源平の残像とニッポン

伊豆修善寺 : 源範頼と頼家惨劇の痕跡を歩く

歴史 文化 政治・外交

6月19日放送の『鎌倉殿の13人』では、頼朝の異母弟・範頼が暗殺者の善児に殺害された。もっとも、善児の手にかかるのはドラマの中の出来事である。史料に見られる範頼は謀叛の嫌疑をかけられ伊豆修善寺へ配流となり、その後、歴史から姿を消した。2代鎌倉殿・頼家も後に叔父と同じ運命をたどる。

北条とゆかり深い地・修善寺

「此の里に かなしきものの 二つあり 範頼の墓と頼家の墓」
1892(明治25)年、正岡子規は修善寺を訪れた際、こう詠んだ。

夏目漱石も、修善寺温泉に投宿した時、次の句を詠んでいる。
「範頼の 墓濡るゝらん 秋の雨」

範頼と頼家の2人が流された地・修善寺は、伊豆有数の観光地だ。
伊豆半島の北部にある。

伊豆は北条時政の本拠地だ。修善寺から約10キロメートル北の守山(現在の伊豆の国市)に館があった。義時の領地である江間(同)もほぼ同じ距離にあり、北条とゆかり深い地である。

地名は「修善寺」だが、同地にある古刹は「修禅寺」と表記し、どちらも「しゅぜんじ」と読む。この地名と寺の名、および北条の勢力圏だったことの2点を踏まえ、同地の歴史を簡単に見ていく。

そもそもこの地に寺院が開基されたのは807(大同2)年、創建したのは弘法大師空海とされる。つまり、真言宗の寺だった。

当初は周辺に流れる桂川にちなんで地名は「桂谷」、寺の名も「桂谷山寺」であったとの説がある。

現在も門前には、空海ゆかりの観光名所「独鈷(とっこ)の湯」がある。病で苦しむ父親の身体を、息子が川の水で洗っていたのを見た空海は、水では冷たかろうと煩悩を打ち砕くという仏具の独鈷杵(とっこしょ)で岩を打った。すると温泉が湧き出たという伝説が起源だ。

桂谷の魔物を退治する空海を描いた『修禅寺温泉名所記』の挿絵。空海が寺を開基した伝承にもとづいて描かれた。国立国会図書館所蔵
桂谷の魔物を退治する空海を描いた『修禅寺温泉名所記』の挿絵。空海が寺を開基した伝承にもとづいて描かれた。国立国会図書館所蔵

寺はその後、建治年間(1275〜1278)に中国・宗からの渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう/鎌倉・長建寺を開山)によって臨済宗に改宗する。蘭渓は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(義時のひ孫)が帰依した僧である。

さらに1489(延徳元)年には、今度は曹洞宗に改宗する。後北条氏の祖・伊勢宗瑞(いせ・そうずい/後の北条早雲)が禅師・隆渓繁紹(りゅうけいはんしょう)を招いたのだ。

上記の過程のどこかの時点で、寺は「修善寺」と呼ばれるようになった。正確な時期は不明だが、一般には鎌倉時代初期とされる。『鎌倉殿の13人』では、時政・義時の時代の寺の名は修善寺であり、「善」が「禅」に置きかわり、地名が「修善寺」、寺は「修禅寺」となったのは禅宗が全国に普及してから後という説をとっている(『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 後編』)

幕府と北条は、禅宗と関わり深い。前述の蘭渓道隆と時頼の関係以前にも、臨済宗の開祖・栄西が鎌倉に下向し、頼朝が死んだ1199(正治元)年には不動尊供養の導師を務めた。その後も政子・時政と栄西は深くつながっている。栄西の建仁寺(京都)創建を支援したのも2代鎌倉殿の頼家だ。

つまり、この頃からすでに北条と臨済宗のコネクションは強く、修善寺は北条と禅宗の影響下にあったと考えていい。

なお以下、一部の例外を除き、地名も寺の名前も原則として「修善寺」と表記する。

範頼の暗殺には不明な点も多い

源範頼の配流先が、なぜ修善寺だったかは分からない。だが、後に頼朝嫡男・頼家もこの地に流されたことから見て、鎌倉幕府が「幽閉の地」としていた可能性はある。

推測に過ぎないが、範頼や頼家を遠隔地に幽閉すると、監視が行き届かないデメリットが生じたからではないだろうか。

北条は、頼朝が京都から遠く離れた伊豆に流されたことで、監視の目を巧みにかいくぐった事実を目の当たりにしている。そうしたことを避けるため、あえて目の届く範囲に幽閉したとも考えられるだろう。

範頼の配流が決定したのは1193(建久4)年8月17日、すぐに修善寺へ連行された。いきさつは、『宝暦間記』に記されている。それによると、曽我兄弟の頼朝暗殺未遂の際、範頼と北条政子の元に「頼朝死す」との誤報が届く。範頼はそれを鵜のみにし、自分が鎌倉殿の後継となれば幕府は安泰と述べ、頼朝はこの言動を謀叛の心ありと受けとった。

また『吾妻鏡』は、範頼が「謀叛を起こす気はない」と弁明する起請文を差し出したと記すが、頼朝の嫌疑は晴れなかった

幽閉された後の範頼の消息は不明だが、殺害されたというのが定説だ(明確に死を記した史料がないため、落ちのびたという眉唾な異説も、あるにはある)。

修善寺には幽閉地と墓の伝承がある。

幽閉地は修禅寺八塔司(はったす / 禅宗における寺内寺院)の一つだった信功院で、跡地は現在、修禅寺から徒歩1分の日枝神社にある。

境内には範頼の庚申塔も立ち、解説板は「梶原景時五百騎の不意打ちにあい防戦の末自害」と記し、ここでは景時が殺害したとの説をとっている。

日枝神社。修善寺の鎮守。範頼は、かつてこの神社の入り口にあった信功院に幽閉されたという。
日枝神社。修善寺の鎮守。範頼は、かつてこの神社の入り口にあった信功院に幽閉されたという。(撮影:小林明)

一方、墓は修禅寺の門前通りである修善寺戸田線を西へ300メートルほど歩き、山側に入って急峻な坂を100メートルほど登った場所に立つ。

もともとは範頼の墓と伝わる祠(ほこら)が近隣にあった。そこから1879(明治12)年に骨壺が発掘され、範頼が没した地との伝承を裏づけるとして、1932(昭和7)年に新しく墓が立てられ、現在に至る。

南雲正朗氏著『修善寺より 歴史と風土』(角川書店)はこの祠について、「古い文書に『石祠は八幡宮と称し八月十五日にお祭りする。鎌倉をはばかって八幡に擬祭した』」と記している。

鎌倉から見れば謀叛人のため、公に祀ることができず、修善寺の民は「八幡様」に擬装し、秘かにその死を悼んだという。

範頼の墓。隣に古民家を改装した茶庵(カフェ)がある。普段はカフェに来る観光客以外、ここへ来る人はまばら。撮影 : 小林明
範頼の墓。隣に古民家を改装した茶庵(カフェ)がある。普段はカフェに来る観光客以外、ここへ来る人はまばら。撮影 : 小林明

墓の周囲に民家はあるものの、人影はない。山腹にあるカフェで話を聞くと、大河ドラマの影響で観光客は増えたものの、普段は訪れる人はまれだという。

源頼朝の弟として源平合戦を戦い抜いた武将の墓にしては、あまりにわびしく、寂寥感に満ちている。

政子が建てた頼家鎮魂の経堂

『鎌倉殿の13人』では今後、2代鎌倉殿・頼家の悲劇も描かれるだろう。頼家の死については本シリーズ『「鎌倉殿の13人」が問う合議制の難題』で触れた。

頼家の墓は、範頼の墓と桂川を挟んで反対の鹿山の麓にある。修善寺の名所・竹林の小径にほど近いが、少し外れているので、普段はやはり寂しい場所だ。

土産ショップと雑貨店の間にある路地に入り、石畳を歩く。その先の階段を昇ると、横死した息子のために政子が寄進した経堂・指月殿(しげつでん)に出る。
伊豆で最古の木造建築物といわれ、小さいながらも風格あるお堂だ。堂内に釈迦如来坐像が鎮座している。

指月殿は、息子の霊を弔うために政子が寄進。指月とは「経典」を意味するといわれ、政子は同時に教典も収めた。一部は修禅寺宝物館に現存している。撮影 : 小林明
指月殿は、息子の霊を弔うために政子が寄進。指月とは「経典」を意味するといわれ、政子は同時に教典も納めた。一部は修禅寺宝物館に現存している。撮影 : 小林明

指月殿に安置された釈迦如来。通常、釈迦の像は何も持っていないが、この像は右手に蓮の花を持っているのが珍しい。撮影 : 小林明
指月殿に安置された釈迦如来。通常、釈迦の像は何も持っていないが、この像は右手に蓮の花を持っているのが珍しい。撮影 : 小林明

指月殿に向かって左に歩を進めると、頼家の墓がある。正面に供養塔があり、その裏に小さな五輪石塔が2基。五輪塔が墓で、供養塔は1704(元禄16)年、当時の修禅寺住職が500回忌にあたって建てたと伝わっている。

範頼の墓と比べると立地的に便のいい場所ゆえ今は観光客も多く、墓の奥まで土足で入り写真撮影する者もいるらしい。

範頼の墓。正面に見えているのは供養塔で、この裏にある小さい五輪石塔2基が墓である。撮影 :小林明
頼家の墓。正面に見えているのは供養塔で、この裏にある小さい五輪石塔2基が墓である。撮影 :小林明

すぐ脇に、幽閉中の頼家を支えた13人の家臣たちの墓も立つ。頼家暗殺の6日後、一斉に殺害されたという。実際に13人が殺されたかは不明で、民間信仰として全国にある「十三塚」の一例との説もある。

毎年7月、頼家と13人の家臣、頼家の妻・若狭の局、2人の間にできた子・一幡に扮(ふん)した人々が行列を組んで歩く「修禅寺頼家祭り」が開催され、頼家の墓に参る。町おこしの一環だが、今も同地で親しまれていることを思わせる。

修善寺は頼朝の血を引く2人の殺害という血塗られた歴史を持つ、痛ましい地でもある。『鎌倉殿の13人』はエンタテインメントであると同時に、令和を生きる者にその悲劇を伝えている。

参考文献

  • 静岡県民も知らない地名の謎(PHP文庫)
  • 静岡県の歴史散歩(山川出版社)
  • 重源と栄西(山川出版社)
  • 修善寺より 歴史と風土(角川書店 / 絶版)

バナー写真 : 源範頼の墓。民家の間を縫うように歩くと出会う。小高い丘に立つため眺望はいいが、人影はない (撮影 : 小林明)

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