日本の年中行事

神無月(10月): 炬燵開き・恵比寿講・べったら市・勧進相撲

歴史 文化 暮らし

日本は古来、春夏秋冬の季節ごとに大衆参加型のイベントが各地で行われてきた。これらを総じて「年中行事」と呼ぶ。宗教・農耕の儀礼を起源とする催事から、5月5日端午や7月7日七夕などの節句まで、1〜12月まで毎月数多くのイベントがあり、今も日本社会に息づいている。本シリーズではそうした年中行事の成り立ちや意義などを、文化の成熟を示す例として紹介していく。

玄猪と炬燵開き

10月の玄猪(げんちょ / 最初の亥の日)は炬燵(こたつ)開きの日だった。暖房器具を出して冬仕度を始めるのである。新暦の2023年では、11月1日がこの日に相当する。北国でもないのに11月に炬燵とは気が早いと思うだろうが、江戸時代は冬の到来が早く、すでに寒かった。

『絵本和歌浦』(1734 / 享保19年刊)に、炬燵に入れる炭に火を起こす家族の姿がある。国文学研究資料館所蔵
『絵本和歌浦』(1734 / 享保19年刊)に、炬燵に入れる炭に火を起こす家族の姿がある。国文学研究資料館所蔵

古代中国の万物はすべて「陰・陽」の2つに分けられ、「木・火・土・金・水」の5つの要素からなるとする「陰陽五行説」では、「亥」は「水」に分類される。当時は炬燵の中に炭を入れて温めていたので、火事の原因になりやすかった。玄猪に炬燵を出すと「水の力で火災を防ぐことができる」という、縁起かつぎの意味があった。

また、亥の子餅(いのこもち)を食べ、子孫繁栄や無病息災を祈る風習もあった。猪が多産の動物だったので、あやかろうというわけだ。ウリ坊の縞模様が入った亥の子餅は、今も老舗和菓子屋が販売している。

ウリ坊特有の縞(しま)を刻み、胡麻で模様をつけた亥の子餅。(PIXTA)
ウリ坊特有の縞(しま)を刻み、胡麻で模様をつけた亥の子餅。(PIXTA)

同時に子どもたちが藁(わら)などを束ねて地面をたたき、大地の力を呼び起こす遊びに興じたという。そうすると、近所から亥の子餅をもらえたという説もある。収穫祭のようなもので、どこかハロウィンに似ているのが興味深い。

年の瀬に向けた景気づけ「恵比寿講」

10月は、全国の神社に鎮座する神々が出雲大社に集まるため、神無月(神が不在の月)という。実際、この月に神社の祭礼が行われるケースは少ない。

では、神不在の期間に人々の暮らしを守るのは、誰なのか―恵比寿である。ここから誕生したのが、10月20日に行われた「恵比寿講」だ。

特に商家が恵比寿講に熱心だった。恵比寿が商売の神とされていたからだ。商人たちは顧客を招いて恵比寿講を催した。恵比寿に鯛を供えると、集まった人々は売り方と買い方に分かれ、盛大に店の商品を売買した。高値で売買が成立すると、大騒ぎだった。この年中行事は、年末に向けた景気づけといって良かった。年の瀬が近づくと、商人や職人たちは多忙を極める。その前祝いだったのである。

豪商が恵比寿講を開催している様子を描いた『江戸風俗十二ケ月の内 十月』。三宝台に鯛、算盤を持って騒ぐ商人、それを取り巻く客。国立国会図書館所蔵
豪商が恵比寿講を開催している様子を描いた『江戸風俗十二ケ月の内 十月』。三宝台に鯛、算盤を持って騒ぐ商人、それを取り巻く客。国立国会図書館所蔵

恵比寿の起源は諸説あるが、室町時代の頃から、『古事記』に登場する蛭子(ひるこ)と結びつけて考えられるようになったという。

『古事記』ではイザナギノミコトとイザナミノミコトの国産みの際、身体に障害を持つ子・蛭子が生まれたため、オノゴロ島(淡路島と推定)から葦(あし)で編んだ船に乗せ、海に流した。船が漂着したのが現在の兵庫県西宮で、そこに鎮めて社(やしろ)を建てた。そうして創建された西宮神社は、恵比寿信仰の総本社とされている。

その意味では、漂着した神(寄り神)であり、海神である。実際、日本の一部では漁業の神として篤く祀られている。一方で商業が発展すると、商売繁盛の福神にもなった。恵比寿講は、福神が発展したものだ。

漁業・商いの守り神として、また七福神の一柱に数えられる福神としてなど、さまざまな面を持つ不思議な存在が恵比寿だ。目を細めて笑みを浮かべた「えびす顔」は、庶民の人気も高い。

なお、恵比寿講前日の10月19日には、江戸・大伝馬町の寳田(たからだ)恵比寿神社(現在の日本橋本町)に縁日がたった。「べったら市」といい、これも恵比寿講の一つに数えることがある。

べったら市で賑わう大伝馬町。この市は10月19日夜には開かれていた。『絵本風俗往来 上』国立国会図書館所蔵
べったら市で賑わう大伝馬町。この市は10月19日夜には開かれていた。『絵本風俗往来 上』国立国会図書館所蔵

「べったら」は塩で下漬けした大根を米麹と砂糖で漬けこんだ漬物。丸ごとつけた大根を縄でくくって若い男性が振り回して歩くのを、若い女性たちは「糟粕(かす)に触れまいと混雑をよけた」(『絵本 江戸府内風俗往来』)という。着物に「べったり」とつくのを嫌がったのだろう。このため「べったり市」とも呼ばれた。

回向院の勧進相撲

春と秋の年2場所、各10日ずつ、両国の回向院(えこういん)で開催される勧進相撲の秋の回も、10月下旬に行うことが多かった。回向院が興行の定場所となったのは1833(天保4)年で、それまでは富岡八幡宮や芝神明宮などでも開催された。

土俵を取り囲んだ観客席は3階まであり超満員。相撲人気の高さがうかがえる錦絵だ。『勧進大相撲繁栄之図』国会国立国会図書館所蔵
土俵を取り囲んだ観客席は3階まであり超満員。相撲人気の高さがうかがえる錦絵だ。『勧進大相撲繁栄之図』国立国会図書館所蔵

勧進相撲は現在の大相撲興行の原型である。勧進は、源義経の奥州落ちの際に武蔵坊弁慶がひと芝居うった「勧進帳」と同意で、寺社造営や修理のための資金を集めることをいう。つまり、相撲興行は寺社への寄付が目的だった。興行を管轄したのも寺社奉行だった。

観戦できたのは男だけ。女人禁制である。女性の入場が許されたのは明治時代に入ってからで、現在も土俵には上がれない。一方で男たちは、巨漢力士のぶつかり合いに血が騒いだ。回向院は興奮の坩堝(るつぼ)だった。

天明(1781〜89)、寛政(1789〜1801)期の人気力士は、谷風、小野川、雷電など。安政(1855~60)には不知火(しらぬい)が活躍した。四十八ある決まり手は、元禄(1688〜1704)の頃にはすでに定着していたという。

大相撲の歴史と伝統は古い。取り組みに喝采を浴びせる熱狂は、今も息づいている。

〔参考文献〕

  • 『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』佐藤要人監修、藤原智恵子編 / 河出書房新社
  • 『現代語訳 絵本 江戸府内風俗往来』菊池貫一郎(4代歌川広重)、小林祥次郎訳/角川ソフィア文庫
  • 『日本の神様大全』 / 廣済堂出版

バナー写真  : 『勧進大相撲土俵入之図』は、1849(嘉永2)年に回向院で行われた相撲興行の土俵入りを描いている。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

江戸時代 江戸 文化 年中行事