国家安全法と脱香港

国安法施行後の香港:徐々に高まるメディア関係者の恐怖心

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民主派支持を堅持し、中国共産党や政府への批判的姿勢を貫いてきた香港紙『リンゴ日報(蘋果日報/アップルデイリー)』は2021年6月24日の朝刊を最後に、26年の歴史に幕を下ろした。2020年7月1日に香港国家安全維持法(国安法)が施行されてから、21年5月までの間に当局が同法を適用した逮捕者の数は107人。その中には、リンゴ日報を傘下に持つ大手メディアグループ「壹傳媒(ネクスト・デジタル)」の創業者・黎智英(ジミー・ライ)氏も含まれる。次は国安法をもってジャーナリストが告発される日が来るかもしれない―香港メディア業界にはそんな不安が渦巻いている。

2020年7月13日、香港政府本部には大型バリケードと有刺鉄線が張り巡らされた
2020年7月13日、香港政府本部には巨大なバリケードと有刺鉄線が張り巡らされた

「偽情報、偽新聞、偽記者」

今から1年前の2020年6月30日、記者仲間数人で香港の中環(セントラル)にある 香港式屋台(ダンパイドン)で飲み会があった。業界歴20年以上のベテラン記者が、酒を飲んで涙ながらにこう語っていた。

「絶対に、リンゴ日報を自分でお金を払って購読する。彼らに申し訳が立たない。いつかリンゴ日報は廃刊に追い込まれるんじゃないかと恐怖を感じる」

気まずい空気が流れ、誰も言葉を発することができなかった。言いたいことがあっても口に出さなかった人もいる。ただ、ベテラン記者の肩をポンポンとたたくことしかできなかった。その夜こそ、中国の全国人民代表大会常務委員会が、国安法を香港基本法(憲法に相当)第18条の付属文書3に追加し、即日施行するという日だった。

香港の銅鑼灣(コーズウェイベイ)にかかる陸橋には、抗議の際に描かれたアートの痕跡が残る(2021年5月22日撮影)
香港の銅鑼灣(コーズウェイベイ)にかかる陸橋には、抗議の際に描かれたアートの痕跡が残る(2021年5月22日撮影)

犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを可能にする「逃亡犯条例改正案」の撤回を求めたことに端を発する香港民主化デモでは、香港警察は率先してデモ中に警察官を攻撃した「偽記者」を非難した。

その後、親中派団体や官僚までもが「フェイクニュース(偽新聞)」が民衆を煽動していると非難。林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官に至っては、外国メディアには偏見が満ちていて、政府こそ「フェイクニュースの最大の被害者である」とし、ヘイトメッセージの拡散を禁止する法律の導入を検討する必要があると述べたほどである。メディアへの圧力は徐々に高まっていると言えるだろう。

「フェイクニュース法」導入への緊張が高まるなか、香港メディア業界にはすでに戦慄が走っている。ターゲットは「リンゴ日報」と「スタンド・ニュース(立場新聞)」だと目されている。

20年8月、香港警察は、国安法に基づきリンゴ日報を傘下に持つメディアグループのネクスト・デジタルの代表・黎智英氏を外国勢力との共謀、詐欺、及び煽動の疑いで逮捕した。黎氏の保釈請求は認められず、21年2月以来、収監されたままだ。さらに5月14日、保安局は黎氏の資産凍結を発表。そこには黎氏保有の壹傳媒の全株式と、同氏が保有する企業3社の域内銀行口座が含まれ、評価額は3億香港ドル(約42億円)を超える。

国安法施行から1年もたたない間に、香港警察が2021年6月17日に編集と経営部門のトップら5幹部を、香港国家安全維持法に違反した疑いで逮捕して、保安局も6月18日にも「アップルデイリー」の運営会社など関連の計3社の資金を凍結している。総資産は1800万香港ドル(約2.5億円)である。

21年春にアップルデイリーのベテラン記者ユナさん(仮名)に話を聞いた時には、編集部には重い空気が漂っていると言っていた。同僚は「その日暮らし」のような感覚で仕事をしているように見えていたそうだ。同僚からは笑みがこぼれることもあるが、彼らのプレッシャーは相当なもので、その時点で4〜5人が辞職、中には外国への移住の道を選んだ人もいるという。

会見をする林鄭月娥 行政長官(2020年8月18日撮影)
会見をする林鄭月娥 行政長官(2020年8月18日撮影)

自分はジャーナリストにふさわしい人間なのか?

「この前、夢を見た。警察に自宅に踏み込まれて逮捕される夢。普段は、ほとんど夢を見ることはないし、悪夢にうなされたことなんてないのに。そんな夢を見るということは、きっと知らず知らずのうちに恐怖心が蓄積されているのだと思う」と、ユナさんは穏やかに話した。

彼は「リンゴ日報」が強制解散させられたら、自身にも逮捕の危険が迫ってくると考え、逮捕された場合に備え、弁護士を探すための緊急連絡先を手配することを検討していると言っていた。両親へ報告するかどうかは、互いの政治的立場の違いから対立が深まる可能性があるため、その時点では、迷っていると言っていた。

ユナさんは、恐怖心を完全には克服できていないことを認める。

「政府に異を唱えることが禁じられる全体主義社会で、ジャーナリストが払わなければならない代償は、平和な世界とは全く異なる。恐怖心と共存する術を学ばなければならないが、私はそれがあまり得意ではない」

国安法のために、ユナさんの「自己検閲」はどんどん厳しくなっていった。レッドラインに触れるような行動をためらうことも増え、デリケートなテーマを扱う際に以前のような大胆さは無くなってしまった。彼は「良くないとは思っているし、自分を責めることもある。それと同時に、私は恐れているのだと認めざるを得ない」

また、ユナさんは苦笑しながらこう話していた。

「今の自分はこの職業にふさわしい人間なのか? ジャーナリストを続けるにはもっと強く、勇敢であらねばならないのではないか。私は自分に手錠をかけてこう自問するのです。おい、大丈夫か? 逮捕されてから泣き叫んだってだめだぞ、と」

壹傳媒のビルを封鎖する警察、捜査には200人以上が動員された(2020年8月10日撮影)
壹傳媒のビルを封鎖する警察。家宅捜索には200人以上が動員された(2020年8月10日撮影)

報道の自由を示す指標

ユナさんは、ため息をつきながら2020年を恐怖が高まり続けた1年だったと振り返った。

「最初、国安法は政治関係者だけを対象にしたものだと思っていた。ジャーナリストは大丈夫だろうと甘く考えていたのです。でも今は違う。危機感は増し、見せしめのために複数のジャーナリストを逮捕するだろうと感じている」

ユナさんは「(警察の)リンゴ日報の捜査を経て、香港では組織の声が消されるだけでなく、その手はジャーナリストにも伸びると予感していた。しかもジャーナリストへの取り締まりはロシアンルーレットのようにランダムにやってくるだろう。そうして、より効果的な白色テロ(=為政者による弾圧)が行われる」と述べた。

20年、黎智英氏が逮捕されたその日、警察は200人以上の捜査員を動員し、壹傳媒ビルを封鎖、8時間を超える大々的な捜索を実施した。

そして、後にユナさんの予感が的中したと言える事件が起きる。21年4月21日、公共放送局「香港電台」のドキュメンタリー番組『鏗鏘集(香港コネクション)』のディレクターが有罪判決を受けたのだ。

同番組では19年7月21日に起きた暴力団関係者と見られる集団によるデモ隊の襲撃事件を調査した「7.21誰主真相」を制作。制作の過程でディレクターの蔡玉玲氏が、事件当日、現場に現れた車のナンバーについて管轄局に照会したところ、「書類上で虚偽陳述を行った」として起訴され、罰金6000香港ドル(約8万4000円)の有罪判決を言い渡されたのである。彼女は香港で初めて車の登録情報を照会して有罪になったジャーナリストとなった。

ユナさんは、蔡玉玲氏の一件は1つの指標であると見ている。

「正常な社会では、ジャーナリストが真相究明のためにうっかり法律のグレーゾーンに踏み込んだとしても、寛容に対処する。まして、ジャーナリストが告発されるようなことはない。政権は、有力なジャーナリストをターゲットにしてあら探しをしている」

ユナさんは、香港警察国家安全処は国安法を用いなくても、他の法律をもってジャーナリストを告発すると考えている。他の法律違反による起訴はハードルが低く、ジャーナリストにとっては国安法よりも恐ろしいものだと言えるだろう。

銅鑼湾の陸橋を渡る香港市民。壁に描かれていた抗議の落書きは上からペンキで塗りつぶされていた(2020年5月20日撮影)
銅鑼湾の陸橋を渡る香港市民。壁に描かれていた抗議の落書きは上からペンキで塗りつぶされていた(2020年5月20日撮影)

これは法律ではなく「政治」だ

「管轄局への個人情報の照会」は香港のジャーナリストが調査のためによく使う手法だ。手続きは簡単で、車両や不動産、土地の所有者を特定したり、身分証番号から個人の資産を特定することもできる。一般的にも監査や審査、財産の売買で利用されるものだ。記者歴10年になる調査報道のベテランであるボリスさん(仮名)は、もう車のナンバーを照会する勇気がないと話す。

彼は「蔡玉玲さんの事件で、ゲームのルールが以前とは変わってしまったことを見せつけられた。政権はジャーナリスト個人にまで手を伸ばしている。もし、私には関係ないと思っているとしたら、それは甘い。目を覚ますべきだ」とはっきり述べる。そしてこう付け加えた。

「これは法律の問題ではなく、政治の問題だ。法律は道具にすぎない。蔡玉玲さんの事件が示しているのは、政権にとって好ましくない報道をすれば、ジャーナリスト個人が標的にされるということだ。今回の罰金刑は、先例作りであり、警告だ。これ以上のことが起こらないなんて決して思ってはならないの」

ボリスさんは、香港にとって中国大陸は永遠の基準たる存在だと考える。大陸の姿こそ香港の最終的な姿で、だからこそ大陸で起こっていることを理解する必要があるということだ。

中国大陸のジャーナリストは監視、軟禁、拷問という強烈な圧力を受けている。運が良ければ、香港はそこまで極端なことにはならないかもしれないが、未来の香港で起きることがたとえ大陸の1〜2割であったとしても、それは十分に恐ろしいことだ。

自身の身の危険について問われたとき、ボリスさんは迷うことなく「最悪の場合、刑務所でしょう。誰だって刑務所には入りたくないが、自分の仕事が公正で、やましいところがないなら受け入れるしかない。自分は自分であることしかできないからです」と答えた。

そして続けてこう話した。「そう思っていても、実際に身に降りかかってきたら違うかもしれませんね。気が狂うほど泣くかもしれない」

「私たちが理解しなければならないのは、今や香港は権威社会であるということだ。権威社会において権力の監視はそもそも危険なものだ。私は率先して刑務所に入ろうなんて思いません。もし重大な警告を受けて、その警告の背後にある刑罰がどうしても受け入れられないものであれば、この仕事を辞めるほかないでしょう」と、ボリスさんは神妙な面持ちで話した。

一方で、「今、積極的に考えているのは、多くの権威主義的な場所で活動するジャーナリストたちのやり方を参考にできないかということです。たとえば生活や国際専門に転身して、香港と中国に触れないことにする。エンタメや文化の取材をするのもいいかもしれない。もしくはYouTuberになってもいい。そうやって、政治環境が変わるのを待って、いずれ、ジャーナリストに戻るのです」と言う。

調査報道を専門にするボリスさん(仮名)は、今の香港では車のナンバー照会は怖くてできないとする。
調査報道を専門にするボリスさん(仮名)は、今の香港では車のナンバー照会は怖くてできないとする。

香港でジャーナリストとしての活動は不可能

しかし、全てのジャーナリストが簡単に職業を変えられるわけではない。業界歴20年のフォトジャーナリストのジェームスさん(仮名)は、肩を落として話す。

「私は報道写真以外のことは分からない。写真を撮るしか能がない」

過去に多くのメディアで仕事をしたジェームスさんは、中国の新聞でも働いたことがあり、中国大陸でいくつものスキャンダルをスクープしたものだ。そのツケが回ってくるのではないかと心配しているという。

「国安法の通過後は不安で、眠れない日が続いた」

ジェームスさんは今すぐ起訴されることはないと思ってはいるが、国安法の成立は外国移住を決める決定打となったそうだ。ジェームスさんは、はっきりとこう話す。2019年、香港ではすでに社会の閉塞感の高まりが予見されており、その頃にはジェームスさんの中に外国移住という考えが芽生えていたというのだ。

「ジャーナリストとしての活動はもはや不可能でした。香港は中国大陸のどの都市よりもひどくなる。貧困や弱者などの社会問題を撮影するだけで(政権に)目をつけられる可能性があるのです」と話す。

ジェームスさんはこんな例を挙げてくれた。

「以前、中国大陸で知り合ったジャーナリスト仲間は刑務所に入るか、亡命しました。最も親交があった友人は長期に渡る監視で、精神が参ってすっかり痩せ細ってしまった」

ジェームスさんは21年5月に外国へ移住した。生活が落ち着いたら、ドキュメンタリー撮影を続けていきたいとしている。

フォトジャーナリストのジェームスさん(仮名)は、国外への移住を選択し香港を去った。
フォトジャーナリストのジェームスさん(仮名)は、国外への移住を選択し香港を去った。

持続的かつ慢性的な恐怖

香港記者協会の楊健興主席は、香港メディアの先行きの不透明さに加え、社会全体の抑圧的なムードが、記者たちに一種の長期的な心理的圧力と恐怖を与えていると指摘する。楊主席は「私はこれらを『持続的かつ慢性的な恐怖』と表現する。業界全体が不健全な心理状態にあるのではないか」

楊主席は「メディアに対し、国安法はそう簡単に適用されることはないが、その力は当局が言うように『抑止力』になる。私たちは香港警察国安処が、いついかなる状況で(法を)使うのか分かっていない。見通しが立たない状況が生まれ、誰にとっても他人事ではなくなり、業界全体に(恐怖が)拡散されている状態だ」

楊主席はこうも付け加えた。

「私が思うのは、今の情勢はメディアに手をかけ、(権力への)監視機能を果たせないよう弱体化を図っているのではないかということだ。(政権にとって)国安法は国家安全に関する事案で使える武器の1つだが、実際のところ当局はあらゆる方法を用いて目的を果たそうとするのではないか。今、未来を想像するのは難しい。以前の香港では個人情報の照会が罪になるとは考えられなかった。今は多くの人が様子を見ているところではないだろうか」

香港記者協会の楊健興主席
香港記者協会の楊健興主席

見えない香港メディアの未来

国境なき記者団による2021年版「報道の自由度指数」における香港の順位は80位。これは過去最低だ。同団体は香港国安法により、北京政府の香港への直接干渉が可能となり、「国家安全危害罪」をもって香港の報道の自由とメディア関係者が脅かされていると指摘している。

国安法は施行1年で香港のジャーナリズムに多大な影響を与えた。業界の中には「ジャーナリズムは死んだ」と思う人も少なくない。しかし、ある人はこうも語る。

「我々ジャーナリストは1本のトンネルに入り込んだと言える。トンネルは暗いが、内部には多くの人がいて、共に歩もうと呼びかけてくれている」

ジャーナリストも1人の香港人だ。仕事を続けるかどうかに関わらず、社会不安を目の前にして歯を食いしばりながらその行く末を見届けるしかない。

香港国家安全法の施行後、言論の自由が侵され、多くの記者が未来を見通せないまま、恐怖感を抱えている
香港国家安全法の施行後、言論の自由が侵され、多くの記者が未来を見通せないまま、恐怖感を抱えている

原文中国語 / 文中写真は全て筆者撮影・提供

バナー写真:ニューススタンドに運ばれる最終刊の「リンゴ日報」と廃刊を惜しむ人たち(アフロ)

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