「中道改革」の立て直しに必要なのは
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立憲民主党と公明党の合流問題に絡んで、中道改革連合の党名を変更する可能性が取りざたされている。たしかに中道改革連合という名称は、結党当初から「古い」だの、「分かりにくい」だのと、SNS上でさんざんな言われようであった。党の支持率も常に低調だったから、もう一度「リセット」したくなる党関係者の気持ちも理解できる。
必ずしも評判のよくない党名は、公明党サイドの意向が強く働いたものだったに違いない。公明党は古くから、仏教由来の概念である「中道」を中核的理念に位置づけてきた。1970年に採択された綱領で、同党は「人間性尊重の中道主義を貫く、国民政党」と自らを規定している(公明党史編纂委員会編『公明党50年の歩み』)。
また公明党は、70年代以降、「中道革新連合」なる政権構想を示し、日本社会党や民社党との連携──いわゆる社公民路線──を模索している。昔から公明党を知る人にとってみると、中道改革連合という響きにはどことなく懐かしさが感じられる。
しかしながら、むろん、「中道」は仏教団体を支持母体とする公明党の専売特許というわけではない。古い新聞記事を繰ってみると、同概念は、すでに戦前から非宗教的文脈で使われていることが確認できる。
『朝日新聞』のデータベースで検索すると、戦後における「中道」の初出は、1947年4月28日のようである。これは戦後2回目の衆院選が実施された3日後で、「共産主義を排除し民意は中道を選ぶ マックアーサー元帥声明」が記事の見出しとなっている。
この選挙を経て成立したのは、社会党・民主党・国民協同党を連立与党とする、片山哲内閣であった。当時の社会党は、片山委員長ら右派が主導していて、共産党に比べ穏健な立場を採っていたし、他の2党も吉田茂率いる日本自由党に比べて「中道」寄りであった。そうしたバランスの取れた政権の成立を、軍国主義に懲りた当時の国民は選び、そのことを連合国軍総司令部(GHQ)も歓迎した。このとき、「中道」というシンボルのイメージは明らかにポジティブであった。
だが戦後を通して、「中道」なるイデオロギー的位置が、有権者の多くから好意的に受け取られたのは、この時だけだったかもしれない。片山内閣、芦田均内閣と続いた占領期の中道連立政権は、内紛とスキャンダル(昭和電工事件)で自壊し、非常に悪い印象を残して終わってしまう。
以後、保守志向の強い吉田自由党が政権に復帰し、1955年の保守合同を経て、保守政党(自由民主党)による支配が永続化することになる。他方で社会党の側は、中道政党との連携が苦い記憶として残り、その後、左傾化の度を強めていく。
かくして、政界の「中道」勢力は孤立することとなり、55年体制期を通し、せいぜい野党第2党以下の地位に甘んじることになる。そもそも野党陣営で「中道」を訴えたところで、自民党政権に対抗する積極的な政策提言につながりにくく、エッジが立たないため、有権者から大きな支持を得ることは難しい。また、「保守反動」とされた自民党政権の側も、1960年代以降、党是の憲法改正論を事実上封印するなど、イデオロギー的に穏健化していったことで、「中道」勢力の立ち位置は一層難しいものになった。
歴史上、自民党が下野したことは2度あるが、いずれも勝利したのは、「中道」ではなく、「改革」を標榜する勢力であった。そのうち2009年に政権を得た民主党は、党内に保守派とリベラル派の両方を含んでおり、全体として特定のイデオロギーに偏ってはいなかったが、そのことを売りにしていたわけではない。むしろこの点で同党は、バラバラだと揶揄されてすらいた。
民主党は、極端なイデオロギー的立場を採らないことを前提としたうえで、保革対立軸とは別のベクトルで自民党に優る魅力を示し得たからこそ、政権交代を実現できたのである。今日、その妥当性について評価が分かれるものの、「コンクリートから人へ」や「脱官僚」といった同党のスローガンは、自民党政権に飽き、変化を求める当時の多くの有権者にアピールした。
中道改革連合も、自民党政権を倒すためには、「中道」性をアピールするだけではパンチ力不足で、それとは別の、新たな角度のアピールポイントを示す必要がある。党名に「改革」と入れたのは、そのことを同党が自覚していたことの表れであろう。だが、今年2月の衆院選では、中道改革連合よりも高市自民党(と部分的にはチームみらい)のほうに「新しさ」を感じた有権者がはるかに多かったようである。中道改革連合に求められているのは、党名変更(だけ)ではなく、自党をアピールする争点や対立軸そのものの新たな発掘ではないだろうか。
バナー写真:中道改革連合の新ポスターを発表する小川淳也代表=2026年7月8日、国会内(時事)