日本を再生に導けるリーダー像とは
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「リーダーシップ」を発揮する人物には、誰もが憧れるものである。だが、真のリーダーシップが発揮されるかどうかは、また別の話になる。
「自ら率先してビジョンや目標をみんなに示しながら、問題の解決や目標の達成を実現できる能力」というのがリーダーシップの一般的な定義だ。しかし、働き方や生き方が多様化している今、リーダーやリーダーシップの意味を一つに定義することは、難しいかもしれない。時代や状況によって必要とされるリーダー像は異なってくる。
少子化に伴う人口減少や経済活動の衰退、安全保障環境の大きな変化など今の日本が抱えるさまざまな問題をめぐって、なぜか日本のリーダーは非難を浴びることが多い。そして、決まって「強いリーダーシップを発揮できるリーダーがいない国だ」と言われる。しかし、これは本当なのだろうか。まったく見当外れではないにしても、当たらずとも遠からずと言っておくのが妥当なように思える。
悪く聞こえるかもしれないが、日本の組織は個人によるリーダーシップをあまり好まず、また、リーダーをあまり育てようとしない。その代わりに、組織がリーダーシップを発揮することに抵抗感がない。これは日本の組織文化とそのロジックに関係していることだと思われている。
というのも、日本には組織の責任と個人の責任が混同される風潮があるからだ。結果として「個人によるリーダーシップ」よりも、「団体(組織)によるリーダーシップ」という社会通念が育まれ、日本社会に根付いている。
日本で「魅力的なリーダー」とされるのは誰か。それを歴史の中で読み解くのは面白い。
司馬遼太郎の作品『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬や、『坂の上の雲』で描かれた秋山好古・真之兄弟などのように、国難に際して救国に励んだ人物の中に、優れたリーダーがいたことは事実である。そして今も讃えられる日本のリーダーたちに共通するのは、「責任」と「信頼」に加えて、「調和力」である。
日本文化には、相手や周囲の人たちに合わせようとする「調和志向」の文化的特色が根強い。温かい人間関係を保ちながら集団としてうまく機能しようとする日本人のマインドでは、何よりも調和を重視し、可能な限り対立を避けて相手に適応しようとする。
そのためか、曖昧な言い回しが得意で、建前は話すが、本音は隠すのが処世術の基本である。こうした国民性を背景に、日本史において「人たらし」としての性格を持つリーダーは特別な存在だった。リーダーとして、配下の武将からも信頼の厚かった豊臣秀吉の魅力について、司馬遼太郎は「人たらしの天才」と記している。ボーダーレスの力を秘めたこの「人たらし」という資質こそ、日本のリーダーの強みのはずであるが、今のご時世では類い稀なる資質であろう。
戦後80年という節目を迎えた今の日本において、従来型のリーダー像では、もはや未来を「再生」へと導くためのマスタープランを描くことは難しい。その結果、国民の不満や不安は高まり、先の選挙では極端な主張をする政党が得票を伸ばした。一部には国民の怒りのはけ口という側面もあるのかもしれないが、それにしても現状はあまりに情けないと言わざるを得ない
リーダーシップを発揮するためにリーダーに求められる条件とは何か。司馬遼太郎は著書『この国のかたち』(文芸春秋)で「日本史に英雄はいないが、統治機構を整えた人物はいた」と記している。今の日本に必要なのは、英雄のような傑物ではなくても、未来を見据えた「マスタープラン」を描き、統治の仕組みを整えることのできる、本物のリーダーなのかもしれない。
バナー写真:豊臣秀吉画像(佐賀県立名護屋城博物館所蔵)