コラム:私の視点

憲法記念日に、憲法について考える

政治・外交

筆者は昔から「国民の祝日」を覚えるのが苦手だが、「元日」「こどもの日」「体育の日」(いまは「スポーツの日」というらしい)などと並んで、5月3日の「憲法記念日」は例外的に日付と呼称が一致する。毎年その日が近づくと、筆者は各メディアの組む憲法関連企画に動員されることが多く、否応なしに憲法記念日の存在はインプットされている。

しかし、筆者のような例はまれであろうし、多くの人は5月3日をゴールデンウイークのークの一部として、レジャーを楽しむうちに毎年通り過ぎてしまうのだろう。実際、この祝日が大型連休の一部であるのは、日本国憲法にとって悲しむべきことで、多くの国民は憲法について特に意識する機会を待たないまま、年を重ねていく。そして案の定、憲法改正をめぐってもめている国会をよそに、有権者レベルではこの問題について関心も知識も乏しいままとなっている。筆者がこのコラムを、憲法記念日に合わせて書いているのは、以上の点を残念に思うがゆえである。

ライオンを飼いならせる檻になっているか

そもそも憲法とは何か。ひと言でいえば、それは「国のかたち」を定める基本ルールである。あるべき「国のかたち」は時代状況によって違ってくるから、憲法を適宜バージョンアップしていくのは本来当然のことで、他国では実際にそうしている。例えば、日本と同じく第二次大戦後に憲法を制定したドイツ、イタリアでは、これまでそれぞれ70回近く、20回近くもバージョンアップを重ねてきている。

その一方で、日本でも他国でもそうだが、憲法はふつう変えにくくできている。日本国憲法の場合、改正のためには、衆参両院議員の3分の2以上の賛成をもって発議を行い、さらに国民投票で過半数の支持を得る必要があるが、これは一般の法律が衆参両院議員の過半数の賛成だけで成立させられることに比べて、各段に厳しい。

このように、「国のかたち」を前もってある程度固めておく理由は、ときどきの為政者が自分の都合の良いように、簡単に基本ルールを変えてしまわないようにするためである。あるべき「国のかたち」として最低限満たすべき条件は、表現の自由や信教の自由といった国民の権利が守られることだが、歴史的に見ると、そうした自由は警察や軍隊を握る政府によってしばしば蹂躙(じゅうりん)されてきた。

そこで、近代人が編み出したのが、憲法という「檻(おり)」をもって、どう猛な「ライオン」たる国家権力をあらかじめ一定の行動範囲の枠に封じ込めておくという──立憲主義と呼ばれる──考え方である。当たり前だが、檻が猛獣によって容易に破られたり、変形させられたりしては意味がない。檻をつくる以上、それは頑丈につくられねばならない。

だが先に書いたように、檻の大きさや形は、ときに飼い主(国民)の判断で適切なものにつくり変えていくことも必要になる。檻の形状が体に合わず、ライオンが健康を害したり死んでしまったりしては元も子もないからである(そもそもライオンを不要とするアナーキズムという立場もあるが、筆者は採らない)。そういう窮屈に見える状況でもライオンが元気に動いているとすれば、檻はあるように見えて、実際には穴が開いているなど機能性に問題があると見るべきである。

檻からの「はみ出し具合」は確実に悪化

以上の例え話を使いながら、戦後日本の状況を表現すれば次のようになるだろう。

そのライオンは生まれたときから、ある大きさの立派な檻に入れられて育ってきたが、成長とともに窮屈になり、身動きがとれないようになった。他方、その檻は一度も改修されることなく、老朽化が進んで穴さえ開いている。そこで成長したライオンは、飼い主をなるべく刺激しないよう、あくまで檻の中にいると言い張りながら、実際には体を外にはみ出させるようになった。そのはみだし方は年々ひどくなり、いざとなれば、自ら穴を広げてもっと大胆に抜け出ることさえできそうに見える。

いわゆる「改憲派」の論者たちは、この状況を見て、もはや檻の改修が不可避だと主張している。ただしその際、多くの改憲論者は、せっかくの改修の機会に、檻のサイズをいまのライオンの体に合わせて、いくらか広げてあげることを提案しがちである。元のままではライオンが健康的に生きていくのにもはや狭すぎるので、サイズを変えずに穴だけ塞いだとしても、ライオンはストレスで病気になってしまうか、耐えきれずに力づくで檻ごと破壊してしまうだろう。

これに対して、いわゆる「護憲派」は一切の改修を拒み、あくまで檻の形状をそのまま維持すべきだと主張する。ライオンの要求を酌んで檻を大きくすることを一度でも認めてしまえば、今後その要求はエスカレートしていくに違いない。最終的には飼い主の生活圏を脅かすほど野放図にサイズが広がり、実質的に檻としての役をなさなくなってしまうかもしれない、とまで心配する。実際、立憲主義の原理を理解していない、あるいは好んでいないとおぼしき──ライオンが飼い主にかみつくリスクを想定せず、その「放牧」を望む──改憲論者が存在することは否定できない。そうした冒険主義者たちに「改修」されてしまうリスクを考えれば、穴があるにせよ、小ぶりにつくられたオリジナルの檻に固執する方が賢明ではないか。

このように両派の意見は交わらず、憲法改正をめぐる不毛な論争を延々続けてきたのが戦後日本における政党政治の姿であった。そして論戦が膠着(こうちゃく)する中で、ライオンの体のはみだし具合は確実に悪化してきた。かつて1950年代に自衛隊が創設されたとき、すでに多くの憲法学者や最大野党がそれを憲法違反と見なしていた。その後、自衛隊は海外に派遣されるようになり、敵基地攻撃能力も備えるなど、活動可能範囲は広がる一方である。2010年代には、やはり憲法違反の疑いが濃いと指摘された、集団的自衛権行使も容認されるに至った。いよいよ憲法という檻が機能しているのか、懸念が強まってきたのも当然であろう。

憲法の記述と現実を整合させるのが立憲主義

憲法改正をめぐる論争に終着点はないのだろうか。筆者はあるはずだと考えている。打開のカギは、檻の修繕(憲法典の記述と現実の政策を整合させること)と、檻の形状の設定(例えば、自衛隊の行動範囲をどこまで認めるかということ)を、目的として自覚的に切り離すことである。

両方とも大事な目的だが、このうち前者、すなわち立憲主義を守ることは、人権を尊重する限り、どのような政策的立場の政治勢力も重視すべきで、そもそも本来は「争点」になり得ない。現状、檻がすでに破(ら)れている──少なくない憲法学者がそう理解している──のだとすると、改修の必要性そのものに説得的に反論するのは難しい。

これに対して、檻の形状をどうすべきかは、積極外交志向か協調外交志向か、緊縮財政派か積極財政派かといった政策的立場によって主張に幅が出てくる。ここでは一概にどの主張が最善とは言いにくいから、国民を代表する各党派が議論を尽くして折り合いをつけるしかない。それは必ずしも容易な交渉ではないだろう。だが、檻の改修が不可避である以上、どうにかして意見集約するのが国会の責務である。

ゴールデンウイーク明けにも、国会で憲法改正をめぐる議論は続くことだろう。その際、どの党派も、まずは立憲主義の維持(あるいは確立)が最優先課題であることを意識し、相互に確認して臨むのがよいだろう。そのうえで、あるべき檻のサイズや形について話し合えば、おのずと終着点も見えてくるのではないか。

バナー写真:米空母と共同訓練する海上自衛隊のイージス艦「あしがら」(手前)=2022年11月、フィリピン海[米海軍提供](時事)

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