参院選で感じた「綺語と身綺への戒め」
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参議院議員選挙戦における各政党の綱領や政策論争、あるいは、候補者の発表した政見をあらためて比較、分析すると、多くの場合、消費税の減免や廃止、給付金の支給、社会保険料の引き下げなど、直接あるいは間接に「お金」を差し上げましょうという主張が目立った。
いつの世でも、とかく、「甘い言葉」が流行りやすく、選挙民も半分選挙公約は破られるものと皮肉っぽく見ながらも、魅力的な言葉にとかく引きずられる傾向があり、今回の選挙結果も、そういう面が出たともいえる。
思えば、仏教の戒めに、「不綺語戒(ふきごかい)」という教えがあることを想起せねばなるまい。元来、「綺」という言葉は、綺麗(きれい)という表現にも使われてきたように、模様のある絹という意味から発した言葉で、彩りがあって、飾りの多いことを意味している。従って「綺語」といえば、飾りが多く、真実ではない表現となる。
そもそも近頃は、広告宣伝熱の高まりと、ブランドあるいは名前を重視する傾向が強い。
工芸、料理、文芸などの分野でも、昔は、詠み人知らずもあれば、無銘の名品もあり、職人は裏方に徹し、名を挙げることよりも、立派な「作品」自体に自己が表現されているという気持ちが強かった。ところが、今は「著名人」を、商品の紹介、旅行案内などに動員するなど、ものの中身よりも、「名前」自体が価値を持つような事態となり、名前が、いわば「お飾り」として広く使われている。これも、一種の綺語現象といえる。
綺語ばかりではない。「身綺」の問題もある。身綺とは、身を飾ること、装うこと、自己を飾ってみせることであり、サンスクリット語仏教文献学の世界的権威である真言宗の高僧・慈雲(1718~1804)が用いた表現である(講談社学術文庫の金岡秀友著『仏教名言辞典』を参照)。
身綺は変装、コスプレに近い言葉だが、今では、さらに一歩進んで、ネット上に別の自己を創出するところにまで至っている。
また、一見次元が違うように思えるが、入社試験や資格試験の面接に、人間ではなく、ロボットあるいはAI(人工知能)が対応するケースも登場しているという。身綺も、ここに極まれりともいえる。
こうした綺語や身綺の広がりは、いたずらに批判すべきではなく、時と場合と目的いかんでは、真実の姿をいわば裏から探求する上で有益なこともあろう。閉ざされた社会や権威主義的社会においては、綺語や身綺こそが、真実に近づく方途となって用いられてもよかろう。
けれども、わが国のように、宣伝広告が行き渡り、名前とブランドが強調される社会では、わが身とわが社会をふりかえって、不綺戒、不身綺の教えをかみしめてみる必要があるのではあるまいか。甘い言葉や、聞けば良く響く主張、一見魅力的な外見──そうしたものにわれわれは、思わず引きずられ過ぎてはいないか。このあたりで、不綺戒の教えをかみしめねばなるまい。
バナー写真:第27回参議院議員選挙の候補者のポスター掲示場=2025年7月、東京都豊島区(時事)