「鎌倉殿」の史跡を巡る

二俣川古戦場:畠山重忠だまし討ちの代償、息子の義時らに追放された北条時政(8)

歴史 文化 社会

鎌倉幕府内の権力争いで、ライバルの比企能員(よしかず)を追い落とした執権・北条時政の暴走は止まらない。若き後妻の牧の方に振り回されたこともあり、幕府に尽くした畠山重忠を討たせたり、3代将軍・源実朝の首をすげ替えようと画策したりする。しかし、その代償は大きかった。息子の義時は姉・政子とともに、「不孝」のそしりを恐れず父親と継母の追放を決意する。

だまし討ち

幕府の忠臣である畠山重忠は、武蔵国男衾(おぶすま)郡の自邸、菅谷館(現在の埼玉県嵐山=らんざん=町)から家人らを率いて鎌倉に向け、馬を走らせていた。幕府の使者から「謀反人の討伐があるから参集されたし」との報せを受けたからだ。

ところが、鎌倉街道を南下して二俣川の鶴ヶ峰(現在の神奈川県横浜市旭区)に差し掛かった辺りで、北条義時率いる数万騎超の大軍勢が待ち構えているのに遭遇、異変に気が付いた。「謀反人」と名指しされたのは重忠自身のことだと悟ったのだ。これより先、鎌倉入りしていた息子の重保が討ち死にしたとの報せも届いた。

重忠が率いていたのはわずか134騎。いわば、だまし討ちである。「いったん引き返しては」との家臣の言葉を遮り、重忠は戦いに応じたが、幕府軍の弓矢が雨嵐のように降り注ぐ中、命を落とした。1205年(元久2年)6月22日のことだ。

合戦の跡は、現在の相模鉄道本線・鶴ヶ峰駅周辺にいくつも残っている。駅の北西部辺りが主戦場とみられ、重忠公碑や首塚があるほか、幕府軍の放った矢が地面に突き刺さり矢の畑のように見えたことから「矢畑」と呼ばれる地がある。悲劇的なのは、合戦の報を受けて急きょ駆けつけた重忠の内室・菊の前だ。重忠の戦死を知って自害し、乗ってきた籠ごと埋葬されたという。「駕籠(かご)塚」と名付けられた。

畠山重忠公碑(横浜市旭区の鶴ヶ峰)=筆者撮影
畠山重忠公碑(横浜市旭区の鶴ヶ峰)=筆者撮影

内室・菊の前の駕籠塚(同)=筆者撮影
内室・菊の前の駕籠塚(同)=筆者撮影

左側は重忠の首が祀られたと言われる首塚。右側はさかさ矢竹。討たれた重忠が「わが心が正しければ、この矢に枝葉を生じ繁茂させよ」と言って矢を突き立てたと言い伝えられている=いずれも横浜市旭区の鶴ヶ峰で筆者撮影
左側は重忠の首が祀られたと言われる首塚。右側はさかさ矢竹。討たれた重忠が「わが心が正しければ、この矢に枝葉を生じ繁茂させよ」と言って矢を突き立てたと言い伝えられている=いずれも横浜市旭区の鶴ヶ峰で筆者撮影

重忠の一族郎党134人の亡きがらは、薬王寺の境内にある六つの塚に葬られている。今年も命日の6月22日に、慰霊祭がこの寺で行われた。800年以上続く行事だ。住職が読経を唱える中、お堂に入り切れず、境内で待つ熱心な歴史愛好家の姿もあった。

薬王寺で行われた畠山重忠の慰霊祭(横浜市旭区鶴ヶ峰)=筆者撮影
薬王寺で行われた畠山重忠の慰霊祭(横浜市旭区鶴ヶ峰)=筆者撮影

重忠の一族郎党が埋葬されている薬王寺の六つ塚(同)=筆者撮影
重忠の一族郎党が埋葬されている薬王寺の六ツ塚(同)=筆者撮影

その一人、地元在住の加藤正昭さんが、ある場所を案内してくれた。そこは重忠が幕府の軍勢に気が付いたと思われる高台だ。「遠くに見える丘の端から端まで幕府軍が広がっていたんじゃないかな。逆に重忠の軍勢は少なすぎて、向こうからは見えなかっただろうけど」。確かに鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には「軍兵は雲霞のごとくで、山に連なり野に満ちた」と記されている。

住宅地の奥に見える丘に当時、数万騎もの幕府軍が待機していたとみられる(横浜市旭区鶴ヶ峰)=筆者撮影
住宅地の奥に見える丘に当時、数万騎もの幕府軍が待機していたとみられる(横浜市旭区鶴ヶ峰)=筆者撮影

なぜ人気なのか

一方、重忠の居所の菅谷館は、東武東上線で池袋から1時間強の武蔵嵐山駅周辺に位置する。駅から1キロほど歩くと、広大な森が姿を現し、この中に重忠の居所跡がある。戦国期に土塁や堀に囲まれた平城(ひらじろ)として発展したため、現在は13万平方メートルもの緑地となっており、敷地内に「埼玉県立嵐山史跡の博物館」がある。

意外なことに「こちらでは重忠人気は横浜ほどには盛り上がっていない」と、同博物館学芸員の中村陽平氏は言う。「悲惨な最期を遂げた『悲劇の武将』という伝承が、合戦のあった二俣川の方に圧倒的に残っている」

重忠の居所、菅谷館があったと思われる跡地(埼玉県嵐山町)=筆者撮影
重忠の居所、菅谷館があったと思われる跡地(埼玉県嵐山町)=筆者撮影

上空から見た菅谷館跡(同)=「嵐山史跡の博物館」提供
上空から見た菅谷館跡(同)=「嵐山史跡の博物館」提供

重忠は元々、秩父平氏の出だったが、源頼朝が大軍勢を従えて鎌倉入りするのに伴い、他の秩父一族とともに頼朝に従った。源平合戦で戦功を挙げ、頼朝の信頼を勝ち取った。重忠には数々の逸話がある。すべてが史実とは限らないだろうが、源平合戦の「鵯越の坂落とし」では馬をかついで坂を降りた力自慢話から、奥州征伐の際に自分が手柄を挙げたのに、和田義盛に功績を譲ったといった人徳をしのばせる話まで、さまざまだ。

馬を背負った重忠像(埼玉県児玉郡)=時事
馬を背負った重忠像(埼玉県児玉郡)=時事

情に厚い武士として文楽や歌舞伎の題材にもなっている。大河ドラマでも描かれたように、鎌倉入りの際には列の先陣を務めるなどイケメンだったようだ。

武蔵国を巡る争い

重忠討ちの実行犯は義時だが、指示を出したのは父の時政。しかも、重忠は娘婿でもある。なぜ、殺されなければならなかったのだろうか。

きっかけは、ささいな出来事だった。時政の後妻・牧の方は、娘婿の平賀朝雅(ともまさ)が酒宴で畠山重忠の息子・重保と口論になったと伝え聞き、時政に重保討ちを吹き込む。時政は武蔵国の支配権を巡って、もともと重忠を快く思っておらず、これを機に謀反の罪を着せて親子ともども討伐する決意を固めたのだった。

畠山重保の宝篋印塔(鎌倉市由比ケ浜)=筆者撮影
畠山重保の宝篋印塔(鎌倉市由比ケ浜)=筆者撮影

武蔵国では平賀朝雅(※1)が国司(武蔵守)を務めていたが、京都守護として留守がちだったこともあり、「具体的な業務はおそらく舅(しゅうと)の時政が代行しており、昔から武蔵国を支配している畠山氏が邪魔になっていた」と、鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員は解説する。

武蔵国と言えば幕府のお膝元。「武蔵武士(秩父平氏)たちの棟梁的な存在である畠山氏を、幕府としては早めにつぶしておきたかった」(中村氏)とみられる。しかも、武蔵国では有力豪族の比企一族が時政の手で滅ぼされたこともあり、畠山氏には勢力拡大の余地が生まれた。時政には一段と目障りな存在に映っていたのだろう。

だが、謀反のぬれぎぬを着せて重忠を討ったことの代償は大きかった。『吾妻鏡』によれば、かねて重忠を尊敬し、討伐に反対していた義時は、父の時政の命令にはしぶしぶ従わざるを得なかったが、合戦の後、「こんなわずかな手勢で謀反を図るなんて、ありえません」と激しく非難。御家人らの間でも、重忠を討ったことへの動揺が広がった。

絶頂期にあった時政は周囲の信頼を失い、下り坂を転げ落ち始めたのである。

実朝更迭のクーデター計画

義時や政子らとの対立が表面化する中、時政は牧の方の入れ知恵もあり、失地回復に向け将軍・源実朝の首をすげ替えて平賀朝雅を擁立しようと試みた。このクーデター計画(牧氏の変)を察知した義時と政子は猛反発。特に政子からすれば実子の実朝を退けさせるわけにいかない。さらに「実朝がいなくなったら頼朝の血を引く男子がいなくなってしまうので、『最後の砦』は守らないといけない」(山本氏)というバネが働いた。

政子は使者を送り、時政邸にいた実朝を義時邸に避難させた。時政の御家人らもすべて義時邸に行ってしまい、観念した時政は出家を余儀なくされた。重忠を討った二俣川の合戦から、わずか1カ月足らずのことだった。

北条義時邸があったとされる宝戒寺。1205年(元久2年)7月19日、政子の指示で実朝は時政邸から義時邸に移された(鎌倉市小町)=筆者撮影
北条義時邸があったとされる宝戒寺。1205年(元久2年)7月19日、政子の指示で実朝は時政邸から義時邸に移された(鎌倉市小町)=筆者撮影

時政が歴史の表舞台から消えたのと入れ替わり、前面に出てきたのが義時だ。父の命令を忠実にこなす「目立たない男」が父を見限り、姉・政子の力添えを得て、ついに世を動かす存在として急浮上してきた。

ただ、義時が時政を追放したのは、「武士の鑑(かがみ)」の重忠を討った罪滅ぼしだ、という『吾妻鏡』の構図は出来すぎとの見方もある。義時はその後、平賀朝雅を誅殺させて北条家による武蔵守独占に道を開いたほか、重忠らの所領も事実上、北条家の手に渡ったからだ。つまり、漁夫の利を得ており、義時の真意はどこにあったのか、謎も残っている。

バナー写真:菅谷館跡にある畠山重忠像(埼玉県嵐山町)=筆者撮影

●道案内

  • 薬王寺と六ツ塚:相鉄本線の鶴ヶ峰駅から神奈中バス横浜駅西口行き「薬王寺入口」下車、徒歩3分。重忠の命日(6月22日)には供養祭が行われる。
  • 駕籠(かご)塚:鶴ヶ峰駅から北西方向に徒歩10分。
  • 首塚、畠山重忠公碑:鶴ヶ峰駅から徒歩5分、旭区役所周辺。
  • 菅谷館(すがややかた)跡:東武東上線の武蔵嵐山駅下車、徒歩15分。敷地内には嵐山史跡の博物館がある。料金は大人100円、高校生50円、中学生以下と障害者手帳の保有者は無料。

(※1) ^ 地方を治める国司は朝廷が決めているが、鎌倉幕府のお膝元である武蔵国の場合は、将軍に国司の推薦権が認められていた。源氏一門として源頼朝に重用されていた平賀氏から武蔵守が任官され、朝雅もその一人だった。舅である北条時政は、朝雅の威光を盾に武蔵国内での支配拡大を模索。一方、畠山重忠は武蔵国の有力豪族であると同時に、在庁官人(国司の役所の国衙=こくが=に勤める在地の有力者)として、留守所総検校職(るすどころそうけんぎょうしき)というポストに就いていた。

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