大奥の謎 愛と権力に彩られた徳川250年の裏面史

智泉院事件 : 将軍に寵愛された娘を利用した “なまぐさ坊主”

歴史 政治・外交 文化

天保12(1841)年閏1月7日、後世に「オットセイ将軍」と揶揄された11代・徳川家斉が死去する。ほどなくして寺社奉行・阿部正弘は、下総国の智泉院(ちせんいん)の前住職・日啓(にっけい)ら数人の僧侶を召し捕った。日啓は、家斉の側室で、かつ最も寵愛を受けたといわれるお美代の方の実父だった。

格の低い寺院が異例の大抜擢

徳川家斉の将軍在位は50年に及ぶ。将軍の座を退き、嫡男の家慶(いえよし)が12代将軍に就いた天保8(1837)年以降も、「大御所」として実権を掌握していた。

その家斉が死ぬと、家慶は待っていたとばかりに自分のカラーを打ち出し、幕閣の人事を刷新した。家斉の大御所政治を支えていた者たちを罷免し、新しい老中首座に水野忠邦を任命。水野は「天保の改革」を主導する。

新しい幕閣には、若き福山藩主・阿部正弘がいた。役職は寺社奉行で、老中に就くのは2年後の天保14年。幕末の黒船来航に対処して名を馳せるのは、まだ先のことだ。

阿部のミッションの1つは、家斉存命中は “アンタッチャブル” だった下総国中山(現在の千葉県市川市)智泉院という寺を摘発することだった。

智泉院は、江戸城では悪名高い寺院だった。日蓮宗の大本山・中山法華経寺の支院でしかなかったのが、いつのまにか格上げされ、法華経寺の「御用取次所」、つまり法華経寺で祈祷する際の「窓口」を担当する寺に収まっていたのである。

なぜ、格の低い寺がそんな重責を担えたか―住職の日啓が、家斉側室のお美代の方の実父だったからだ。

日啓は娘のお美代を旗本の中野清茂の下に奉公に出したのち、清茂が養女として大奥入りを推薦した。清茂は家斉の側近であったから、最初から日啓とはかって将軍お手付きが計画されていたと見ることもできる。

目論見通り、家斉はお美代を見初め、寵愛した。2人の間には3人の姫が誕生し、うち2人は石高の高い大名家に嫁いでいる。

特に文化10(1813)年に生まれた溶姫(ようひめ)は、12代加賀藩主・前田斉泰(なりやす)の正室となった。輿入れの際に新築した加賀藩江戸上屋敷の真っ赤な門が、現在の東京大学赤門であることはよく知られている。溶姫の婚儀の重要性と、お美代の権勢を物語るエピソードといえよう。

だが、側室が権力を持つと、大奥は混乱する。ましてや、実父が出世欲の強い僧侶だったことが、やがて騒動を招く。

『近世人物誌やまと新聞附録 第四 徳川溶姫君』 / お美代の娘・溶君と夫の前田斉泰。「斉」の字はもろちん家斉から賜ったものだ。斉泰は当初、高松藩、富山藩、秋田藩から正室を迎える予定だったが、婚約者が相次いで死去。溶姫との婚儀は本意ではなかったともいう。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『近世人物誌やまと新聞附録 第四 徳川溶姫君』 / お美代の娘・溶君と夫の前田斉泰。「斉」の字はもちろん家斉から賜ったものだ。斉泰は当初、高松藩、富山藩、秋田藩から正室を迎える予定だったが、婚約者が相次いで死去。溶姫との婚儀は本意ではなかったともいう。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

『加賀鳶の圖』 / 加賀藩の大名行列を警護する鳶(とび)たち。左奥に見える赤い門が、上屋敷の御殿門。現在の東大赤門だ。国立国会図書館所蔵
『加賀鳶の圖』 / 加賀藩の大名行列を警護する鳶(とび)たち。左奥に見える赤い門が、上屋敷の御殿門。現在の東大赤門だ。国立国会図書館所蔵

お美代の方が父の厚遇を家斉におねだり

将軍の寵愛を受けたお美代は、何かと家斉に「おねだり」したという。その1つが、日啓の厚遇だ。さほど格式の高くない実父の寺・智泉院を、将軍家の祈祷所にするよう求めたのである。背後に父の意向が働いていたことは想像がつく。

とはいえ、将軍家の菩提寺は芝の増上寺が浄土宗、上野寛永寺が天台宗だ。日蓮宗はそもそも幕府内で影響力が低く、支院が祈祷所に列せられる余地はなかった。そこで苦肉の策として、日蓮宗大本山の法華経寺を祈祷所に加え、智泉院を「御用取次」とする妥協案を提案し、日啓とお美代はこれを承諾するのである。

だが、日啓はそれで満足できなかったのか、かつては日蓮宗でありながら、諸事情によって天台宗に改宗させられていた感応寺という寺を日蓮宗に帰宗させ、そこを拠点に宗派の拡大を狙った。おそらく将軍家菩提寺の一角を担いたい日蓮宗の思惑もあったのだろう。

だが、これは天台宗の大反発に遭い頓挫する。

それならば…と、家斉が鶴のひと声を発したのか、天台宗・感応寺は宗派そのままに名称だけを変更させ、日蓮宗の新たな寺院を創建し、感応寺と名乗らせた。つまり、院号を譲らせるという強引な手法を用いたわけだ。

新・感応寺は、江戸・雑司が谷にあった磐城平藩・安藤家下屋敷の敷地2万8600坪を召し上げて建て、伽藍(がらん)の建設費用も幕府が負担した。常識も慣例もあったものではなかった。

『天保雑記 感応寺地所絵図』 / 家斉きも煎りの雑司が谷・感応寺建設予定地。大名屋敷を召し上げてまで建立した豪華な寺だった。国立公文書館所蔵
『天保雑記 感応寺地所絵図』 / 家斉きも煎りの雑司が谷・感応寺建設予定地。大名屋敷を召し上げてまで建立した豪華な寺だった。国立公文書館所蔵

こうなると、もはや将軍家お墨付きの寺といっていい。天保9年に完成する。

日啓らは遠島に罰せられるが獄死

半ばごり押しともいえる新・感応寺の建立に加え、智泉院も評判は良くなかった。江戸城から下総中山までは7里(約28キロメートル)あり、決して近くはない。にもかかわらず、大奥の御年寄・御中臈・御客会釈(おきゃくあしらい)といった上級女中が、行列をなしてかよっていたのである。

智泉院側も若い僧が彼女たちを饗応した。同時代の記録は、「宮女の陰門を飽くまで坊主にふるまひし」と、男女の乱れた関係があったと記している。

阿部正弘が満を持して智泉院に踏み込み、密通の罪で捕らえたのは、ちょうどそうした噂があった頃だ。

この時の智泉院の住職は日啓の後継者・日尚。日啓の甥(おい)とも、密通の相手との間にもうけた子ともいわれる。もう1人、お美代の兄・日量も捕縛されたとの説もあるが、日尚と日量は同一人物の可能性もある。

これに日啓を加えた数人が召し捕られ遠島の刑に決まったが、江戸を離れる前に獄死した。

当時すでに日啓は70代。女犯の罪を犯すには年齢を重ね過ぎており、実際に女中と密通していたのは甥(または子)の日尚(日量)だったろう。
しかし、僧侶でありながら欲に駆られ、お美代を裏から操る日啓は排除すべき存在であり、同時にお美代の権勢を削いで、大奥の秩序を取り戻す絶好の機会だった。
それほど家斉が残した「負の遺産」大奥の混乱は、幕府を内側からむしばむ “がん”のようなものだった。

事実、『天保雑記 中山智泉院日啓等密通御咎申渡(みっつうおとがめもうしわたし)』(バナー写真)は、「智泉院日啓」と記している。このことは、同寺の実質的なトップは日啓であり、監督不行き届きにより処罰に価すると幕府が考えていたことに他ならない。

一方、御年寄・伊佐野をはじめ約30人が関与したといわれながら、大奥の上級幹部から処罰者は一切出なかった。関与が事実であったにせよ、享和3(1803)年の延命院事件と同じく幹部女中を裁くことは難しかっただろうし、家斉時代の権力者を粛清できさえすれば、それで良かった。

では、お美代はどうなったか? 髪を下ろし専行院を名乗っていた彼女はその後、「押し込め」(自宅への謹慎、外出一切禁止)の処罰を受けたと伝わるが、これはどうもデマらしい。実際には江戸城二の丸で家斉の菩提を弔いつつ、静かに余生を過ごしたと、歴史エッセイストの岡崎守恭氏が著書『遊王 徳川家斉』に記している。

なお、日啓が新・感応寺の住職となり、大奥女中と僧侶らが密通していたのも同寺といわれたことから、かつてはこの件を「感応寺事件」と呼んでいた。だが、これも誤解だ。日啓は間接的には感応寺に関わっていたが、住職に就任したのは別の人物である。密通疑惑で問題視されたのは、あくまで智泉院である。

これは、日啓らが捕縛された後に感応寺が廃寺となったため、当時の記録が智泉院=感応寺と混同してしまったためだ。明治・大正時代の江戸研究家・三田村鳶魚(みたむら・えんぎょ)がそれに気づかず、自著で流布したことが理由だと、歴史家の竹内誠氏は指摘している。

バナー画像 : 『天保雑記 中山智泉院日啓等密通御咎申渡』 / 日啓らに処罰を申し渡した記録。日蓮宗、日啓、智泉院、日尚の名がある。なお、日啓の名前の上にある「守玄院」とは当時、日啓が住職を務めていた寺院。このことからも、日啓は感応寺の住職ではなかったことが分かる。国立公文書館所蔵

[参考資料]

  • 『遊王 徳川家斉』岡崎守恭(文春新書)
  • 『鳶魚江戸文庫』三田村鳶魚(中公文庫)
  • 『徳川「大奥」事典』竹内誠他編(東京堂出版)

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