「鎌倉殿」の史跡を巡る

鶴岡八幡宮:将軍・実朝暗殺の衝撃、源家断絶し公武対立へ(10)

歴史 文化 社会

鎌倉・鶴岡八幡宮の大石段の脇にそびえる大銀杏(いちょう)の下で、鎌倉殿・源実朝が暗殺された事件はあまりに有名だ。源家の将軍は3代で途絶えてしまった。と同時に後鳥羽上皇と親しい関係にあった実朝の死で、朝廷と幕府の協調体制は崩れ、対立の時代を迎える。歴史の歯車が動き始めた。

朝廷文化に通じた将軍

実朝は1203年、わずか11歳で征夷大将軍、第3代鎌倉殿となった。兄の2代将軍・頼家が北条氏の手によって伊豆に幽閉(後に殺害)されるという異常事態の中での就任だ。この兄弟を引き裂いたのは、祖父母の北条時政と牧の方。実朝は翌年、祖父母の手による政略結婚で、後鳥羽上皇の外戚・坊門信清の娘をめとる。

和歌など朝廷文化の英才教育を受けた実朝は、吸収力が非常に優れていた。朝廷との往来は活発化し、上皇にも気に入られて、後に「金槐和歌集」を編むに至った。

源実朝座像。部材の年輪測定の結果、13世紀に造立されたとみられる(甲斐善光寺所蔵)
源実朝座像。部材の年輪測定の結果、13世紀に造立されたとみられる(甲斐善光寺所蔵)

由比ガ浜に近い国道134号沿いの鎌倉海浜公園に、百人一首にも選ばれた実朝の作が刻まれた歌碑がある。「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」。これは、「世の中がこんな風にいつまでも変わらずあってほしい。漁師の小舟が綱で陸から引かれているような、ごく普通の情景がいとしい」という趣旨だ。「昨日の友は今日の敵」を地で行く非情な時代にあって、平和を願う将軍の優しい心性が見て取れる。

実朝公歌碑(筆者撮影)
実朝公歌碑(筆者撮影)

金槐和歌集(国立公文書館所蔵)
金槐和歌集(国立公文書館所蔵)

もっとも「公家文化に傾倒する余り、武家の棟梁にふさわしくない」との実朝像は、近年の学説で「誤り」として否定されている。東大史料編纂所の高橋慎一朗教授は「将軍に直属する政所を拠点に自ら積極的に裁判や政治に関与していた」と言う。和歌や蹴鞠(けまり)も単なる「遊び」ではなく、朝廷と付き合っていくのに必要なツールだったと考えられている。

実朝は子宝に恵まれず、「自分の代で途絶えるのなら、源氏の家名を上げたい」として、官位の上昇を望み、実現させていった。権力闘争を通じて、父・時政を追放してまで執権に就いた北条義時も幕府に権威を欲しており、実朝の昇任を歓迎。かくして実朝は公家社会で言えば実質ナンバーツーの右大臣にまで上り詰めた。だが、その栄華の先に落とし穴が待ち受けていた。

将軍暗殺

右大臣拝賀の儀が1219年1月27日、京都から公卿(上流貴族)らも多数招き、鶴岡八幡宮で厳かに行われることになった。

その日は、夜になって雪が2尺(約60センチ)ほど積もる寒い日だった。午後6時ごろ、実朝は御所を出て、鶴岡八幡宮に向かった。道中の随兵は1000騎に及んだという。神拝の儀式が終わり、実朝が退出しようと大石段を降りて来た時だった。僧侶・慈円の史書『愚管抄』によれば、「親の仇(かたき)はかく討つぞ」と叫びながら、ある男が突然、実朝に襲い掛かり、太刀で首を打ち落とした。賊の一味は北条義時と思しき男にも襲い掛かり、惨殺した。だが、実際に斬られたのは実朝側近の源仲章で、後方で待機するよう実朝に命じられていた義時は危うく命拾いした。

賊の名は公暁(くぎょう、こうぎょう)。実朝の兄・頼家の遺児だった。公暁からすれば、父(頼家)も兄(一幡)も北条氏の手で殺害されたという因縁があるだけではなく、自分が将軍の座に収まる可能性だってあった。周囲の都合で将軍に担ぎ上げられた実朝は、恨みを買うことを運命づけられた悲劇の人と言える。

その後、公暁は実朝の首を持ったまま、「自分こそが将軍にふさわしい」と叫びながら、乳母夫(めのと)の三浦義村(※1)のところへ向かったが、義村が差し向けた討手に殺害された。

実朝の首は八幡宮の裏山の雪中から見つかったと『愚管抄』には記されている。これに対し、義村の家臣(※2)が拾い上げたものの、義村を嫌って有力御家人の波多野氏のいる相模国の西部まで持ち込まれたとの言い伝えもある。その首塚が神奈川県秦野市の山間部の高台にある。近くに金剛寺が建てられ、供養されている。

実朝公首塚(筆者撮影)
実朝公首塚(筆者撮影)

実朝が帰依した僧の退耕行勇が開いた金剛寺、実朝の念持仏が収められている(筆者撮影)
実朝が帰依した僧の退耕行勇が開いた金剛寺、実朝の念持仏が収められている(筆者撮影)

後鳥羽の怒り

衝撃的な事件を知り、苦々しい思いでいる男がいた。京都の後鳥羽上皇である。

「鎌倉幕府は実朝を守り切れなかった。後鳥羽は実朝に対しては、親近感があったので、賊から守れなかった幕府を信じられなくなった。『そんなところへ皇子をやれるか。あそこにはもう任せられない』という思いだったのでは」。実朝暗殺当時の後鳥羽の心境を、放送大学の近藤成一教授(日本中世史)はこう推測する。

後鳥羽と実朝の関係は、和歌や蹴鞠を通じた「同好の士」の域をはるかに超えたものであった。実朝の官位は右兵衛佐(従五位下)から右大臣(正二位)へと、約15年間で11段階も引き上げられた。実朝は子に恵まれず、お世継ぎ問題が深刻化する中、朝廷から親王(皇子)を将軍として迎え入れるウルトラCまで浮上。朝廷と実朝の間の蜜月ぶりは際立っていた。

後鳥羽には政治的な打算があった。武士とは元をたどれば、武芸をもって朝廷に仕える身のはず。それなのに、東国の武士は京から遠く離れた鎌倉に、独自の幕府を立ち上げた。武士たちを再び朝廷の管理下に置き、もう好き勝手にはさせない。そのために、後鳥羽が頼りにしたのが幕府における実朝の存在であり、「次期将軍として皇子を」という北条政子の求めにも応じるつもりだったのだ。

鎌倉幕府の草創期は御家人同士の権力闘争に明け暮れていたが、朝廷との関係は比較的安定していた。しかし、その安定軸も揺らぎ出し、時代は一挙に流動化していく。

実朝公墓のある勝長寿院跡。鶴岡八幡宮、永福寺と並び、頼朝が建立した3大寺の一つと言われる(筆者撮影)
実朝公墓のある勝長寿院跡。鶴岡八幡宮、永福寺と並び、頼朝が建立した3大寺の一つと言われる(筆者撮影)

実朝公墓(筆者撮影)
実朝公墓(筆者撮影)

1000騎で朝廷を威嚇

後鳥羽の怒りは早速、形となって表れた。事件から1カ月余りの3月8日、朝廷は実朝を弔うと称して、側近の藤原忠綱を鎌倉に送ってきた。忠綱は政子のところへ立ち寄って型通りのお悔やみを述べた後、義時の屋敷に向かい、予期もしない行動に出た。

「摂津国の長江・倉橋の荘(現在の大阪府豊中市)の地頭を変えるように」との後鳥羽の要求を伝えたのだ。「慈光寺本『承久記』のように、長江荘は義時自身が地頭を務めていたと記されている史料がある」(鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員)。つまり、後鳥羽は義時の地頭職を譲れと命じて来たのである。しかも、寵愛する遊女に贈るためであり、嫌がらせ以外の何物でもなかった。

もちろん、地頭の任命権は鎌倉幕府が1185年に勝ち取った大事な経済的権益であり、朝廷から圧力があっても安易に応じるわけにはいかない。

1週間後、義時の命を受けて、弟の時房が1000騎もの御家人らを率いて上洛した。「地頭を変えよ」との要求を退け、親王将軍の鎌倉入りをあらためて要求するためだった。武力を背景とした威嚇行為であり、将軍・実朝の下での「公武融和体制」は崩壊。両者は対立に向かっていく。

バナー写真:鶴岡八幡宮の大石段と本殿。大銀杏は2010年の強風で倒伏したが、若い芽が出て育ち始めている(鶴岡八幡宮提供)

●道案内

  • 鶴岡八幡宮:鎌倉駅から北方面へ徒歩約10分
  • 勝長寿院跡:鎌倉駅から大塔宮行きのバスで「岐れ路」下車、その先の大御堂橋交差点から徒歩5分
  • 実朝公歌碑:江ノ電「長谷」駅下車、国道134号を西へ向かって約5分の海浜公園内
  • 実朝公首塚、金剛寺:小田急線「秦野」駅から㉓㉖㉗バスで「中庭」下車。毎年11月23日に実朝まつりが行われる。

(※1) ^ 実朝暗殺の実行犯は公暁だが、背後には「黒幕」がいたとの説もある。その一人が三浦義村。永井路子氏の小説『円環』では、公暁が実朝を討ったとの報せを受け、義村が「よし!」と快哉を叫ぶ場面が描かれている。ただ、義時を討ち損じたと知ると、作戦失敗と判断したのか公暁を切り捨てさせたという。義村は常に北条側に付いてきたことや史料の裏付けが乏しいことから、この説は信ぴょう性に欠くとされ、公暁の単独犯行説が有力だ。

(※2) ^ この家臣は武常晴といい、その父は和田合戦で和田義盛側に付いたため、和田を裏切った三浦義村と対抗関係にあった。常晴はこの因縁から実朝の首を義村に渡さず、義村と恩賞争いで敗れた波多野氏に託したとされる。

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