知られざる日台鉄道事情

台湾の発展を支えた縦貫鉄道と劉銘傳(下):日本への継承

歴史

清国統治時代、劉銘傳(りゅうめいでん)によって開かれた鉄道建設。台湾の縦貫鉄道は日本統治時代に完成し、南北が結ばれ全体が単一の経済圏・物流圏となった。モータリゼーションが進む現在でも、都市間輸送の担い手としての存在意義は大きい。前回に続き、縦貫鉄道の建設秘話とその歴史に触れてみたい。

縦貫鉄道の工事が本格化

台湾の南北をつなぐ縦貫鉄道の敷設は、清国統治時代に劉銘傳(りゅうめいでん)が手がけ、日本統治時代に受け継がれた。その工事が本格化したのは、第4代台湾総督の児玉源太郎の時代である。民政局長(後に民政長官へと職制変更)の地位にあった後藤新平は、鉄道建設の重要性を強く感じており、財政的な無理を覚悟の上で、敷設を推し進めていった。2人は華南(中国大陸南部)進出にも強い関心を抱いており、台湾海峡をコントロール下に置くことをもくろんだ。結果的に華南進出の勢いは止まるが、台湾海峡の要衝として澎湖(ぼうこ・ほうこ)は重要視され、のちに海軍要港部が置かれるようになった。

児玉は1899年、第13回帝国議会に台湾鉄道公債法案を提出している。ここで縦貫鉄道敷設と在来鉄道の改良工事の経費として、3000万円の公債を募集した。そして、10カ年継続事業として縦貫鉄道の工事は始まった。

清国統治時代は道路が未整備だったため、まずは資材運搬用の道路を建設することから始まった。続いて簡易軌道が敷かれ、手押し台車(トロッコ)で物資を運搬した。工事は陸軍省が編制した臨時台湾鉄道隊が行なった。

陸軍は一貫して大きな発言力を持っていた。例えば、1904年に縦貫鉄道のルートを確定した際には、ロシアのバルチック艦隊が台湾海峡を通過した場合を考慮し、竹南から彰化までの区間は山岳部を走るルートが採用された。つまり、攻撃に晒されやすい沿岸部を避け、あえて勾配区間を含む丘陵地帯が選ばれたのである。これは陸軍の主張を受けたものだった。

現在、竹南と彰化の間は海沿いを走る海線(海岸線)と山の中を走る山線(台中線)に分かれているが、海線は日露戦争が終結後、明石元二郎総督の時代に山線の勾配を避け、貨物列車の需要増に対応するべく設けられたバイパス線であった。

苗栗県通霄の日露戦争望洋台。結果としてバルチック艦隊は台湾海峡ではなく、台湾東岸を通って北上した。記念碑は戦後、国民党政府によって「台湾光復紀念碑」とされた
苗栗県通霄の日露戦争望洋台。結果としてバルチック艦隊は台湾海峡ではなく、台湾東岸を通って北上した。記念碑は戦後、国民党政府によって「台湾光復紀念碑」とされた

疫病のまん延と抗日勢力の襲撃

工事は北と南の双方から始められた。工区は大きく北部と中部、南部に分けられ、北部は基隆から葫蘆墩(ころとん、のちの豊原)まで、南部は南の打狗(高雄)から濁水(現在の林内付近)までの区間だった。残りの区間が中部工区とされた。

北部においては既存の鉄道線路の改修とともに、外港連絡線として淡水線の敷設を行なった。これは資材の新しい搬入ルートを設けることが目的だったが、実際は浅瀬のために築港はかなわず、淡水河の土砂堆積も進んでいたため、物資の搬入には用いられなかった。

南部については1899年9月から工事が始まった。南部には地形的な障害こそなかったが、日本に対する抵抗勢力が強く、衝突が見られた。そのため、常に防備隊が同行していた。

一方で、中部の鉄道建設は困難の連続だった。縦貫鉄道最大の難所を抱えるだけでなく、疫病や抗日武装勢力の襲撃にも悩まされた。

この地域は湿度が高く、マラリアに感染する危険が高いほか、ペストやコレラも発生していた。何より、不慣れな土地での激しい労働が工員たちの体をむしばんでいった。当時は熱帯病に対する治療法はもちろん、予防の知識も十分ではなく、鉄道部は医務局を置いていたものの、効果を上げていたとは思えない。工区によっては作業員の半数が病床に伏している状態だったという記録も残っている。

また、台湾中部には河川が多く、特に大安渓、大甲渓、濁水渓、大肚渓などは水量の変化が大きく、降雨のたびに氾濫し、工事は中断を余儀なくされた。地質的にも地盤の弱い沖積平野や扇状地が多く、橋脚の基礎工事にも相当な日数を要した。

そのため、河川敷を広く取って堤防を設け、そこを橋でつなぐ形となった。これは現在でもよく見られ、概して台湾の川は河川敷が広い。こういった環境での工事は台湾特有のものであり、そもそも、亜熱帯地域における架橋工事自体が日本人にとって未体験の分野だった。

トンネルについては、北部と中部で起伏に富んだ丘陵地帯を貫く。そのため、苗栗~台中間には9カ所のトンネルが設けられた。縦貫鉄道全体ではトンネルの総数が19カ所なので、実に半数が中部工区に集中していた。

縦貫鉄道の最高地点だった十六份駅(戦後に勝興駅と改称。現在は廃止)。駅の南側のトンネルにはプレートが残り、後藤新平揮毫(きごう)の「開天」の文字が見える
縦貫鉄道の最高地点だった十六份駅(戦後に勝興駅と改称。現在は廃止)。駅の南側のトンネルにはプレートが残り、後藤新平揮毫(きごう)の「開天」の文字が見える

縦貫鉄道の開通式典

1908年4月20日に縦貫鉄道の工事は終わった。基隆~打狗(高雄)間の408.5キロ。開通式典は半年が過ぎた10月24日、台中公園で開かれた。

式典には閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王をはじめ、司法大臣・岡部長職(ながもと)、後に台湾総督となる田健治郎、鉄道の父と称される井上勝など、貴賓が163人、その他の来賓が1200人招かれた。日本本土向けに送られた招待状だけでも800通に及んでいたと言われている。

台中公園の開園は1903年10月28日。ここのシンボルとなっているのは池の畔にある湖心亭である。これは縦貫鉄道開通式典に参列した要人の休憩所として設けられたものである。

この建物は「擬洋風建築」という建築様式に分類される。明治維新以降、日本は文明開化の言葉のもと、西洋文化を積極的に採り入れていた。しかし、本格的な西洋建築を手掛ける技術はなく、土地の大工の棟梁が、写真や設計図を見て、デザインを模倣した建物が登場した。これが擬洋風建築である。明治期の日本にのみ見られたもので、現存するものは少ない。台湾でも珍しい存在で、現在は文化財の扱いを受けている。

台中公園に今も残る湖心亭。台湾でも数少ない擬洋風建築である。式典には清国からの来賓もあった。台中市民のシンボルとも言われている
台中公園に今も残る湖心亭。台湾でも数少ない擬洋風建築である。式典には清国からの来賓もあった。台中市民のシンボルとも言われている

過去と未来、そして今をつなぐ鉄道

縦貫鉄道が開通までに要した時間は約10年である。現在の尺度で簡単に言えないが、その速さは驚異的である。それまでは、台湾の南北を陸路で移動するのに1週間以上を要していたものが、縦貫鉄道の開業後はわずか1日と大幅に短縮された。

昭和期の台北駅の時刻表。1日2往復の急行列車が確認できる。うち1本は夜行列車である。斎藤毅氏提供
昭和期の台北駅の時刻表。1日2往復の急行列車が確認できる。うち1本は夜行列車である。斎藤毅氏提供

縦貫鉄道はその本分を大いに発揮していったが、日本統治時代から戦後にかけても、勾配区間の解消や複線化、列車の高速化、車両の近代化に加え、台湾島を一周する環島鉄道の計画など、不断の改良が続けられた。

植民地における鉄道の意義は計り知れない。英国がマレー鉄道を建設し、フランスがベトナム縦断鉄道を建設したように、鉄道は支配者が安定した統治を敷く際に不可欠なものであった。台湾もその例に漏れない。

縦貫鉄道は新領土台湾の開発という名目のほか、抗日勢力の制圧、北部に偏っていた鉱産資源の採掘と南部への物資運搬、農産物や食糧の搬送、阿里山などで伐採される木材の搬出など、さまざまな目的が絡み合っていた。

同時に、鉄道によって台湾は日本の経済圏に組み込まれた。島の南北を結びつけるだけでなく、島全体が単一の経済圏・物流圏となったのである。もちろん、これは台湾西部に限ったもので、鉄道輸送が及ぶ範囲に限定されるが、産業構造には大きな変化が生まれた。それまでは都市や集落単位で生産し、流通していたものが、大量生産化の実現により、工業化が促されるようになった。

中央政府と地方の一体化という意味合いも大きい。縦貫鉄道を補完する形で発達した製糖鉄道や手押し台車(台車軌道)によって、台湾の利く地域は台北と結ばれた。そして、縦貫鉄道を軸とした連携が構築されたのである。

そして、島内で産する物資は鉄道によって基隆と高雄という南北の港湾に運ばれ、船で搬出されていった。季節を問わずに利用できる鉄道の存在は非常に心強く、大量の物資を効率よく運搬できるようになった。

急行列車の様子。基隆~高雄間の所要時間は最速8時間だった。夜行列車もあった。『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年』より
急行列車の様子。基隆~高雄間の所要時間は最速8時間だった。夜行列車もあった。『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年』より

文化遺産としても扱われる台湾の鉄道

敗戦を迎え、日本は台湾を去り、中華民国政府が新しい統治者となった。鉄道の重要性は変わらなかったが、1990年代に入ると道路網の発達により、モータリゼーションが進んだ。マイカー保有率も年々上昇している。車社会化は確実に進んでいるが、都市間輸送の担い手としての鉄道の存在は依然として大きい。

台湾高速鉄路(台湾高鉄)をはじめとして、列車の高速化はもちろん、利便性の向上や運用効率を高める努力、経営の合理化は不可欠となっている。また、観光列車の運行やイベントの開催、旅行ビジネスなど、多角化経営も求められている。

一方で、台湾の発展を支えてきた功労者としての側面に注目し、引退した駅舎やトンネル、橋梁(きょうりょう)といった施設を文化遺産として保存することにも熱心であり、鉄道史の研究も盛んだ。こういった側面もまた、台湾の「今」を知り、見つめていく重要な 手掛かりと言えるだろう。

清国から派遣された劉銘傳の理想は日本によって完成された。縦貫鉄道は今日も台湾の北と南を結び、過去と未来をつないでいる。東アジアにおける台湾の位置と歴史に注目しつつ、その姿を見つめていきたいところである。

写真は一部を除き、筆者による撮影、提供

バナー写真=縦貫鉄道は台湾の発展を支え、島内移動の主軸を担った大動脈。現在もなお、なくてはならない存在である。昭和初期の様子。桃園付近。

鉄道 台湾 後藤新平 日本 日本統治時代 児玉源太郎