イスラムとの向き合い方:日本の「多文化共生」が試される
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日本で暮らしているとあまり実感できないが、生活の中で宗教が大きな意味を持っているという人は世界にたくさんいる。当たり前のことだが、他国の文化や宗教を自国の尺度で見ようとすると、訳が分からなくなる。作家の司馬遼太郎はこう指摘している。「他国を知ろうとする場合、人間はみな同じだという高貴な甘さがなければ、決して分からないし、同時にその甘さだけだとみな間違ってしまう」。このあたりも、人の世の常である。
近年、SNSなどで日本に暮らすイスラム教徒への否定的な声が目立つようになっている。ハラール食や土葬の慣習といった宗教的な実践をめぐり、「ここは日本だ」「郷に入れば郷に従え」といった言葉が飛び交う。国内のイスラム教徒の多くは地域社会に溶け込み、真面目に働き、静かに生活している。犯罪件数も極めて低く、社会的脅威とは言えない。それにもかかわらず、偏見に基づく拒否反応が生じている現状は見過ごせない。
宗教や文化への無理解が恐怖や差別を生み出すことは歴史の教えるところだ。日本社会では、日常生活の中で宗教が果たす役割を実感しにくい。だが世界には、信仰を生きる支えとして重視する人々が多く存在する。異なる文化や宗教を自国の尺度で測ろうとすれば、理解はすぐに行き詰まる。他者を理解するには、司馬が言うように「高貴な甘さ」が必要なのだろう。ただし、優しさだけでは真実には届かない。甘さと厳しさ、その両方が求められる。
興味深いのは、「宗教」という言葉自体が日常の中で持つ印象の違いである。とある大学での調査では、学生120人のうち110人が宗教にマイナスのイメージを抱いていた。「信じるものがなければ生きていけないようで弱く感じる」という意見もあった。日本語の「宗教」が「信仰体系」ではなく、依存や特殊な集団を指すものとして受け止められていることを示している。
一方、イスラムで用いられる「ディーン」とは、単なる信仰や儀式ではなく、倫理や生き方の指針として人間の全生活を包み込む概念である。この根本的な意味のずれが、相互理解を阻む壁になっている。
筆者が問いかける「イスラムの原形」とは、政治や慣習に覆われた外層を取り除き、聖典クルアーン(コーラン)に基づく精神的核に立ち返る営みを指している。その原形を直視することは、宗教を「他者の文化」として遠ざけるのではなく、人間の普遍的営みとして見つめ直す行為でもある。
早稲田大名誉教授の店田(たなだ)広文さんらの調査「日本のムスリム人口」によると、日本で暮らすムスリム(イスラム教徒)は2024年末時点の推計で約42万人(うち日本人ムスリムは約4万人)で、日本の総人口に占める割合は0.3%程度になる。
日本人とイスラム教徒との間で生じるさまざまな誤解やすれ違いなどの文化摩擦を多様な角度から掘り下げ、一緒に考えていくことが第1歩になるかもしれない。そして、国際化や情報化に翻弄される現代社会の中で、日本とアラブの単なる「相互理解」よりも、「相互知解(知識の力で悟ること)」に持っていければいい。
日本社会が真の多文化共生を実現するためには、宗教を「特殊なもの」と見る視点から脱却することが必要だろう。信仰とは、人が己を律し、他者を敬うための心の規範である。その理解を欠いたままでは、いくら「共生」を唱えても空疎に響く。異文化を受け入れるとは、相手の信じる世界の仕組みに耳を傾けることから始まる。イスラムをめぐる誤解を正す努力は、日本社会の成熟度を問う試金石でもある。
バナー写真:東京都渋谷区にあるモスク「東京ジャーミイ」=2024年4月(nippon.com編集部撮影)