参勤交代のウソ・ホント

大名行列が宿泊する宿場町は問屋場と本陣がてんてこ舞

歴史 伝統 都市

大勢の人員と大量の荷物が、行列を組んで長距離移動する参勤交代には、宿泊場所の確保が不可欠だった。そこで、街道沿いに宿場町が整備され、大名行列の逗留地として発展していく。同時に物の輸送や、飛脚など通信の機能なども備え、ヒト・モノ・カネが集まる物流の要所としての意味も持つようになる。

伝馬制を拡充させた家康

宿場町は、大宝律令(701年)の時代の「宿駅」に、すでに原型があったと見られる。京都と九州・太宰府を結ぶ街道の要所30里ごと(当時の1里は約533mとされていたので30里は約16km)に、集落(宿駅)を置き、宿泊施設があった。また、ここで物を輸送するのに必要な人馬も手配していた。

戦国時代に入ると、宿駅を拠点に伝馬制がより一層、整備される。伝馬制とは、宿駅ごとに、物を運ぶ人馬を交替させる制度のことである。

小田原を本拠として相模国(現在の神奈川県中西部)を支配した戦国大名の後北条氏は、伝馬制で流通・輸送網を整備し、域内の経済を発展させた。

徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利すると、こうした宿駅・伝馬制をさらに拡充していく。その皮切りとして慶長6(1601)年、東海道に宿駅伝馬制度をしき、ここから宿駅が急速に成長し、現在我々が知る宿場町となっていく。

幕府は人馬の常備を、街道ごとに明確に定めた。例えば、東海道は人足100人・駄馬(輸送用の馬のこと)100匹、中山道は50人・50匹、その他の街道は25人・25匹を常備せよ等である。

揃えきれない宿場町は、近隣の助郷(すけごう / 人馬の調達を応援する農村)に頼んだ。このことは、宿場町とその周辺の村々が、参勤交代に協力する労働課役を担っていたことを意味する。

宿場町の中心となったのは、問屋場(といやば)と本陣だった。問屋場は、宿場町の運営を任された役人が詰める施設で、輸送に使う人足・馬や飛脚などを差配する中央指令室的な機能を持っていた。最高責任者の問屋には、村の名主(なぬし)など実力者が就くケースが多く、補佐役に年寄(としより)、事務・会計担当として帳付(ちょうづけ)らがいた。

本陣は、参勤交代の際に大名が宿泊する施設である。本陣の経営も問屋が兼ねることが多かった。

問屋は、それなしには参勤交代も本陣も成立しない、重要な役割だったといえる。
なお、本陣は大名が宿泊する宿と書いたが、時代とともに身分の高い者に限らず泊まることができるようになるなど、役割も変わってくる(この点については次回に触れたい)。

宿場町の標準的な構成

本陣は町の中央にある。2カ所の出入り口(赤丸の部分)が枡形となっているのは、万が一、敵が襲撃してきても本陣に向かって直進できないようにするための仕掛け。宿場町が、大名の「陣」であったことを物語る。(図版作成/アトリエ・プラン)
本陣は町の中央にある。2カ所の出入り口(赤丸の部分)が枡形となっているのは、万が一、敵が襲撃してきても本陣に向かって直進できないようにするための仕掛け。宿場町が、大名の「陣」であったことを物語る。(図版作成/アトリエ・プラン)

『東海道分間図』にある小田原宿。東海道の中でも最大級の規模の宿場町だった。詳細は記されていないが、左側上の大きな建物が本陣・問屋場だろうと推測される。国立国会図書館所蔵
『東海道分間図』にある小田原宿。東海道の中でも最大級の規模の宿場町だった。詳細は記されていないが、左側上の大きな建物が本陣・問屋場だろうと推測される。国立国会図書館所蔵

大名行列が本陣に到着するまでの流れ

そもそも、参勤交代は「行軍」であり、宿泊施設は行軍中の「陣営」として、「本陣」と名付けられた。つまり、逗留中は、そこは藩にとって自陣(または自領)という認識だった。

だが、この陣は「予約制」だったため、藩は遅くとも宿泊希望日10日前までに、予約を入れる。本陣は、希望日に他の大名の予約が入っていないかを念入りに確認し、請書(承諾した旨の書状)を送り、予約が成立する。

次に、藩は前日までに大名の姓や官職を記した「関札」を宿場町に届け、町の入り口と本陣の前に取り付ける。関札が立っている間は、「ここはウチの陣だもんね」ということをアピールするのである。

昼はある藩が休憩を、夜は別の藩が宿泊を予約するといった、込み入った日もあった。

文政5年(1822)、二川宿(東海道33番目の宿場町 / 現在の愛知県豊橋市)の本陣は、昼は彦根藩、夜は福岡藩が利用することになっていたのだが、彦根藩が到着した時、すでに福岡藩の関札が掲げられており、彦根藩がクレームを付けたという例がある(『参勤交代と大名行列』洋泉社)。

二川宿本陣馬場家は、文化4(1807)年から明治3(1870)年まで、二川宿の実力者・馬場家が経営していた本陣を改修。現在も地域のシンボルとして親しまれている。
二川宿本陣資料館は、文化4(1807)年から明治3(1870)年まで、二川宿の実力者・馬場家が経営していた本陣を改修。現在も地域のシンボルとして親しまれている。

福岡藩は二川宿を参勤の定宿としており、天保8(1837)年に利用した際の記録も、『二川宿本陣宿帳』(二川宿本陣資料館)にある。

3月22日に宿泊を予約していた福岡藩から、関札が到着したのが17日。だが、大雨のため行軍が遅れ、到着は4月4日に変更となった。

当日の午前中、本陣に掛ける家紋入りの幕と提灯がようやく到着。同時に問屋場は、宿場町の1里(約4キロメートル)・半里手前の2カ所に、出迎え役を派遣する。

到着した福岡藩一行のうち、殿様はじめ51人が本陣に宿泊し、家臣たち(人数不明)は旅籠など57軒に分散して宿泊したとある。

不備があってはならない。問屋場はてんてこ舞だったろう。一行は翌朝は早朝に出立する。

二川宿の福岡藩のケースではないが、広重の浮世絵に参勤交代の出立の様子を彷彿(ほうふつ)とさせる場面がある。東海道47番目の宿場町・関宿(現在の三重県亀山市)の朝を描いた、『東海道五十三次 関 本陣早立』だ。

『東海道五十三次 関 本陣早立』広重画。左の建物の陣幕の下に関札が掛かっているのが見えている。その前には、駕籠が控える。陣幕の家紋は広重の父方の姓「田中」の字と御所車を組み合わせたもので、特定の大名を指しているわけではない。国立国会図書館所蔵
『東海道五十三次 関 本陣早立』広重画。左の建物の陣幕の下に関札が掛かり、その前には、駕籠が控える。実は、関札に大名の名はなく、よく見ると化粧品の宣伝になっている。陣幕の紋も、広重の父方の姓「田中」の字と御所車を組み合わせた架空のもので、広重流のユーモアにあふれている / 国立国会図書館所蔵

家紋を染め抜いた幕を張った本陣に、関札、提灯、大名が乗る駕籠が揃い、殿様が出てくるのを待っている。家紋や関札などはすべて架空のものに書き換えられているが、紛れもなくどこかの藩の慌ただしい出発シーンをモデルにした浮世絵だろう。

大名行列の宿泊で宿場町には膨大なカネが落ちた

宿場町にとって大名行列は上顧客だった。特に大藩が宿泊すれば、一晩で膨大な金が落ちた。逆に、不手際があったり、他の宿場のサービスが上回っていれば、上顧客を奪われかねないリスクを常に抱えていた。

だからだろう、規模の大きい宿場町本陣の主人たちは、正月になると諸藩の江戸藩邸に挨拶に出向き、献上品を贈った例も記録にある。営業活動に余念がなかったわけだ。大名行列の宿泊誘致は宿場町、ひいては地方の浮き沈みを左右する重大案件であり、だからこそ各宿場は鎬(しのぎ)を削り合った。

こうした過当な競争が、地域農村やそこに暮らす領民に、負担を強いることもあった。次回は宿場町の運営システムの「負」の部分を見ていきたい。

バナー写真 : 『木曽海道六拾九次之内加納』広重画。中山道(木曽街道)53番目の宿場町・加納(現在の岐阜県岐阜市)を通過する大名行列。中山道では5番目に規模の多きい宿場町だった。国立国会図書館所蔵

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