コラム:私の視点

奪われた大地に響く物語──ガッサン・カナファーニの「ハイファへの帰還者」

国際・海外 政治・外交

ガザの空を焼く炎の向こうで、パレスチナという名の傷が再び痛みを訴えている。

イスラエルによる容赦なき殲滅(せんめつ)の戦火が続く中、燃える家々、崩れ落ちた街、そして瓦礫(がれき)の下からかすかに聞こえる母の呼び声が、歴史の記憶を呼び覚ます。

それは、数十年の間に幾度となく繰り返された血の記録であり、沈黙のうちに刻まれた民族の嘆きである。

75年続いた民族浄化、18年の封鎖、奪われた土地、壊された町、踏みにじられた聖地。夜ごとに扉が叩かれ、朝は恐怖の煙の中に始まる。

世界の権力者たちはこれを「理由なき攻撃」と呼ぶが、抵抗の根には、失われた祖国の記憶と、沈黙を強いられた者たちの魂が燃えている。

この終わらぬ悲劇のただ中で、1冊の書が再び読まれ始めた。

ガッサン・カナファーニ著「ハイファへの帰還者」。1970年、ベイルートで世に出たこの短い小説は、パレスチナの痛みの一断片を、あまりにも生々しく描き出している。

ナクバの嵐に家を失い、息子を失い、祖国を追われた夫婦──サイードとサフィーヤ。

砲撃の夜、外に出たサイードを探しに行くサフィーヤは、幼い息子カルドゥンを寝かしつけたまま、いつものように「すぐに戻る」とささやいた。だがその約束は、運命に奪われた。道は閉ざされ、炎は空を裂き、人々は恐怖に飲み込まれていった。息子のもとへ戻る道は、もう存在しなかった。

それから20年。

彼らは離散の地をさまよい、やがてハイファへ戻る許可を得る。しかし、街は変わり果て、かつての笑い声は風に消えていた。

「まさか、もう一度見られるとは思わなかったわ」。サフィーヤの声に、夫は静かに答えた。

「私たちは見ていないが、彼ら──この街の亡霊たちは、私たちを見ているだろう」

その言葉は、重い沈黙を伴って響いた。

2人は忘れられぬ家へ向かい、扉を開けた。そこにいたのは、異国の言葉を話すユダヤ人一家、そしてかつての息子、カルドゥンではなく「ドヴ」と呼ばれる兵士。

彼の胸には見覚えのない制服、目には、遥かに遠い思想の光が宿っていた。

その瞬間、サイードとサフィーヤは悟った。彼らが失ったのは家や土地だけではない。愛も、言葉も、記憶さえも、奪われたのだと。

サイードの胸を満たすのは、祖国を置き去りにした罪悪感。 それは、時がいやさない深い裂け目であり、彼の心を永遠に裂く痛みだった。

カナファーニの語る「帰還」は、ただの旅ではない。それは喪失の物語であり、問いでもある。

──失うとは何か?
──それは死だけを意味するのか?

カルドゥンがユダヤ人として育ち、占領軍の兵士となり、父に銃口を向ける瞬間、サイードはその問いに直面する。

そして静かに気づく。故郷とは奪われるものではなく、あきらめたその瞬間に、心から消えていくものだということを。

「ハイファへの帰還者」──

それはパレスチナが今も問い続ける物語、 終わらぬ追憶と、消されることのない帰還の夢である。

バナー写真:パレスチナ自治区ガザ中部ヌセイラトにある難民キャンプで、食料の配給を受け取るために集まる人々=2025年8月18日(AFP=時事)

中東 パレスチナ ガザ