日本の年中行事

長月(9月): 重陽・十三夜・神田明神祭礼

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日本は古来、春夏秋冬の季節ごとに大衆参加型のイベントが各地で行われてきた。これらを総じて「年中行事」と呼ぶ。宗教・農耕の儀礼を起源とする催事から、5月5日端午や7月7日七夕などの節句まで、1〜12月まで毎月数多くのイベントがあり、今も日本社会に息づいている。本シリーズではそうした年中行事の成り立ちや意義などを、文化の成熟を示す例として紹介していく

9月を彩る菊と重陽の節句

五節句を締めくくる、9月9日は重陽(ちょうよう)である。

節句は「あらゆる事物は陰と陽の相対する2つの気によって成立する」と考える中国の陰陽思想に基づくものだ。「奇数=縁起が良い陽数」「偶数=縁起が悪い陰数」とされており、奇数が重なる日である五節句は縁起が良い一方で、陽の力が強すぎてかえって災いを起こすと考えられ、邪気を払う風習が根付いていた。

中でも、最も大きな陽数である「9」が重なる日、重陽には、旧暦の頃までは盛んに無病息災や長寿を願う行事が行われていたという。

日本における最古の記録は、『日本書紀』の685(天武14)年の章。ここに「重陽宴」(ちょうようのうたげ)と記されている。だが、この宴はその後、途絶えた。天武天皇が686(朱鳥元)年9月9日に崩御したため、忌日とされたからだった。

それが9世紀前半の807(大同2)年、平城天皇によって復活の詔(みことのり)がくだされ(『節供の古典 花と生活文化の歴史』雄山閣出版)、また831(天長8)年に「重陽節会」、つまり「節」(節句)と記される(『年中行事大辞典』吉川弘文館)など、行事として復活する。

重陽は別名「菊の節句」ともいう。菊は霊薬で長命の効果があると信じられていたため、酒に入れて飲んだという。この風習がいつ始まったかは定かではないが、平安時代には貴族の間で定着していたと考えられる。そして江戸時代に入ると、幕府が五節句の1つに認定したことで、武家社会にも浸透していく。

もっとも、江戸時代は本来の陰陽思想や健康長寿の意識は薄れ、もっぱら「菊の祭りの日」として認知されていたようで、江戸城大奥で御台所や奥女中が「観菊」している絵が残っている。

『千代田の大奥 観菊』は、江戸城大奥の御台所や女中たちが菊を鑑賞する姿を描いている。周延画。国立国会図書館所蔵
『千代田の大奥 観菊』は、江戸城大奥の御台所や女中たちが菊を鑑賞する姿を描いている。周延画。国立国会図書館所蔵

一般大衆も「菊の祭り」として受容していた。正徳年間(1711〜16年)には品種改良が進んで種類も増え、『花壇養菊集 / かだんようきくしゅう』という栽培マニュアルも刊行された。菊は一大ブームだった。

『花壇養菊集』は菊栽培のマニュアル書で、これは菊を品評している様子を描いた挿絵。国文学研究資料館所蔵
『花壇養菊集』は菊栽培のマニュアル書で、これは菊を品評している様子を描いた挿絵。国文学研究資料館所蔵

『百種接分菊』は、植木屋の今右衛門が創った鮮やかな菊細工を描いた。国立国会図書館所蔵
『百種接分菊 / ひゃくしゅつぎわけぎく』は、植木屋の今右衛門が創った鮮やかな菊細工を描いた。国立国会図書館所蔵

さらに文化期(1804〜18年)、船の模型や人形を菊で飾る菊細工も盛んになった。弘化期(1845〜48)には、駒込の植木屋・今右衛門という人物が、1本の菊にさまざまな菊を接ぎ木した巧妙な細工を完成させ、話題になったという。

重陽には、もう1つ重要な意味があった。旧暦9月1〜8日は現在の10月初旬にあたる。この時期は衣替えが行われ、人々が着る衣服は夏から冬へと移行した。菊の祭りは、衣替えが終了したという合図でもあったのだ。

十三夜はきな粉餅を食べて月見

長月の13日は「十三夜」といい、月が美しい日だった。旧暦8月15日の十五夜に対して、「後(のち)の月」といった。十五夜の満月に比べて、少し欠けているのが風流だった。

十三夜の月は左が欠けている(PIXTA)
十三夜の月は左が欠けている(PIXTA)

別名を「栗名月」ともいった。栗の収穫期だったからである。もっとも栗を口にしたわけではなく、食したのは十五夜と同じく月見の定番・団子だった。4代歌川広重著『絵本 江戸府内風俗往来』は、十五夜の団子は餡(あん)が入っていたが、十三夜はきな粉餅もあったと記している。

十五夜と十三夜、両方を見ないことを「片見月」といって、忌み嫌ったという。何事にも縁起をかつぐ、江戸庶民らしいといえる。

神田明神祭礼の行列の長さは?

9月は神社の祭礼も多かった。なかでも賑わいをみせたのは、神田明神と芝神明宮である。

芝神明宮の祭りは、9月11~21日まで期間が長いことで知られていた。このため「だらだら祭り」ともいった。また、境内で江戸名物の谷中生姜(しょうが)が売られたことから「生姜祭り」とも。生姜を売っていた人が、片目を失明していたことから「めっかち祭り」「目くさり祭り」とも呼ばれた。現代ならコンプラ違反となりそうな、いかにも口の悪い江戸の男が考えそうな言葉だ。

芝神明宮の「両皇」は伊勢神宮の天照大御神(内宮)、豊受大御神(外宮)の二柱を指す。ここから芝神明宮は「関東のお伊勢様」と呼ばれた。『絵本 江戸府内風俗往来』国立国会図書館所蔵
芝神明宮の「両皇」は伊勢神宮の天照大御神(内宮)、豊受大御神(外宮)の二柱を指す。ここから芝神明宮は「関東のお伊勢様」と呼ばれた。『絵本 江戸府内風俗往来』国立国会図書館所蔵

一方の神田明神祭は9月15日開催。こちらは日枝神社の山王祭と並んで「天下祭」と称され、両祭は交代で2年に1度行われた。

寺社奉行がまとめた見聞集『祠曹雑識』(しそうざっしき)には、「神田山王は宮祀ナレハ格別」とあり、祭礼行列が江戸城内に入るのが通例だったこと、時には将軍が上覧したことを記している。『徳川実紀』にも1706(宝永3)年、将軍が上覧したとの記録がある。

神田明神の氏子の町数は60、山車(だし)は36基あった。それほどの数の山車が練り歩くだけに、行列はかなり長かったはずだ。国立音楽大学附属図書館が所蔵する『神田明神御祭礼之図』(1854 / 安政元年制作)では、1番の山車が江戸城の常盤橋御門(現在の東京都千代田区大手町)にいる頃、最後尾の36番は、まだ神田明神近くの昌平坂(文京区湯島)にいる。

仮にこの図が祭の様子を正確に描写しているとしたら、大手町-湯島間の距離約2.5キロにわたる行列だったことになる。

ちなみに神田祭特設サイトによると、現在の行列の長さは約300メートルである。

神田明神祭の祭礼行列一番「大伝馬町 諫鼓鶏(かんこどり)」。諫鼓鶏は、鶏の鳴き声によって君主に善政を促し想像上の鳥だ。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
神田明神祭の祭礼行列一番「大伝馬町 諫鼓鶏(かんこどり)」。諫鼓鶏は、鶏の鳴き声によって君主に善政を促したという想像上の鳥だ。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

祭の当日は「横町・小路は柵を組み厳粛に御渡りを待ち受け」(『絵本 江戸府内風俗往来』)とあり、通行を厳重に管理した。といっても、役人が取り締まっていたわけではなく、町人たちが自主的に行ったという。規律のとれた祭だったことがうかがえる。

天下祭には、幕府が補助金を出していた。それだけに、幕府の事情によって開催を中止することもあった。1771(明和8)年、10代将軍・家治の御台所だった心観院(しんかんいん)の死去によって、1853(嘉永6)年には12代将軍・家慶の死去により中止されている。

〔参考文献〕

  • 『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』佐藤要人監修、藤原智恵子編/河出書房新社
  • 『現代語訳 絵本 江戸府内風俗往来』菊池貫一郎(4代歌川広重)、小林祥次郎訳/角川ソフィア文庫
  • 『江戸の神社祭礼 その形と執行状況』岸川雅範/國學院大學研究開発推進機構紀要第4号

バナー写真 : 『東京神田神社祭礼の図』/ 山車は左から六番(通新石町)・七番(須田町一丁目)・八番(須田町二丁目)・九番(連雀町)。八番の頂上にある人形は『三国志』の関羽がモチーフで名作といわれた。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

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