参勤交代のウソ・ホント

街道と宿場町の発展が地方に強いた負担

歴史 都市

NHK大河ドラマ『晴天を衝け』(第2回)に、興味深いシーンがあった。渋沢栄一が住む血洗島(現埼玉県深谷市)を治めていた岡部藩の代官が、「若殿の御乗り出し」のために道(中山道)を整備するから、御用金を献金せよと、栄一の祖父と父に命じる場面である。

『晴天を衝け』に描かれた領民の悲哀

岡部藩は譜代大名の安部(あんべ)家が藩主である。嘉永3(1850)年、まだ幼少だった12代藩主・安部信宝(のぶたか)は、江戸城に登城し、将軍・徳川家慶(いえよし)に拝謁した。『晴天を衝け』にあった「若殿の御乗り出し」とは、信宝が初めて将軍に拝謁した、この時のことを指していると思われる。

岡部藩は城持ち大名ではない。江戸定府(藩主が江戸に定住)の大名であり、参勤交代の義務はなかった。信宝も江戸にいて、将軍に拝謁(はいえつ)した後に大名行列を率いて国許へ凱旋(がいせん)帰国する予定だったのか、またはこの時は国許にいて江戸へ向かう予定だったのか、どちらだったかは判然としない。

いずれにせよ藩主の行列が率いて中山道を通るから、恥ずかしくないように補修せよ——ということである。

信宝は、数え12歳だった。

この逸話で肝心なのは、自領内の街道の工事などは大名が行っていたこと、工事は大名行列が通過するために不可欠だったこと、そして、そのための費用を領民に命じ、大金を拠出させていたことを示唆していることだ。

岡部藩は大坂城・二条城の警護を担う定番(じょうばん)の役職を任されることもあったから、何かと物入りで、道の補修費用の負担は領民に転嫁するより、他に方法がなかったのかもしれない。

血洗島の農民が「若殿の御乗り出し」のために駆り出されたエリア。(イ)が中山道の深谷宿、(ロ)が工事を行ったであろう街道の略図、(ハ)に岡部藩藩主・安部摂津守の名が見える。『日本街道総覧』筆者所蔵
血洗島の農民が「若殿の御乗り出し」のために駆り出されたエリア。(イ)が中山道の深谷宿、(ロ)が工事を行ったであろう区間、(ハ)に岡部藩藩主・安部摂津守の名が見える。『日本街道総覧』筆者所蔵

大名行列が円滑に行軍できるよう、街道の普請・維持・管理を行ったのは各地の藩であり、そこに領民の金が吸い上げられていたのである。

農村の荒廃を招いた一因

領民が拠出したのは金だけではない。労働力もだった。近隣の村々は男たちを人足として出し、工事を担った。その間、農作業は村に残った女子供たちでやるしかなかった。生産力も落ちたろう。

領民には、他にも負担があった。この連載第5回で、幕府は参勤交代のため、各宿場町に輸送用の人足と馬の常備を義務付けていたと書いたが、これも問題をはらんでいた。
宿場町だけで人馬を揃えられないと、近隣の助郷(すけごう / 人馬の調達を負担する農村)に応援を依頼するのだが、その賃金は公用のため無償、あるいは日当2〜3文だった。農民たちは、まったく割に合わない賦役(ふえき)を強いられていた。

藤枝宿での人馬継立(宿場ごとに人馬を交代させる制度)。描かれた人足が「助郷」だったかは不明だが、仮に助郷だった場合、彼らの賃金は驚くほど安かった。歌川広重『東海道五十三次藤枝 人馬継立』 / 国立国会図書館所蔵
藤枝宿での人馬継立(宿場ごとに人馬を交代させる制度)。描かれた人足が「助郷」だったかは不明だが、仮に助郷だった場合、彼らの賃金は驚くほど安かった。歌川広重『東海道五十三次藤枝 人馬継立』 / 国立国会図書館所蔵

挙句、年貢を納めるのに困窮する。そうなると、離村する。農民が逃げ出す原因は主に自然災害や天候不順によるが、助郷制度の理不尽もトリガーの一つに数えていいだろう。 参勤交代と助郷は、制度自体に農村の荒廃を招きかねない要素があった。

宿代を値切りまくる藩役人

半面、宿場町は人馬常備の代わりに、地子(じし / 宅地の租税)の免除を幕府から認められるのが一般的であり、大名行列の食事用の米(入用米 / にゅうようまい)も支給されていた。

一見、至れり尽くせりの厚遇に見える。だが、実は宿場町も経営に苦労していた。参勤交代はとにかく旅費の倹約がモットーであるため、宿代の引き下げを持ちかける藩が多かったのである。

『参勤交代』(講談社現代新書 / 山本博文氏著)に、一例が紹介されている。

それによると、萩藩(長州藩)は安永10(1781)年、矢掛宿(現岡山県小田郡矢掛町)と値引き交渉している。以前は1人143文だった旅籠の宿代を、同128文にしてほしいと言ってきたとある。

「それでは困ります」と問屋場は断ったが、相手は武士、身分が違う。一向に聞き入れようとしない。難儀を極めたが何とか交渉し、その結果、138文に下げることで合意した。

萩藩の大名行列は約600〜700人だったとされる。値引き1人当たり5文×600〜700人で、単純計算だが3000〜3500文。1文=25円として7万5000〜8万7500円となる。大した金額ではないように感じるかもしれないが、旅籠は下級藩士が泊まる小規模経営の「民宿」だから、一晩7〜8万円の減収は痛かったはずだ。

毛利家ともあろう藩が細かい値切り交渉をしたものだと思われるだろうが、こんな交渉は他藩でも日常茶飯事だったと考えられる。

藩主や重臣専用の宿泊施設・本陣も、問題を抱えていた。

西国街道の郡山宿(現大阪府茨木市)椿本陣に残る宿帳によると、参勤交代行列が利用した回数は、1年あたり平均22.7日で、月2日にも満たない。稼働率が極めて悪いのである。

しかも、参勤は年2回に集中するため、まったく予約がない月もある。最重要街道である東海道などでは少しはマシだったろうが、本陣の稼働率の低さは全国共通の課題だった。

現在の郡山宿椿本陣。記録によると、椿本陣に大名が宿泊するのは年22.7日ほどで、稼働率は低かった
現在の郡山宿椿本陣。記録によると、椿本陣に大名が宿泊するのは年22.7日ほどで、稼働率は低かった(pixta)

本陣はどこもおしなべて採算が合わず、経営は苦しかったと考えていい。次第に赤字が累積し、江戸時代後期は止むに止まれず、閑散期に庶民を受け入れるケースも出てくる。

参勤交代の義務化によって、街道と宿場町は飛躍的に発展し、インフラとして欠くことのできない存在となった。人の往来と物流により、日本の経済成長も促した。だが半面、地方が疲弊していく原因の一つでもあった。

バナー画像 : 『木曽街道六拾九次 支蘇路ノ駅本庄宿神流川渡場』国立国会図書館所蔵、本庄宿は中山道最大の宿場町として、参勤交代行列が多く往来した。この浮世絵は本庄宿から5.5km離れた場所にある神流川の橋を大名行列が通る様子を描いている。『青天を衝け』の舞台、武蔵国血洗島はこの近くにあった

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