
神田(JY02): 伊勢神宮の領田「神の田んぼ」に由来
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複数の高架橋が交差した独特の構造
神田駅の開業は1919(大正8)年3月1日だった。ドイツの首都・ベルリンの高架鉄道、通称“Sバーン”の構造を手本に赤レンガを積んだアーチの上に建てた駅舎は、大正時代には、さぞかしモダンに見えただろう。
現在の駅舎とホームは、1921(大正10)年の関東大震災後に再建されたものを基本としており、高架のさらに下にいくつもの架道橋が入り組んだ複雑な構造となっている。これは、震災後も周囲に江戸時代の町割りが残っていたため、その上に設置せざるを得なかったからだ。結果、駅周辺の架道橋下には多くの飲食店が軒を連ね、レトロな趣を醸している。
神田駅は当初は中央線の停車駅として開業。山手線が停まるようになったのは6年後の1925(大正14)年で、これによって山手線は現在の環状線となった。
昭和初期、神保町の古本屋街(道路の両脇)から神田駅方面を望んだ写真。『大東京寫眞帖』国立国会図書館所蔵
駅名の由来は「神の田んぼ」か?「氏族」か?
神田の駅名は神社の領田、すなわち「神さまの田んぼ」から来ている――という説が伝わっている。「神」が指しているのは、伊勢神宮だという(『御府内備考』)。
伊勢神宮の祭祀費用を捻出するため米を作る田んぼ「御戸代(みとしろ)」があったことに由来し、そこから「御神田(おみた)」→「神田」に転訛(てんか)したという。現在も東京都千代田区に残る神田美土代町(みとしろちょう)の町名は、この名残だ。
江戸時代の地誌『江戸紀聞』にも、「神田としてあまたの田池を大神宮の神供とせり」とあり、こちらも神の田んぼ説だ。
読みは「かんだ」「こうだ」「じんでん」など異なるものの、漢字で「神田」と表記する地名は、北は青森県弘前市から南は長崎県北松浦郡まで30以上にのぼり、多くは神社の財源となる田んぼと関係しているようだ。
とはいえ、地名の由来は大抵、諸説あるもの。神田明神の社伝では、同社を創建した真神田(まがみだ)氏の名にちなむという。真神田氏は8世紀出雲(島根)の氏族で、出雲から大己貴命(おおなむちのみこと)を祀って神田明神を建てたという。大己貴命は大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名、出雲大社の神である。
田んぼ説、氏族説のどちらが真相かは、確証が得られていない。
いずれにせよ、後北条氏が関東を支配していた16世紀半ばには、配下の武士の知行地に「神田内堀新方」の地名が確認されているため(『御府内備考』)、徳川家康の江戸入府(1590/天正18年)以前からあった地名であることは間違いない。
神田の町名に残る江戸の面影
「神田」を指すエリアは実はかなり広く、神田駅から北西のJR中央線御茶ノ水駅、都営新宿線神田神保町駅周辺にまで及ぶ。
1878(明治11)年、東京府(当時)が15区に区分された際に誕生した「神田区」は、戦後の1947(昭和22)年に「麹町区」と合併して千代田区となり、「区名」としては消滅した。しかし、伝統ある地名は残したいという思いがあったのだろうか、神田紺屋町・神田鍛冶町・神田佐久間町・神田神保町など、「神田○○町」と神田を冠した町名が現在まで残り、それらが江戸時代の面影を今に伝えている。
神田には、幕府御用達のさまざまな職人たちが町単位で土地を拝領しており、紺屋町は染物屋、鍛冶町は鍛冶屋が集住していたことから付いた町名なのである。
家康と関係が深かった職人が、染物屋の土屋五郎左衛門。そもそもは家康に仕える武士として戦国時代を生きたが、負傷して戦えなくなったため紺屋頭となり、藍染の職人集団を組織して神田に定住したという。ただし、五郎左衛門は1794(寛政6)年の史料には「五郎右衛門」と表記されている(町田市デジタルミュージアム)。紺屋頭として「○衛門」を世襲した名前だったと考えられるが左と右が混在し、はっきりしない。
江戸を代表する藍染めの浴衣(ゆかた)と手ぬぐいの大半は、紺屋町一帯で作られていたという。「紺屋町に行けば流行が分かる」と言われたほど、流行の発信地だった。
広重が描いた神田紺屋町の景色。染めたばかりの手拭いを干している風景。『名所江戸百景 神田紺屋町』国立国会図書館所蔵
鍛冶町で作られる鎌・包丁をはじめとした金物職人街は都市生活のさまざまなシーンで、庶民の暮らしを支えた。たびたび大火に見舞われた江戸の町では、家屋の新築や建て替えの需要が頻繁にあり、建築に必要な釘などの建築資材を作るのも、鍛冶職人の仕事だった。
買い物のガイドブック『江戸買物独案内』に、神田鍛冶町の「釘鉄銅物問屋」(鍛冶屋)の屋号がある。1824(文政7)年刊。国立国会図書館所蔵
他にも駕籠(かご)などの乗り物(乗物町)、銀細工(銀町/しろがねちょう)、漆工芸(塗師町/ぬしちょう)、左官業者(白壁町)など多くの職人町があり、一部は現在の町名に残っている。
ところが、17世紀後半に入ると町は解体されていく。何度も大火を経験した幕府は、火災が発生した際に、類焼を防いだり、近隣の住民が避難したりするための火除(ひよけ)地を整備するため、職人たちから土地を接収したのだ。あとには、職業を冠した町名だけが残されたわけだ。
一方、佐久間町と古書店の街・神保町は人名に由来する。前者は材木商人・佐久間平八の名をとっている。慶長年間(1596~1615)の江戸城築城に際して資材を供給するなど、幕府とは草創期からゆかり深い人物だった。
後者は神保長治(ながはる)。知行地を持たない旗本から身をおこし、1712(正徳2)年に佐渡奉行まで出世した男だ。長治の屋敷があった地が現在の神保町で、日本最大の古書店街として書籍文化を発信している(『神田文化史』)。
銭形平次と滝沢馬琴ゆかりの地
神田の名所として真っ先に挙げるべきは、江戸の総鎮守・神田明神だろう。実は、最寄り駅はJR御茶ノ水で、神田駅からは1キロメートルほど離れた場所にある。
8世紀の創建当初は、現在の東京都千代田区大手町にあった。平将門の首塚の辺りである。ところが疫病など災いが頻発したことで、人々が将門の祟りと恐れるようになり、1309(延慶2)年、将門を神として合祀して怒りを鎮めたという(『神田明神社伝』)。
また、関ヶ原の戦い(1600/慶長5)に臨む徳川家康が戦勝を祈願し、見事に勝利を収めたことから、将軍家が篤く庇護した、1616(元和2)年に現在地に移転。祭礼の山車(だし)を将軍家が上覧したことから、「天下祭り」と呼ばれるようになった。
北斎が神田明神を描いた『新板浮絵神田明神御茶の水ノ図』国立国会図書館所蔵
テレビドラマ史上最長の888話の記録を打ち立てた昭和の時代劇の主人公・銭形平次は神田明神下に済んでいる設定だった。架空の人物ではあるが、有志の作家や出版社が発起人となり、1970(昭和45)年に神田明神の境内に碑を建てた。
また、東へ300メートルほど行った場所にあるのが、『南総里見八犬伝』の著者・滝沢(曲亭)馬琴の住居跡だ。馬琴は住処を転々としたというが、1824(文政7)年〜1836(天保7)年の間、ここにいた。
最後に紹介したいのは、斎藤月岑(げっしん)である。この名を聞いてピンと来た方は、江戸マニアといっていい。江戸のガイドブックとして絶大な人気を得た『江戸名所図会』の著者である。
月岑は1804(文化元)年に神田で代々名主を務めていた家で生まれた。1834年(天保5)年、1836年(同7)年の2回に分けて7巻20冊に及ぶ大作『江戸名所図会』を刊行し、さらに『東都歳事記』『武江年表』なども完成させ、これらが当時の江戸の姿を伝える貴重な文化風俗史料となっている。
その功績をたたえ、神田駅から徒歩5分の場所に「斎藤月岑居宅跡」の石碑が建っている。
『江戸名所図会』『東都歳時記』は長谷川雪旦(せったん)が描いた詳細な風景画も魅力だ。国立国会図書館デジタルコレクションなどで全巻が閲覧できる。
【神田駅データ】
- 開業 / 1919(大正8)年3月1日
- 1日の平均乗車人員8万1046人(30駅中19位/2022年度・JR東日本調べ)
- 乗り入れている路線 / 東京メトロ銀座線、JR京浜東北線・中央線
【参考図書】
- 『続 駅名で読む江戸・東京』大石学 / PHP新書
- 『東京の歴史地図帳』谷川彰英監修 / 宝島社
- 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版
- 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
- 『まるまる山手線めぐり』DJ鉄ぶら編集部編 / 交通新聞社
バナー写真:1919(大正8)年、開業した頃の神田駅。レンガのアーチの上にホームが建っている。鉄道博物館所蔵