源平の残像とニッポン

北条義時に立ちはだかった「治天の君」後鳥羽上皇とは何者なのか?

歴史 皇室 政治・外交

126代に及ぶ歴代天皇に、自ら挙兵して武士団と戦った特異な人物が2人いる。82代・後鳥羽天皇と、96代・後醍醐天皇だ。このうち後鳥羽天皇はわずか19歳で第一皇子に皇位を譲って上皇となり「治天の君」(ちてんのきみ / 院政において実権を握る者)として君臨し、鎌倉幕府討幕を目指した。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、北条義時に立ちはだかる“ラスボス”の存在感を示している。

文武両道、万能の帝王

「よろづの道々にあきらけくおはしませ」

『増鏡』(ますかがみ)にある後鳥羽天皇の人物像だ。あらゆる方面(よろづ)に専門的に通じた(あきらけく)、万能の人と評している。『増鏡』は後鳥羽天皇が誕生した1180(治承4)年から、後醍醐天皇が建武の新政を開始する1333(元弘3 / 正慶2)年までを記した歴史書だ。いわば両天皇の事績を中心とした書である。

「よろづ」は和歌や宮廷文化への造詣の深さをはじめ、蹴鞠(けまり)、競馬(くらべうま / スピードや乗馬技術を競う馬術)、笠懸(かさがけ / 馬上から的に矢を射る競技)水練(すいれん / 水泳)、狩猟にまで及んだ。文武両道といっていい。競馬は通常、高貴な人は観覧する側だが、後鳥羽天皇は自ら騎馬したと伝わる。身体能力が高く、スポーツ万能だったことをうかがい知ることができる。(なお和歌と宮廷文化は重要なので後述する)

さらに御番鍛冶(勤番の刀鍛冶)を置き、刀の制作にも熱心だったという。もっとも刀鍛冶については伝承に過ぎず、真相は曖昧だが、京都市東山区の粟田神社(あわたじんじゃ)は、後鳥羽天皇の御番鍛冶を務めた刀工衆・粟田口派が信奉した社(やしろ)といわれている。

「よろづ」に通じる才能の萌芽は、すでに幼少時に見えていた。王朝文化研究家の目崎徳衛氏(故人)は『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館)で、「生来の行動的性格」を指摘し、その一つの逸話として、後白河法皇が次期天皇を選ぶ際に行った面接テストを挙げている。

面接にのぞんだ皇位継承者の候補は2人いた。惟明(これあきら)親王と、尊成(たかひら)親王だ。

この時(1183/寿永2年)、幼き安徳天皇と次弟・守貞(もりさだ)親王は平家の都落ちとともに福原(現在の神戸市)にあり、京都にいなかった。後白河法皇は天皇不在による政務の停滞を避けるため、惟明と尊成のどちらかを新天皇として擁立しようとしたのである。

天台宗僧侶だった慈円が著した『愚管抄』には、面接の時に尊成が後白河を「おじいさま」と呼び、法皇を喜ばせたとある。また『源平盛衰記』には、尊成が法皇の膝に乗り甘えてきたという。

物怖じしない活発な皇子を法皇はいたく気に入り、天皇に指名した。また、九条兼実の日記『玉葉』は、2度の卜占(ぼくせん/占い)の結果、尊成に決まったとも記している。

「帝王」後鳥羽の誕生である。

だが、後鳥羽天皇にはコンプレックスがあったといわれる。

後鳥羽天皇が即位したのは1184(元暦元)年だが、正統な天皇の証しである勾玉(まがたま)、鏡、宝剣の三種の神器は安徳天皇とともに平家の手にあった。つまり神器なしで即位した、史上類を見ない天皇だった。このことが、後鳥羽の生涯に劣等感として影を落としたと指摘する研究者は、決して少なくない。

しかも翌年には壇ノ浦の戦いが起こり、安徳天皇は三種の神器ともにも海に没した。勾玉と鏡は回収されたものの宝剣は失われ、戻ることはなかった。

目崎徳衛氏は前述の慈円が『愚管抄』で、「宝剣(失)せ果てぬる事こそ、王法には心憂(う)き事にて侍(はべ)るべし。(中略)武士の君の御守りとなりたる世になれば、それに代えてうせたるにやと覚ゆる也」と書いた点に着目。

「宝剣が海に消え失せたのは、国王守護の役割を武家に譲ったのだという『道理』を、慈円は力説している」(『史伝 後鳥羽院』)と分析している。

宝剣を失った以上、政権が武家に移るのは「道理」である――側近だった慈円までそう考えているのは、後鳥羽天皇に大きな痛手だったろう。その痛手を挽回すべく帝王学の習得に傾倒し、かつ武家に敵愾心を燃やしていったと考えられる。

『新古今和歌集』と『世俗浅深秘抄』

1198(建久9)年、わずか19歳で第一皇子の為仁親王に譲位し、自らは上皇となる。為仁が83代・土御門天皇である。こうして、その後23年にわたる後鳥羽院政が始まった(以下、上皇と表記)。

専制支配が確立されたのは1201(建仁元)年頃だった。公家と寺社を統制し、一強独裁といえる強力な体制を築いた。同時に3代鎌倉幕府将軍・源実朝とも強固なパイプを構築し、武家までも操ろうとした。

「後鳥羽一強体制は院政の完成形態」と、歴史学者の元木泰雄氏は述べている(『承久の乱』所収「後鳥羽上皇とはいかなる人物だったのか?」廣済堂出版)。

後鳥羽上皇の主な事績は2つある。

まず1つが『新古今和歌集』の編纂だ。和歌は帝王の文芸として欠くことのできないものだったが、後白河院政期に法皇が和歌より今様(平安期の流行歌といえる歌謡)を愛したこと、また源平争乱の政情不安もあり、衰退した文化だった。上皇は『新古今和歌集』によって、荒廃した社会の人心掌握を試みようとしたのである。

それで世の中が救えるのかと、現代の視点で見れば思わざるを得ない。だが、治天の君にとって和歌は当時、それほど重要だったのである。

1224(貞応3)版の『新古今和歌集』第1集。二番歌を詠った「太上天皇」が後鳥羽上皇。「ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 霞たなびく」。有名な一首である。国立国会図書館所蔵
1224(貞応3)年版の『新古今和歌集』第1集。二番歌を詠った「太上天皇」が後鳥羽上皇。「ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 霞たなびく」。有名な一首である。国立国会図書館所蔵

2つ目が有識故実(ゆうそくこじつ)の集大成『世俗浅深秘抄』(せぞくせんしんひしょう)の完成である。

有識故実は宮廷の儀礼・儀式などを指し、身分秩序を保つ上で不可欠だった。儀式・儀礼の遂行は神聖なる帝王の権威を示す政(まつりごと)そのものだった。

後鳥羽上皇は有識故実の先例を熱心に学び、また公卿たちにも強制していたことが、藤原定家の日記『明月記』からうかがえる。

そうした勉強の成果をまとめた『世俗浅深秘抄』は、上皇の威厳をいっそう高めた。

『世俗浅深秘抄』写本。守るべき有識故実がずらりと並ぶ。国立公文書館所蔵
『世俗浅深秘抄』写本。守るべき有識故実がずらりと並ぶ。国立公文書館所蔵

貴族たちは上皇に心酔した。上皇も大臣らを次々と交代させ、他の者が権力を握ることを許さなかった。

こうなると官職は形骸化し、上皇の思惑でいかようにでも動かせる。死去する前の源実朝が「内大臣・右大臣に昇進できたのもこのため」(元木泰雄・同)だった。

もう1つ、厳密には事績といえないだろうが、「西面の武士」創設も重要だ。

西面の武士は上皇の直轄軍である。そもそも院(上皇)御所の北側を警護する「北面の武士」という軍が存在していたが、西側にも新設し、兵力を増員したのである。

創設年などは不明。関幸彦氏『承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館)によると、『吾妻鏡』1206(建永元)年5月6日条に鎌倉御家人が「西面に候(こう)ず」とあるのが初見だという。

後白河院政期に「北面」が弱体化したことを補うのが目的だった、いや、そもそも鎌倉幕府に対抗するための軍備だったなど、創設の狙いは諸説ある。いずれにせよ、部隊を構成する武士は幕府の「在京御家人とは別個に動員」(元木泰雄・同)された者も多く、鎌倉とは独立した軍だったと考えられる。

しかし、西面は寄せ集めの色合いが濃く、かつ未整備だった。武芸を好む上皇肝いりの軍ではあったろうが、統率・訓練にまで十分に目を配ることはできなかったといえよう。西面は準備不足のまま、承久の乱の上皇軍主力を担うことになる。

度重なる武士の暴走が上皇に及ぼした恐怖

上皇の運命が狂い始めるのは1205(元久2)年、鎌倉の御家人ながら近臣として仕えていた平賀朝雅が、北条義時が差し向けた軍勢によって暗殺された頃からである。

つまり幕府軍が京都に介入してきたことを意味する。洛中の戦闘は、後鳥羽上皇にとって初めての経験だった。ショックは計り知れなかった。

1219(建保7)年2月13日の雪の日には、鎌倉で源実朝が暗殺される。これによって京都と鎌倉の関係が破綻する危機に直面する。

実朝の死によって、上皇は鎌倉への恐怖をいっそう強くし、かつ敵視した。まず、鎌倉がすでに願っていた、実朝の後任に親王を次期将軍として下向させる案を拒否。親王を鎌倉殿とするのは「天下を二分する」と突っぱねたのである。

次に上皇が愛妾に与えていた摂津国(現在の大阪府)の荘園から、鎌倉幕府の地頭を排除するよう要求する。鎌倉が納得できるものではない。両者は物別れに終わる。

そこで幕府は、北条義時の弟・時房率いる軍勢1000人を上洛させる強硬策に出た。京都で戦闘が起きかねない恐怖が、上皇を再度襲った。この時は、左大臣九条道家の子・三寅(みとら)を親王の代わりに将軍として送ることで鉾を収める。

九条家から4代鎌倉将軍に迎えられた三寅(藤原頼経)。摂家将軍と呼ばれた。承久の乱が終わると5代執権・北条時頼によって鎌倉を追放され京都へ戻る。『集古十種』国立国会図書館所蔵
九条家から4代鎌倉将軍に迎えられた三寅(藤原頼経)。摂家将軍と呼ばれた。承久の乱が終わると5代執権・北条時頼によって鎌倉を追放され京都へ戻る。『集古十種』国立国会図書館所蔵

ところが今度は、京都の内裏警護を務める御家人・源頼茂が三寅の将軍決定に怒って幕府に反旗を翻し、またもや戦闘が起きる。頼茂は源氏の名門であり、秘かに将軍の座を狙っていたからだという。だが、内裏に立て籠もった頼茂は西面の武士らに攻められ火を放って自害。内裏は消失してしまう。

上皇はこの暴挙に激怒した。そもそも頼茂の謀反は鎌倉幕府の内紛である。それに巻き込まれたあげくの内裏焼失は、大きな衝撃だった。

さすがの上皇もショックだったのか、病に伏した様子を『愚管抄』は記す。目崎徳衛氏はこの病を「集中力が欠けて得意の乗馬で事故を起こし(中略)さしもの強壮な心身が堪えられなくなった結果であろう」と分析する(『史伝 後鳥羽院』)

上皇は半ば正気を失いつつあったのかもしれない。

だが、この時点でも武士を侮り、鎌倉を牛耳る最高権力者・北条義時との対決姿勢を崩そうとしなかった。強気の性格とプライドが見てとれる。

ついに承久の乱の火蓋が切って落とされようとしていた。

バナー画像 : 後鳥羽天皇像。原本は天皇の離宮・水無瀬殿の跡地に立つ水無瀬神宮(大阪府三島郡)が所蔵している。東京大学史料編纂所所蔵模写

参考文献

  • 『史伝 後鳥羽院』目崎徳衛 / 吉川弘文館
  • 『承久の乱と後鳥羽院』関幸彦 / 吉川弘文館
  • 『承久の乱』所収「後鳥羽上皇とはいかなる人物だったのか?」元木泰雄 / 廣済堂出版

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