「鎌倉殿」の史跡を巡る

「鎌倉幕府」はどこに?:1192か1180か、揺れる開幕年(1)

歴史 文化 社会

江戸幕府はどこにあったかと聞かれれば、多くの人はざっくり江戸城内と答えるだろう。では、2022年の大河ドラマの舞台となる鎌倉幕府は?初代将軍の源頼朝が居所を構えたのは、意外と目立たないところにあった。

鎌倉を代表するランドマークは鶴岡八幡宮だ。海に続く2キロもの長い参道の若宮大路を睥睨(へいげい)するかのように構えた本殿は勇壮であり、武家社会の精神的支柱にふさわしい骨格を成している。しかし、八幡宮は現実の生々しい政治が行われた場ではない。

鶴岡八幡宮本殿から海辺へ伸びる参道・若宮大路を望む(筆者撮影)
鶴岡八幡宮本殿から海辺へ伸びる参道・若宮大路を望む(筆者撮影)

頼朝が東国の武士団を率いて鎌倉入りし、幕府を開いた場所は鶴岡八幡宮の東側奥に隠れたような大倉の地。「大倉幕府」とも呼ばれる。現在は幕府跡の石碑が清泉小学校の敷地内にある以外は、東西南北に門があったとされる名残で西御門(にしみかど)という地名が存在する程度だ。

鎌倉歴史文化交流館によると、発掘物などの裏付けが乏しく、あくまで伝承に基づいて推定すると、敷地は縦・横それぞれ二百数十メートル程度の広さとみられる。同交流館の学芸員、大澤泉氏は「その東隣の地区の発掘調査で屋敷跡が出てきたので、御所敷地はもう少し東寄りに広がるという学説もある」と話す。いずれにせよ、比較的コンパクトな空間であり、鎌倉時代の史書「吾妻鏡」によると、将軍御所創建時に集まった武士は311人と伝えられている。

手前の西御門石碑から突き当りの金沢街道辺りまでが大倉幕府敷地の一辺とみられる(筆者撮影)
手前の西御門石碑から突き当りの金沢街道辺りまでが大倉幕府敷地の一辺とみられる(筆者撮影)

大倉に幕府が置かれていたのは、頼朝から実朝に至る源氏三代と北条義時、尼将軍・政子の時代に限られ、三代執権・北条泰時の治世には、別の場所に移転してしまった。

「イイクニ」世代の思い込み

筆者は鎌倉幕府の成立年について、「イイクニ作ろう」との語呂で「1192年」と教わってきた世代だ。「壇ノ浦で平家を倒した後、頼朝が1192年に征夷大将軍になって鎌倉幕府を開いた」と理解していた。その分、「本格政権」のイメージと釣り合わない現在の幕府跡の存在感の薄さが気になっていた。

そこで史実を見直すと、頼朝が物理的に「大倉幕府」を構えたのは12年も前の1180年と分かった。富士川の戦いを始め、平家との戦いの最中であり、1185年の壇ノ浦の戦いに至る5年間は少なくとも戦乱状態にあった。

そのような状況では将軍御所のほか、軍事を司る侍所を置くのが精一杯であり、合戦の際には侍所別当(長官)が軍(いくさ)奉行として総指揮に当たるなど、幕府と言うよりも「陣」に近かった。問注所(土地を巡る訴訟の場)や政所(財政)が整備され、統治の姿が整っていくにはさらに12年を要した。

源平合戦の最中、東国の武士は領地にとどまりながら「いざ鎌倉」に備えていた。同交流館の大澤泉・学芸員は「この当時、御家人は領地と鎌倉を行き来しており、ずっと幕府に詰めていたわけではない」とし、必ずしも大きな館や敷地を必要としなかったと解説する。

「鎌倉幕府」成立の過程

1180年 源頼朝が挙兵、鎌倉入り。「大倉幕府」を立ち上げ、侍所を設ける【開幕1180年説】
富士川の戦い
1184年 問注所、公文所を設置
1185年 平家が壇ノ浦の戦いで滅亡
守護・地頭が置かれる【開幕1185年説】
1189年 奥州に追われた義経が死に追い込まれる
1192年 頼朝が征夷大将軍に任ぜられる【開幕1192年説】
政所を開設
1199年 頼朝が急死

頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年を開幕(かいばく)年とする考えに疑問を投げ掛けているのが、東大史料編纂所の本郷和人教授だ。著書「北条氏の時代」(文春新書)の中で、この年について「朝廷が『お前を東国のボスに認めてやってもいいぞ』といった年であり、主体は朝廷に置かれている」と指摘。

本郷氏は、頼朝はあくまでも朝廷の論理に依存することなく「武士による武士のための集団」作りを目指したとして、「1180年こそ開幕年」と主張する。戦乱の世でいまだ権力を完全掌握できず、小規模であったとしても、武家政権を旗揚げしたこと自体に意味を見出す考え方だ。

伊豆国に20年間も配流(はいる)された後、挙兵して幕府を立ち上げた頼朝だが、1199年に落馬事故のため、53歳の生涯を閉じた。単なる事故死との見方のほか、真偽はともかく怨霊説も出ている。そんな説が出てくる頼朝の短い治世とは、どういうものだったのか。次回、その辺りを探ってみたい。

「大倉幕府」跡の近くにある源頼朝の墓(筆者撮影)
「大倉幕府」跡の近くにある源頼朝の墓(筆者撮影)

バナー写真:大倉幕府跡の石碑(筆者撮影)

●道案内

  • 大倉幕府跡石碑:京浜急行バスの鎌倉駅発鎌倉宮方面などで「岐れ路」下車、徒歩1分の清泉小学校敷地内
  • 鶴岡八幡宮:JR鎌倉駅東口から徒歩約15分
  • 源頼朝の墓:大倉幕府跡石碑から北へ約150メートルの丘を登る

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