれ、本隊より5日前に発ち宿場で宿の手配をした。2段目中央の駕籠には、勘定奉行(道中の会計責任者)が乗っていた / 津山郷土博物館蔵

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