源平の残像とニッポン

源実朝暗殺の黒幕は義時か? 義村か? それとも…

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3代鎌倉殿・源実朝は1219年2月13日(建保7年1月27日)、鶴岡八幡宮で甥にあたる公暁(こうぎょう)の襲撃を受け、無念の死をとげる。将軍が暗殺される悲劇はなぜ起きたのか?「公暁の背後には黒幕がいた」とする諸説が流布しているが、それはいったい誰だったのか? その真相に迫る。

『愚管抄』と『吾妻鏡』の違い

暗殺当日を記録した史書『愚管抄』と『吾妻鏡』をひも解いてみたい。

同じ出来事を取り上げた2つの史料は記述内容が異なっており、このことが後世、実朝の死の真相に諸説紛々となる原因だ。

まず『愚管抄』の暗殺場面を、『愚管抄 全現代語訳』(訳・大隅和雄 / 講談社学術文庫)から引用する。(全文引用は長文となるため、筆者の判断で一部省略)

「夜に入って鶴岡八幡宮に対する奉幣(ほうへい / 神に捧げものをする)が終わり、実朝は神前の石段を下った。その時実朝に、修行のいでたちで兜巾(こきん / 山伏などが被る頭巾)をつけた法師が走りかかり、一の刀で首を斬り、倒れた実朝の首を打ち落としてしまった。一の刀を振り下ろす時、『親のかたきをこうして討ってやるぞ』といったが、公卿どもはそれをはっきりと聞いた」

源実朝木像/甲斐善光寺所蔵
源実朝坐像 / 甲斐善光寺所蔵

1797(寛政9)年に描かれた鶴岡八幡宮。赤枠の場所が暗殺現場だ。公暁が身を潜めていたと伝わる銀杏の木もある。『東海道名所圖會6巻』国立国会図書館所蔵
1797(寛政9)年に描かれた鶴岡八幡宮。赤枠の場所が暗殺現場だ。公暁が身を潜めていたと伝わる銀杏の木もある。『東海道名所圖會6巻』(国立国会図書館所蔵)

『吾妻鏡』も惨殺までは同じである。こちらは『眠れないほどおもしろい吾妻鏡』(板野博行 / 三笠書房王様文庫)をはじめとした書籍をもとに、筆者がまとめた。

「実朝は夜遅くなって神前への儀式が終わり、引き下がってきたところを八幡宮別当阿闍梨公暁が石階の脇から窺い、劔(つるぎ)をとって殺害した。ある人がいうには公暁は『父の仇を討った』と自ら名乗っていたとのこと」

『吾妻鏡』建保7年1月27日条 / ①「父の仇を討った」と公暁が名乗りをあげる②「今将軍之闕(けつ)あり。吾專ら東關之長にあたる也」と読む。公暁は「将軍の席が空いた。私が関東(東關)の長(将軍)に就く」と三浦義村に告げる。
『吾妻鏡』建保7年1月27日条 / ①「父の仇を討った」と公暁が名乗りをあげる②「今将軍之闕(けつ)あり。吾專ら東關之長にあたる也」と読む。公暁は「将軍の席が空いた。私が関東(東關)の長(将軍)に就く」と三浦義村に告げる。(国立公文書館所蔵)

両史料に見える「神前」とは、実朝が右大臣に昇進したことを記念する拝賀儀式を行った場で、儀式には京都から招いた公卿たちが参列。凶行は彼らの眼前で起きたのである。

問題は、凶行の前後にある記載だ。『愚管抄』は前述の箇所の直後、こう記す。

「三、四人同じような者があらわれて供の者を追いちらし、(源)仲章が先導役で松明を振っていたのを義時だと思い、同じように切り伏せ殺した。実朝は、太刀を持って傍にいた義時にすら、中門にとどまるよう制止していた」

『吾妻鏡』はこうだ。

「八幡宮の楼門に入る時、義時は急に気分が悪くなり、将軍の太刀を源仲章に渡して下がり、参列から離れて屋敷に帰った」

さらに後日談として2月8日条には、義時が大蔵薬師堂に参拝したことを記す。

「(義時は)先月27日戌の刻(午後8時頃)、実朝拝賀の供をしていた際、白い犬を見て急に気分が悪くなり、太刀持ちの役を仲章に交代して引き揚げた。だが、義時が太刀持ちであると公暁は思い込んでおり、仲章の首を切った。ちょうどその時、このお堂から戌神将は消えていた」

襲撃犯が義時と思って斬り捨てたのは、実は仲章だった ― この点は両史料に共通している。しかし、義時が難を逃れた理由を、『愚管抄』は、「実朝の命によって参列から外れ、中門にいた」と記し、『吾妻鏡』は、薬師如来を守護する戌神(じゅつしん/十二神将の戌(いぬ)の神)が薬師堂から消え、白い犬に姿を変えて義時の前に現われた。つまり義時が行列から外れたのは、神が危機を知らせたからと暗示しているのだ。

実朝暗殺の黒幕を疑う諸説

義時がその場にいなかったことは、なんとも怪しい。

実朝暗殺の黒幕は義時であり、彼こそが裏で糸を引いていたという説は、あまりにもタイミングよくその場にいなかったことが根拠となっている。

黒幕といわれたのは義時の他に三浦義村もいる。また「黒幕はいない、公暁の独断」とする単独犯行説も根強い。一覧にまとめ、それぞれの説を支持する主だった研究者らをまとめたのが下表である。

黒幕 「支持」または「可能性はある」とする研究者
北条義時説 安田元久(故人 / 『北条義時』吉川弘文館)
本郷和人(『承久の乱』文春新書)
三浦義村説 永井路子(『炎環』文春文庫他)
石井進(故人 / 『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論)他
公暁単独説 坂井孝一(『源氏将軍断絶』PHP新書・他)
山本みなみ(『史伝 北条義時』小学館)

他に後鳥羽上皇説(谷昇『承久の乱に至る後鳥羽上皇の政治課題』立命館文学588号)などもある。

表について補足説明する。

「義時黒幕説」は古くから存在し、江戸時代の朱子学者で、徳川幕府6代将軍・家宣の侍講(じこう / 君主に学問を講義する者)を務めた新井白石著『読史余論』(政治史を論じた書)にある。

鎌倉幕府2代執権で、かつその後の幕府を主導していく北条得宗家の主が、重要な儀式に「中門に留まれ」(『愚管抄』)と指示されるような小さな存在であってはならない。それゆえ、義時は白い犬のお告げで危機を回避した神に守られた者だと、『吾妻鏡』は改ざんした — その裏には、義時こそが公暁をそそのかした黒幕だったという秘密が隠されていると、白石は論じたのである。

だが、義時説はいまや旗色が悪い。

というのも、中門に留まるよう指示されていたのは義時だけではなく、弟の時房、有力御家人の足利義氏ら当日の警護を担っていた全駆(拝賀行列を先導する武士たち)20人全員だったことが分かったからだ(『源実朝』坂井孝一 / 講談社選書メチエ)。つまり、武士は中門に留まる役割だった。義時は役目に忠実だったに過ぎない。

三浦義村黒幕説は、作家・永井路子が直木賞受賞作『炎環』(1964年)の中で取り上げたのが最初で、その斬新さに歴史家が注目し脚光を浴びた。論拠となっているのは、公暁と三浦氏の関係の深さだ。

三浦義村は公暁の乳母夫であり、また子の駒若丸が公暁の門弟という間柄にあった。そこで公暁を担いで実朝と義時を殺害させ、同時に挙兵し義時の屋敷を襲撃、北条を滅ぼそうと画策したというのである。

ところが義時が危機を察知し難を逃れたため、義村は結局、公暁を見捨てる。公暁は口封じのため討たれる——すべての黒幕は義村と、解釈したのである。

だが、義村黒幕説も論証に脆弱さがあると指摘され、こちらも今や旗色が悪い。そうなると今後、消去法で黒幕説は消えていき、主流となるのは公暁単独犯説だろう。

公暁の胸の内とは?

では、なぜ公暁は単独で凶行に及んだのか? 勝算はあったのか?

2つの動機が指摘されている。そして、彼なりに勝算があったことも透けて見えてくる。

第1の動機は、4代鎌倉殿には自分こそが就くべきという強烈な自負、第2は父親・頼家の仇を討つことだ。

この時期の出来事を時系列に並べると、次のようになる。

  • 建保5(1217)年6月20日 修行を終えた公暁が鎌倉に帰還。
  • 同年10月頃、公暁が八幡宮別当に就任し、11日から「千日参籠」を開始。
  • 建保6(1218)年2月 政子が上洛し、実朝には子ができないので後鳥羽上皇の親王を次期将軍として鎌倉に迎えたい旨を奏上。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証を担当する坂井孝一氏は著書『源氏将軍断絶』(PHP新書)で、「鎌倉帰還、鶴岡のトップ就任、これらが若い公暁の前に転がり込んできたのである。二代将軍の子として父の遺跡を継ぎ将軍となる。(中略)だが、そのためには実朝に死んでもらわなくてはならない」と分析。

『梅幸百種之内 公暁禅師』は、公暁を描いた役者絵/東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『梅幸百種之内 公暁禅師』は、公暁を描いた役者絵/東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

だが、その願いも虚しく、幕府と実朝は京都から親王を4代将軍として迎えることで合意してしまった。この件を公暁がいつ知ったかは定かではないが、千日参籠の最中ではなかったかと推測できる。

坂井孝一氏は、公暁は「僧侶の自分には調伏という武器がある」と考えていたという(『源氏将軍断絶』)。千日参籠とは大願成就のため3年以上を祈願に費やす修行だが、当初それは実朝を調伏する目的があったという。事実、参籠しているにも関わらず「除髪の儀なし」(『吾妻鏡』建保6年12月5日条)とあり、剃髪していない。還俗して鎌倉殿になる意思があったからと見られる。

しかし、参籠に入った後、極秘に進んでいた親王将軍下向の情報を知った。親王が新将軍に就き、実朝が後見となってしまっては、もはや手遅れだ。

公暁は焦った。そこで暗殺を実行——あり得ることだろう。

また、父の仇討ちは当然の動機だ。頼家殺害を指示した義時を亡き者にするのは、悲願でもあったはずだ。実朝を斬った直後に「親の仇をとった」と叫んだと記されるが、これは2代鎌倉殿・頼家の子であり、その仇を討った自分には鎌倉を治める正当性があると宣言しているに他ならない。正当性があれば、列席していた公卿も、御家人たちも納得する。彼なりに勝算はあったといえる。

2つの動機と勝算が交錯し、公暁は暴発した。

実朝を殺した公暁は、その足で三浦義村に使者を送り、「今将軍之闕(けつ)あり。吾專ら東關之長にあたる也」と義村に告げる。「将軍の席が空いたから、私が関東(東關)の長(将軍)に就く順がきた」という意味である。この発言は『愚管抄』『吾妻鏡』ともに記している。

しかし、父の仇・北条義時は生きていた。義時暗殺に失敗したことによって、公暁の目論見は水泡に帰す。討つべき相手は、実朝より義時を優先すべきだったのである。

義時が健在である以上、鎌倉は何ら変わらない。義時率いる鎌倉は、京都の後鳥羽上皇との最終決戦・承久の乱にひた走っていく。

バナー写真 : 『美談武者八景 鶴岡の暮雪』月岡芳年画。雪が積もった八幡宮で実朝に斬りつける公暁を描いている。©アフロ

参考文献

  • 『史伝 北条義時』山本みなみ / 小学館
  • 『鎌倉殿と執権北条氏』坂井孝一 / NHK新書
  • 『源氏将軍断絶』坂井孝一 / PHP新書
  • 『源実朝』坂井孝一 / 講談社選書メチエ
  • 『承久の乱』本郷和人 / 文春新書
  • 『愚管抄 全現代語訳』大隅和雄訳 / 講談社学術文庫
  • 『眠れないほどおもしろい吾妻鏡』板野博行 / 三笠書房王様文庫
  • 『炎環』永井路子 / 文春文庫版

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