ベール(ヒジャブ)の起源から見えてくるもの
文化 国際・海外 社会- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
パレスチナに生まれ、アメリカに移住した文学研究者エドワード・サイード(1935~2003)は、自身の著作『オリエンタリズム』で、西洋が東洋を理性の外にある「他者」と捉えてきたことを鋭く批判した。西洋が映し出す「東洋」は、「神秘的」「遅れた」「感情的」といった曖昧(あいまい)な光の中に置かれる存在であり、支配を正当化するために形づくられた「知の装置」であった。
「我ら(西洋)」は理性的で優れている、「彼ら(東洋)」は非理性的で劣っている──。こうした見方が、「静止した東洋」という幻影を作り上げ、現実の東洋がもつ複雑さや多様さを視界の外に追いやった。やがて、その見えない境界線は時代を超えて描き直され、現代の世界認識にも深く刻まれている。
こうした「オリエンタリズム」の視線は、日本にも及んでいる。その一つの表れが、イスラム文化に向けられる偏見である。なかでも「ベール(ヒジャブ)」をめぐるイメージは、しばしば女性への抑圧や宗教的後進性の象徴として語られてきた。
しかし、少し立ち止まってその起源をたどれば、ベールが本来どのような意味をもっていたのか、その姿はまったく違って見えてくる。
女性が頭を覆うという慣習は、イスラムが誕生するはるか以前から存在していた。紀元前1000年頃、古代メソポタミアの法文書「タブレットA40」には、思春期以降の女性がベールを着けるべしという記述が見られる。それは階層社会の中で尊敬と地位を示す印であり、エリート女性の身分を示す象徴でもあった。つまり、ベールは当初、禁圧ではなく「法的権威と社会的尊厳の証」であった。
フランスの研究者によれば、当時ベールを着けた女性は「良家の子女(des filles bien)」として扱われ、髪を隠すことは慎み深さと高貴さの証とされたという。髪を外にさらすことがエロティックな意味を帯びていた時代において、覆うという行為はむしろ敬意と自制の表現だった。
この「ステータス・シンボル」としてのベールは、メソポタミアにとどまらず古代ギリシャ・ローマ世界へと受け継がれた。ギリシャでは既婚女性が街を歩く際に衣服の端で顔を覆い、オデュッセウスの妻ペネロペもベールを被って登場すると伝えられる。スパルタでは既婚女性が市場に出る際にベールを着用し、ローマでは花嫁が結婚式の際にベールを被る伝統があった。
興味深いのは、ラテン語で「結婚する若い女性」を意味する nubere という語が、「覆う」を意味する語根 nubes(雲)に由来することだ。結婚という行為が「頭を覆う」ことに重ねられていた事実は、ベールが古代西洋文化の奥深くにまで根を下ろしていたことを物語っている。
さらに時代が進むと、ベールは宗教的意味を帯び、ユダヤ教とキリスト教において信仰の象徴として定着した。
ユダヤ教では律法の中で女性の頭を覆うことが義務づけられ、覆わない者は慎みを欠くとして罰を受けることさえあった。キリスト教では聖母マリアの姿にならい、修道女たちがベールを着けるようになった。聖パウロはコリントの信徒への手紙の中で、「ベールは女性にとって名誉である」と記しており、信仰と尊厳の結びつきを示している。また、宣教師たちがアフリカで女性信徒にスカーフを求めたことから、キリスト教が「ヘッドスカーフの宗教」と呼ばれたこともある。
イスラムの登場は、こうした古代の伝統の断絶ではなく継承であった。預言者ムハンマドと『コーラン』は、近東の異教・ユダヤ教・キリスト教に長く根付いていた慣習を取り込み、それを信仰の倫理へと昇華させた。『コーラン』第24章31節には、「信者の女性に貞節を守り、ベールを胸の上に垂らすように」と記されている。イスラムにおけるベールは、すでに存在した文化的伝統を整理し、信仰の文法の中で再定義した結果生まれたものだった。
以上のように見てくると、ベールは単なる布ではなく、時代と文明を横断して多様な意味を帯びてきた文化的テクストである。メソポタミアでは法と地位の象徴、ギリシャ・ローマでは高貴さの印、ユダヤ・キリスト教では敬虔(けいけん)さの象徴、そしてイスラムにおいては信仰と倫理の一部として継承された。
ベールの長い歴史を知るとき、それを単一の宗教や価値観の枠に閉じ込めることの危うさが見えてくるだろう。霧のように曖昧な「他者」へのまなざしを超えて、私たちはその布の向こうに、連綿と続く人類文化の記憶を読み取ることができるのではないだろうか。
バナー写真:イラク・バグダッドの廟(びょう)で、ラマダン明けの早朝礼拝に合わせて祈りをささげる女性=2025年3月31日(AFP=時事)