山手線「駅名」ストーリー

渋谷(JY20): 畑作地帯だった「渋谷村」、さらにさかのぼれば「塩谷の里」

歴史 都市

1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第1回は再開発の真っただ中にある日本有数の繁華街の入り口にある「渋谷」を取り上げよう。タイトルの(JY20)はJR東日本の駅ナンバー。

駅名の由来には3つの説がある

世界一人流が多いと言われ、日本を訪れる外国人がこぞって見物にやってくる渋谷スクランブル交差点。今では想像もつかないが、明治時代まではのどかな農村だった。当時の地図で見ると、「上渋谷村」「中渋谷村」「下渋谷村」は畑、茶、梨に囲まれている。

明治初期の渋谷周辺地図。畑の中に(1)上渋谷村(2)中渋谷村(3)下渋谷村の村名がある / 農研機構 歴史的農業環境閲覧システムより転載
明治初期の渋谷周辺地図。畑の中に(1)上渋谷村(2)中渋谷村(3)下渋谷村の村名がある / 農研機構 歴史的農業環境閲覧システムより転載

3つの村は1889(明治22)年の町村制施行で合併して「渋谷村」となり、1909(明治42)年には「渋谷町」となった。1920(大正9)年の第1回国勢調査では、人口8万1000人。「町」としては全国最大規模だった。渋谷駅の開業で、急速に人が流入してきたことがうかがわれる。

そもそも、なぜ渋谷というのか─地名の由来には、以下のような複数の説がある。

【地形・海辺説】

「塩谷の里」と呼ばれていたのが転訛し、渋谷となった。太古の昔、この地は海辺だった可能性が高く、深く掘ると塩がとれたという。

【地形・川沿いの低地説】

川が流れ、流域が凹型の低地、つまり谷あいになっていた。また、川の水が鉄分を含んだ渋い色(赤茶)だったことから、渋い色の谷=渋谷となった説。

この川が渋谷川であり、現在も渋谷駅の南から天現寺橋まで、2.4キロメートルを流れている。それ以外は地下に埋められ暗渠(あんきょ)となり、現在は下水道幹線だ。渋谷川の支流で、参宮橋方面に流れる河骨川(こうほねがわ)が童謡『春の小川』のモデルとなったことは、あまり知られていない。河骨川も現在は暗渠となっている。

【人名・平安期のエピソード説】

平安時代後期、京都の御所に侵入した盗賊を捕縛し、天皇から「渋谷」姓を賜った武士が、この地にやって来て支配したとする説。

地名研究家の谷川彰英は、信ぴょう性が高いのは、「塩谷の里からの転訛」としている。いわゆる「地形由来」の地名である。また、川の流れる谷あいの地説も、地形的には間違っていないため、捨てがたい。山手線の最標高駅は代々木駅で標高38.7メートル。そこから渋谷駅周辺の約15メートルまで下り、恵比寿に向けて上っていく。渋谷はまさに谷地にあるのだ。

盗賊を捕らえた褒美に「渋谷姓」を賜った武士?

一方、人名説は伝説に過ぎないが、なかなか興味深いので詳しく紹介したい。

京都御所で盗賊を捕らえた桓武平氏の流れを引く武士は河崎重家(かわさき・しげいえ)という男で、武蔵国橘樹(たちばな)郡(川崎市川崎区)を拠点としていた。

重家が捕らえた賊は「我は相模国の渋谷権助盛国(しぶや・ごんのすけもりくに)である」と名乗った。それを伝え聞いた堀河天皇(当時)は、恩賞として渋谷の姓を重家に授けた。重家は警護の任が明けると河崎改め「渋谷重家」となり、現在の渋谷の地を所領としたというのが、事のあらましだ。

しかし、盗賊の名を姓としたなどいう説は、いくら何でも飛躍しすぎだろう。筆者の考える仮説にすぎないが、盗賊の渋谷権助の「権助」とは、正確には「権介」ではなかったか。権介は「権官(ごんかん)」を指し、朝廷から賜った役職だ。つまり、渋谷権助はもともと相模国を拠点とし、朝廷に仕える豪族だったと考えられ、何か不始末を起こしたために討伐の対象となり、河崎重家に討ち取られた後に盗賊に貶められた─と考えるのが自然ではないだろうか。

結局のところ、渋谷は「塩谷の里」などの地形由来の地名であり、その地名を名字とした渋谷氏が武功をけん伝するため、盗賊討伐の話が創作されたと見るのが妥当に思える。

金王八幡宮と宮益御嶽神社が見どころ

渋谷駅から徒歩5分ほどのところ、渋谷警察署の裏手にある金王八幡宮のあたりに、かつての渋谷氏の館があった。社伝は平安時代末期の1092(寛治6)、重家がここに渋谷城を築城したとしている。実際、戦国時代の1524(大永4)年に渋谷氏が滅亡するまで、同氏の政庁があった。

金王八幡宮(PIXTA)
金王八幡宮(PIXTA)

ただ、城の遺構などは残っていないため、城郭・戦国史研究家の西股総生は、あくまで「城跡伝承地」にすぎず、館があっただけではないかという。根拠として、立地が城に適していないと指摘している。いずれにせよ、想像をめぐらしながら散策するのも悪くないだろう。

次の名所は、道玄坂上交番前交差点にある道玄坂の碑。名所と言っても、足を止める人はほとんどいない。

道玄坂 供養碑(PIXTA)
道玄坂 供養碑(PIXTA)

碑文によると、「道玄坂」の名は戦国時代の武将・北条氏綱が1524年、この地に侵攻して渋谷氏を滅ぼした後、その一族の大和田道玄が坂の傍に庵を立てたことに由来するとある。徳川家康の家臣だった内藤清成が著した『天正日記』には、道玄が由緒書を家康に出していると記している。

一方、『江戸名所図会』では大和田道玄は鎌倉時代初期の人で、源頼朝の御家人だった和田義盛の一族とある。鎌倉幕府に対して反乱を起こした和田氏が滅亡すると、道玄は鎌倉から落ちのび、この坂に潜み山賊として名を馳せた。ゆえに道玄坂といわれるようになった──と。

戦国時代と鎌倉時代とまったく異なる時期のエピソードで、どちらも信ぴょう性に乏しいが、何か物騒で血なまぐさい歴史があった場所だったのかもしれない。ちなみに、碑文の背後にある「道玄坂道供養碑」は誰が誰を供養するために建てたのか定かではないという。

渋谷の隠れた歴史名所として、もうひとつ挙げておきたいのが駅から徒歩2分ほどの場所にある宮益御嶽神社だ。

社殿前には、狛犬の代わりに青銅製の山犬の像がある。山犬はニホンオオカミのこと。こちらは複製品で、延宝年間(1673〜81)の作とみられる原形のオオカミの石像は社務所に安置されている。

渋谷駅のすぐ近く、ビルに囲まれてひっそりとたたずむ宮益御嶽神社(PIXTA)
渋谷駅のすぐ近く、ビルに囲まれてひっそりとたたずむ宮益御嶽神社(PIXTA)

狛犬ではなく、オオカミが社殿を護る(PIXTA)
狛犬ではなく、オオカミが社殿を護る(PIXTA)

荒川上流域に広がる秩父山地は、明治末期に絶滅したとされるニホンオオカミの生息地だった。その一帯には、「お犬様」の名前でオオカミを祀る神社が多数あるが、江戸時代、疫病退散を願ってオオカミ信仰は関東甲信地方の平野部にまで広がったという。

宮益御嶽神社は、都心でオオカミ信仰のなごりに触れることができる貴重な場所だ。

【渋谷駅データ】

  • 開業 / 1885(明治18)年3月1日
  • 1日の平均乗車人員 / 29万2631人(30駅中第4位 / 2022年度・JR東日本調べ)
  • 乗り入れ路線 / 埼京線、湘南新宿ライン(以上JR)、田園都市線、東横線(以上東急)、銀座線、半蔵門線 副都心線(以上東京メトロ)、京王井の頭線

【参考文献】

  • 『駅名学入門』今尾恵介 / 中公新書クラレ
  • 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版社
  • 『東京の地理と地名がわかる辞典』浅井健爾 / 実業之日本社
  • 『東京・江戸 地名の由来を歩く』谷川彰英 / ベスト新書
  • 『地形を感じる駅名の秘密 東京周辺』内田宗治 / 実業之日本社

バナー写真 : 1925(大正14)年の渋谷駅(鉄道博物館所蔵)

鉄道 交通 観光 渋谷 渋谷駅 山手線