山手線「駅名」ストーリー

池袋(JY13): ホテルメトロポリタンあたりにあった農業用水の水源「丸池」が駅名の由来

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1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第6回は、駅を建てたことによって、農村が東京有数の商業地へと変貌した「池袋」の物語だ。タイトルの(JY13)はJR東日本の駅ナンバーである。

駅創業を契機に繁華街に成長

池袋駅の開業は、日本鉄道(当時)が田端―池袋間を開通した1906(明治36)年4月1日だった。同じ日に大塚・巣鴨駅も開業した。

前年の11月までに新橋・品川・大崎・目黒・恵比寿・渋谷・新宿・目白・田端・上野・秋葉原の11駅が開業していた。そこに池袋・大塚・巣鴨駅が誕生したことで、環状線が完成をみたのである。ちなみに路線名が正式に「山手線」と決まったのも、前年11月20日だった。

一方で池袋駅は、1885(明治18)年に開業していた赤羽駅への分岐駅ともなった。それ以前の分岐は、横浜方面に列車が向かう品川駅しかなかった。

当初は、目白駅が分岐駅となる予定だったが、住民の反対によって池袋駅になったという。開業当時の1日の利用客は100人にも満たなかった(『東京の地理と地名がわかる事典』浅井建爾)。

駅周辺の池袋村は、江戸時代からの農村地帯だった。農業環境技術研究所が公開している明治初期の地図「歴史的農業環境閲覧システム」を見ると、畑ばかりである。1872(明治5)年の記録では戸数205軒、人口1161人。なす・かぶ・ごぼう・人参などを、都心の居住者向けに生産していたという(『駅名で読む江戸・東京』大石学)。

明治初期の池袋村。小さな□は民家。周囲は「畑」の文字ばかり。農業環境技術研究所「歴史的農業環境閲覧システム」より転載
明治初期の池袋村。小さな□は民家。周囲は「畑」の文字ばかり。農業環境技術研究所「歴史的農業環境閲覧システム」より転載

ところが、駅ができたことによって周辺は発展していく。日本鉄道の駅ができたのに続き、東武東上線(1914 / 大正3年)、武蔵野鉄道(現西武池袋線、1915 / 大正4年)の2つの私鉄が池袋を起点に開通し、周辺には商店が立ち並ぶようになった。

学校の建設も相次いだ。立教大学は、1874(明治7)年に築地居留地=現・中央区明石町付近に聖書と英学を教える私塾として創立されたが、広いキャンパスを求めて池袋に校地を購入し、1918(大正7)年に移転した。かつては真宗大学(現京都・大谷大学)が1901(明治34)年、東京府豊島師範学校(現東京学芸大学)が1909(明治42)年、成蹊実務学校(現成蹊学園)が1912(明治45)年にそれぞれ創立され、その後移転するまで池袋にあった。

関東大震災(1923 / 大正12年)が発生した後、壊滅的な被害を受けた都心部からの移住者が増え、宅地化が進んだ。震災復興のための道路(環状5号線/現明治通り)の整備も昭和初期から始まった。

第二次大戦の空襲によって一帯は焦土と化したものの、利便性が証明されていた地だけに復興も早く、西武・東武・三越の3つの百貨店の新装や、東西駅前広場の再開発などが進み、一大繁華街となっていく。これら一連の成長のそもそものスタートは、山手線池袋駅の誕生だった。

1953(昭和28)年、区画整理を行っている池袋駅前。東京都提供
1953(昭和28)年、区画整理を行っている池袋駅前。東京都提供

西口にあった大きな池

池袋は、「池」と「袋」すなわち袋状の窪地を表す文字で構成される。「池」は溜池や池尻、「袋」は沼袋、袋田など水がたまりやすい低湿地帯の地名として使われることが多く、実際にこの文字が入るエリアは過去に何度も水害に見舞われている。

だが、池袋駅は低地どころか高台に位置している。文化・文政期(1804〜1830)に編まれた地誌『新編武蔵風土記稿』も、「池袋村は地高くして」と、高い場所にあると記している。標高は32.34メートル。旅行・鉄道関連の著作が多い内田宗治は、峠の頂点のような場所に立つ駅だという(『地形を感じる!駅名の秘密』)。

つまり池袋は水害多発地帯ではない。では、なぜ水と窪地に関係しているのか。それにはふたつの説がある。

(1)「池袋村の東北の方にのみ水田あり。その辺窪地にして地形袋の如くなれば村名起こりしならん」『新編武蔵風土記稿』

(2)「当村を池袋と名づけしは往古おびただしき池ありしによるなり」『遊歴雑記』(文化年間の見聞記)

(1)は少し東北の方に水田などを持つ「地形袋の如」き窪地があり、それに関連して池袋と呼ばれるようになったとの説だ。ただし、地名研究家の谷川彰英は、窪地は池袋駅より東武東上線・北池袋駅、および埼京線・板橋駅に近く、現在の上池袋3〜4丁目から池袋本町3丁目の付近にあったという。確かに現在は暗渠となっているが、かつては谷端川が流れており、水に関係があった。おそらく湿地帯だったのだろう。

(2)の「往古おびただしき池」は、池袋西口にあった大きな池を指す。池は「丸池」(または沼池)と呼ばれていた。『遊歴雑記』は続けて、「中古より段々埋まりしが、なお三百余坪もあらんや。西の果ては池袋と雑司が谷の村境いにありて、常に湧き出ん」

『遊歴雑記』にある池袋村の解説。赤枠は「当村を池袋と名づけしは往古おびただしき池ありしによるなり」と読む。国立公文書館所蔵
『遊歴雑記』にある池袋村の解説。赤枠は「当村を池袋と名づけしは往古おびただしき池ありしによるなり」と読む(国立公文書館所蔵)

文政期に描かれた『池袋村図』(東京都公文書館所蔵)に丸池と、同池を水源とする弦巻川を書き加えた。丸池は現在のホテルメトロポリタンのあたり。弦巻川は現在は暗渠となっている。
文政期に描かれた『池袋村図』(東京都公文書館所蔵)に丸池と弦巻川を書き加えた。丸池は現在のホテルメトロポリタンのあたり。弦巻川は現在は暗渠となっている。

西口に300坪余(約990平方メートル)の丸池があり、水がこんこんと湧き出ていて、ここを水源に雑司が谷方面に川が流れていたというのである。この川が、現在暗渠化されている弦巻川だ。

さらに『遊歴雑記』は、この川の水を農業用水として使う権利を持っていたのは雑司が谷村の村民たちであり、池袋村ではなかったと記す。地名の語源となっていながら、池袋村の村民はまったく関わりがなかったというのだ。理由は簡単で、池袋村は高台にあったため、丸池から水が流れてこなかったからである。

いずれにせよ、(1)は「窪地」という地形、(2)は「池」に由来を求めている。どちらが正しいかは不明だが、池袋のある東京都豊島区は(2)の説をとっている。

なお、池袋の地名は戦国時代の16世紀半ばに、すでにあった。関東を支配していた後北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』に、当時の後北条配下だった太田康資(おおた・やすすけ)が池袋を知行地としていたとある。

江戸時代に入ると幕府領となり、『記録御用所本』(旗本に伝来する文書を幕府が編纂した書物)によると、1625(寛永2)年以降は幕府が指名した複数の旗本が共同で管理したという。こうした統治形式は江戸の周辺地域の特徴だった(『駅名で読む江戸・東京』大石学)。

この旗本たちによって順調に米の生産が伸び、天保年間(1831〜1845)には江戸初期の4倍、石高約600石となっていた。池袋が発展する土壌は、江戸時代から培われていたといえよう。

「池袋地名ゆかりの池」の碑石

さて、池袋の名所だが、明治初期まで農村だったせいか、これといって目立つものはない。あえて挙げれば、前出の(2)の説を現代に伝え残す場所がある。

池袋西口のホテルメトロポリタン近くに、元池袋史跡公園がある。もともとは「元池袋公園」という名だったが、周辺の再開発に伴う下水道工事のため廃止された。それに伴い、わずかに残っていた丸池も埋め立てられ、完全に姿を消した。

そこで1998(平成10)年、場所を移して元池袋史跡公園が開園し、「池袋地名ゆかりの池」の碑石を立て、丸池がここにあったことを残したのである。

元池袋史跡公園にある碑(フォトライブラリー)
元池袋史跡公園にある碑(フォトライブラリー)

江戸・明治時代の遺物がほとんどない池袋にあって、貴重な史跡といえよう。

【池袋駅データ】

  • 開業 / 1906(明治36)年4月1日
  • 1日の平均乗車人員 / 45万8791人(30駅中第2位 / 2022年度・JR東日本調べ)
  • 乗り入れている路線 / 東京メトロ丸の内・有楽町・副都心線、西武池袋線、東武東上線、またJRでは山手線の他に埼京線・湘南新宿ラインの停車駅

【参考文献】

  • 『駅名で読む江戸・東京』大石学 / PHP新書
  • 『東京の地理と地名がわかる事典』浅井建爾 / 日本実業出版社
  • 『江戸・東京 地名の由来を歩く』谷川彰英 / ベスト新書
  • 『地形を感じる駅名の秘密 東京周辺』内田宗治 / 実業之日本社

バナー写真:1965(昭和40)年頃の池袋駅東口。西武百貨店が見える(鉄道博物館所蔵)

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