山手線「駅名」ストーリー

有楽町(JY30): 駅名が織田信長の弟・有楽斎に由来する説は眉唾!?

歴史 都市

1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第2回は銀座への玄関口として知られる「有楽町駅」を取り上げよう。タイトルの(JY30)はJR東日本の駅ナンバー。

1772年刊の地誌は有楽斎ゆかりの地と記す

JR山手線有楽町駅の改札口を出て駅舎を振り返ると、日本最古のレンガ造りの高架線が目に入る。山手線はこの上を走る。耐震補強を施しながらも外観は開業当時のままで、レトロ感に満ちている。

JR有楽町駅のレンガ造りの高架線の上を山手線が走る(PIXTA)
JR有楽町駅のレンガ造りの高架線の上を山手線が走る(PIXTA)

その有楽町の地名が、織田信長の弟・有楽斎に由来するとの説を、聞いたことはあるだろう。

有楽斎は茶人としての「号(称号)」で、本名は長益(ながます)という。2024年1月末から3月24日まで東京・サントリー美術館で特別展「大名茶人 織田有楽斎」が開催され好評を博している。有楽流という茶道の流派をたて、京都・建仁寺の塔頭・正伝院(現在の正伝永源院)に庵を興した、一流の茶人だった。

武将としては、1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、大和国(奈良県)に3万石を賜った。また、褒美として江戸に屋敷も拝領した。

屋敷は現在の有楽町駅近くの数寄屋橋にあったというが、元号が寛永に変わる頃(1624年頃)に空き地となり、その後、同地は有楽斎にちなんで「有楽原(うらくがはら)」と呼ばれたという。

この説の初出は、1772(明和9)年刊行の地誌『再校 江戸砂子(えどすなこ)』にある。また、江戸幕府が編纂した地誌『御府内備考』(1829/文政12年)も、この説を踏襲している。『御府内備考』はいわば幕府の公文書であるから、この話題が世間に流布したのも当然といえよう。

『再校 江戸砂子』にある「有楽原」の箇所。地名が織田有楽斎に由来することを記しているが…(国立公文書館所蔵)
『再校 江戸砂子』にある「有楽原」の箇所。地名が織田有楽斎に由来することを記しているが…(国立公文書館所蔵)

そして明治時代に入ると、有楽原が転じて「有楽町」の地名が正式に誕生し、駅名にも採用された。

埋め立て工事の真っ只中に大名屋敷があった?

この説に真っ向から異を唱えたのが、明治〜大正期の歴史・地理学者、吉田東伍だった。

吉田はまず、有楽斎が江戸に屋敷を賜った事実は確認できないとしたうえで、関ヶ原の戦い後、有楽斎がどこに住んだか、その変転を列挙した。

それによると、関ヶ原後は前述の通り大和国に所領を賜り、ほどなく京都・正伝院に茶庵を創設し、大坂の陣(1614-15 /慶長19-20年)では途中まで大坂城にいたことが確認され、戦後は京都に隠棲して茶道に専念—つまり、江戸に来る時間など、なかったというのである。

吉田の主張を補足したのが、現代の地名研究家の谷川彰英だ。

谷川は屋敷があったとされる一帯は、そもそも日比谷入江という遠浅の海で、17世紀前半に埋め立てられたことに触れ、そこから湿地帯を指す「浦」の字を用いた「浦が原」(うらがはら)と呼ばれるようになり、転じて「有楽原」となった可能性を示唆している。すなわち、地形由来の地名であることも否定できないと指摘した。(ただし、谷川は有楽斎由来説を完全に否定しているわけではない)

こうした提起を踏まえて、この先は筆者の推理──。

徳川家康が日比谷入江の埋め立てを本格的に開始したのは1603(慶長8)年で、宅地となったのは1620年代と考えられる。つまり、有楽斎の屋敷があったといわれる1600〜1624年は、まさに工事の真っ只中にあり、大名屋敷があったとは到底考えづらい。

また、時代は進み1632(寛永9)年になると、有楽斎の屋敷があったとされる辺りに「すきや丁」という町があったことが、『武州豊嶋郡江戸庄図』(地図)で確認できる。「すきや丁」は、後の「数寄屋町」である。

数寄屋の語源は「数寄屋坊主」であり、参勤交代で江戸に滞在し、江戸城に登城する大名たちをもてなす茶人を指す。数寄屋町は茶人が集住するエリアだった。

そこから『再校 江戸砂子』が、数寄屋町に「一流の茶人・有楽斎の屋敷が、かつてあった」と勘違いしたか、または話を創ってしまったのが、そもそもの原因ではなかろうか。

南町奉行所と大名屋敷

一方、この一帯は数寄屋橋御門を境界に、門の内を武家地、外を数寄屋町などの町人地に区分していたため、今も武家の名残が色濃い。

有楽町駅前広場の一角に、石組が積まれている。これは2004(平成16)年、再開発に伴う発掘調査によって出土した南町奉行所の下水溝石組を、広場のモニュメントとして再利用したものだ。

JR有楽町駅の駅前広場に立つ南町奉行所跡の碑。左側には、当時の下水溝の縁の石組をモニュメントとして展示している(PIXTA)
JR有楽町駅の駅前広場に立つ南町奉行所跡の碑。左側には、当時の下水溝の縁の石組をモニュメントとして展示している(PIXTA)

駅前地下広場の通路に置かれた南町奉行所の穴蔵(保管庫 / 著者撮影)
駅前地下広場の通路に置かれた南町奉行所の穴蔵(保管庫 / 著者撮影)

地下通路にある水道木樋(水道管 / 著者撮影)
地下通路にある水道木樋(水道管 / 著者撮影)

南町奉行所といえば、名奉行とうたわれた大岡越前が知られる。本名は大岡忠相(ただすけ)。1717(享保2)年、8代将軍・徳川吉宗の信任を得て南町奉行に就任すると、長きにわたって奉行職を務めた。

町奉行の暮らしは職住一体だった。つまり、忠相の屋敷は奉行所の中にあった。大岡越前は有楽町に20年近く住んでいたことになる。発掘調査では「大岡越前守」と記された木札も発見された他、穴蔵(保管庫)や水道木樋(もくひ/水道管)も出土し、現在は駅前広場の地下通路に設置されている。

「遠山の金さん」で知られる遠山景元も、1845(弘化2)年から約8年、南町奉行を務めた。

また、有楽町駅の西側には、「大名小路」という名の通りがある。東京国際フォーラムに面した通りで、北は東京駅丸の内口を通って大手町まで延びる街路だ。

この小路の周辺に土佐藩・鳥取藩をはじめ多くの大名の上屋敷があったことから、江戸時代に「大名小路」と名付けられ、現在もその名が使われている。鳥取藩上屋敷の表門である通称「黒門」は、上野・東京国立博物館の構内に移築・保存されている。

『江戸切絵図 御江戸大名小路絵図』で見るJR有楽町駅・数寄屋橋御門・南町奉行所・大名小路の位置関係(国立国会図書館所蔵)
『江戸切絵図 御江戸大名小路絵図』で見るJR有楽町駅・数寄屋橋御門・南町奉行所・大名小路の位置関係(国立国会図書館所蔵)

晴海通りに埋め込まれている明治元年の古写真には、数寄屋橋と御門が写っている(著者撮影)
晴海通りに埋め込まれている明治元年の古写真には、数寄屋橋と御門が写っている(著者撮影)

名所というほどではないが、有楽町マリオン前の晴海通りを信号で渡る途中、側道との分離帯があり、そこに明治元年に撮影された古写真のレリーフが埋め込まれている。写真には数寄屋御門と数寄屋橋が写っている。

数寄屋御門は1629(寛永6)年に完成し、南町奉行所や大名小路は門の内側(有楽町駅寄り)にあった(明治維新で撤去)。

一方、江戸城の水濠は明治に入っても残ったため、橋はしばらく人々の往来を支えた。しかし、水濠もやがて埋め立てられ、その上に首都高速が建設された。

有楽町駅界隈は、このように有力な武家たちが生活を営んだ地だった。仮に駅名が有楽斎に由来しないにせよ、歴史的に由緒ある場所であったのは間違いない。

また、銀座に近い華やかな印象は、風流な茶人だった有楽斎と、どこか重なってもいる。

【有楽町駅データ】

  • 開業 / 1910(明治43)年6月25日
  • 1日の平均乗車人員 / 11万6738人(30駅中第11位 / 2022年度・JR東日本調べ)
  • 乗り入れ路線 / 東京メトロ有楽町線、また東京メトロ銀座駅の銀座線・日比谷線・丸ノ内線に接続

【参考文献】

  • 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版社
  • 『東京の歴史地図帳』監修:谷川彰英 / 宝島社
  • 『江戸の名奉行』丹野顯 / 文春文庫

バナー写真:1961(昭和36)年の有楽町駅ホーム。ホームの左をこだま号が通過している(鉄道博物館所蔵)

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