かすむ建国の理念と「ミスター・セキュリティー」
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男は颯爽(さっそう)とわれわれの前に現れた。引き締まった体にぴったり合ったスーツ。次々に浴びせられる厳しい質問にも、流ちょうな英語でユーモアを交え当意即妙に答えてみせる。
男の名はベンヤミン・ネタニヤフ。国会議員に当選3年目の42歳の若さで、イスラエル政府代表団の報道官に抜てきされていた。「イスラエル新世代」を印象付ける立ち居振る舞いは、各国から集まった、特に女性特派員たちの人気の的になった。1991年10月、ブッシュ米大統領(父)の呼びかけでスペイン・マドリードにソ連、イスラエル、アラブ諸国やパレスチナの首脳が集まって開催された「中東和平会議」のことである。
2014年5月の来日時にインタビューした際、この話を持ち出すと、65歳になっていた彼は「はるか昔のこと」と珍しく照れていた。
会議で実質的な国際舞台デビューを果たしたネタニヤフ氏は、トントン拍子に政界の階段を駆け上り、5年後にはイスラエル建国後生まれとしては初、史上最年少の46歳で首相に就任。今は通算17年の首相在任最長記録を更新し続けている。
2025年10月10日、イスラエルとハマスの停戦が発効、トランプ米大統領が「戦争は終わった」と宣言してもなお、首相は「まだ軍事作戦は終わっていない」と戦闘再開の可能性を示唆する。「ミスター・セキュリティー」を自称し、ハマス殲滅(せんめつ)によるガザ非武装化の旗を降ろそうとはしない。過剰とも見えるパレスチナへの懲罰的報復は、一部のイスラエル世論から強固な支持を獲得している。「パレスチナ憎し」と映る行動には、彼の生い立ちが深く関わっているように思える。
ネタニヤフ氏の父はポーランド生まれのユダヤ中世史研究者。イスラエル建国を目指すシオニズムの運動家でもあり、1920年にエルサレムに入植している。ネタニヤフ氏は3人兄弟の2男としてイスラエルに生まれ、父の仕事の関係で米国に移住。高校卒業後にイスラエル国防軍に入隊して第3次(1967年)、第4次(74年)中東戦争などに従軍し、除隊後は米国に戻ってマサチューセッツ工科大、ハーバード大で学び、コンサルタント会社勤務後にイスラエル政界に身を投じている。
彼が大学生だった1976年。テルアビブ発パリ行きのフランス航空機がパレスチナ・ゲリラにハイジャックされ、ウガンダの空港に着陸してユダヤ人乗客103人を人質にする事件が発生した。この際、イスラエルの特殊部隊は奇襲攻撃をかけてハイジャック犯7人を射殺、人質3人が犠牲になったものの残り全員を無事救出した。「エンテベ空港奇襲作戦」と呼ばれる。
大成功の作戦で、特殊部隊唯一の犠牲者が作戦司令官だったネタニヤフ氏の兄ヨナタン氏だった。中東和平会議の時、知り合いのユダヤ人特派員は、ネタニヤフ氏について「エンテベの英雄の弟」と解説してくれた。
イスラエルの外交官はよく自国を「中東唯一の民主主義国家」と言う。独立宣言には「宗教、人種、あるいは性に関わらず全ての住民の社会的、政治的諸権利の完全な平等を保証し、全ての宗教の聖地を保護し…」とある。もちろんイスラエル国家は「ユダヤ民族を守る」ことが存在理由の一つではあるが、建国の指導者たちはパレスチナ人を含めた民主国家を築く理念を掲げていたのである。
しかし建国の理想を肌感覚で知らない世代のネタニヤフ氏には、「理想の国家建設」のようなイデオロギー色は薄く、むしろ「英雄の弟」として、イスラエルの安全を脅かすパレスチナ人の行為に対し、「懲罰的報復」で断固応えることに価値を見出している。
建国から80年近くが経過し、少なからぬ国民が建国の理想から離れ、「ユダヤ民族を守ること」以外、国家の存在理由を見いだせなくなっていることが、彼を後押しする環境を生み出している。「ミスター・セキュリティー」が戦いを止める日は先のように思える。
バナー写真:エルサレムの軍人墓地で行われた、イスラム組織ハマスによる襲撃の犠牲者追悼式典で演説するイスラエルのネタニヤフ首相=2025年10月16日(AFP=時事)