「ただ純粋に自分の思いを作品に込める」―竹工芸の人間国宝・藤沼昇:日本の工芸品を世界の芸術へ
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芸術として世界へ広まる作品
藤沼昇さんの作品は、その9割以上が米国をはじめとする海外のコレクターのもとへ渡る。展覧会はもちろん、藤沼さんのアトリエを直接訪れ作品を手にするコレクターも後を絶たず、日本国内で作品を目にする機会が限られるほどだ。
では、なぜ藤沼さんの作品がこれほどまでに海外で支持を集めているのか。きっかけは1997年に日本橋三越で開かれた個展にあった。この個展で、米化粧品大手ニュートロジーナの元社長で美術コレクターでもあった故ロイド・コッツェン氏が作品を購入。後にニューヨークで開催された同氏のコレクション展で藤沼さんの作品が紹介されると、一気に注目を集め、海外のコレクターから求められるようになった。
そのコッツェン氏が最初に購入し、海外との架け橋となった作品が花籠「春潮」である。茎の根本が大きく曲がる根曲竹(ねまがりだけ)を素材に、自在に編む荒編(あらあみ)の技法で力強くまとめることで、竹の持つエネルギーを鮮やかに表現している。
「根曲竹はあまりにもパワフルで、最初はどう扱っていいのか分からず、まとめ上げることすらできませんでした。人の手を借りて押さえてもらっても締めきれないような強さで、完成までに3年ほど試行錯誤を重ねました」
「春潮」は藤沼さんにとっても特別な思い入れのある作品であり、現在でもシリーズとして制作が続く。
「41歳で日本伝統工芸展で受賞したのですが、その後スランプに陥って制作ができなくなってしまったんです。そのとき、『スランプは気力が足りないせいだ』と“気”の大切さを意識するようになり、以来、“気”をテーマに制作するようになりました。『春潮』はその初期に生まれた作品なんです」
台所で使われていた竹を床の間へ
芸術品として世界でその価値が認められ、人間国宝としても名高い藤沼さんだが、意外にも「子どものころは竹の仕事だけはやりたくないと思っていた」と話す。
藤沼さんが生まれ育ち、いまなお暮らすのは、竹の名産地として知られる栃木県大田原市。この地域では、豊富に自生する竹を使い、生活用品が盛んに作られてきた歴史があり、竹は藤沼さんにとってごく身近で、非常になじみの深い素材だった。それだけに、なおさら竹工芸の道に進むことを避けたいという思いがあったのかもしれない。
「手先が器用だったので、子どものころから近くに生えている竹を使って、竹馬や釣りざおを作っていました。父が大工で、ナタやノコギリなどの道具が家にあり、自由に使えたんです。ただ、竹細工職人になりたいとは思いませんでした」
当然、竹工芸の道は選ばなかった。高度経済成長期のさなか工業化が進む時代だったこともあり、藤沼さんは工業高校に進学。その後、機械メーカーに就職し、品質管理の仕事に就いた。27歳のときヨーロッパ旅行で訪れたフランス──そこで、藤沼さんの人生は大きく動き始める。
「ルーブル美術館やシャンゼリゼ通りに日本人があふれているのを見て、『なぜわざわざパリまで来ているんだろう』と疑問に思ったんです。それで真剣に考えて、たどり着いた答えが、『文化の力なのではないか』ということでした」
藤沼さんはそれまで無縁だった“文化”というものを、そのとき初めてはっきり意識したという。そして一気に引き込まれ、自国の文化の追求へと傾いていった。
とはいえ、すぐに道が定まったわけではない。漆や陶芸、書道、茶道などさまざまな分野に触れるなか、カルチャー教室で竹工芸を習っていたときに、竹工芸初の人間国宝である生野祥雲斎(しょうのしょううんさい)氏(1967年に重要無形文化財「竹芸」保持者に認定)の遺作集と出会う。それが藤沼さんの進むべき道を決定づけることになった。
「作品集を見て、『竹でここまでできるのか』と衝撃を受けました。『台所で使われていた竹が、役割を変え、床の間に行った』と。そう感じた瞬間、会社を辞めて竹工芸の世界に入ることを決めました。『生野先生に追いつけばいいんだから、僕にだってできる』と思ったんですよね」
藤沼さんは、ただ物理的にものづくりをするのではなく、“作家”として 創造的に作品を生み出すと決心。30歳の誕生日を待ち、1975年、竹工芸に取り組み始めた。
教わるのではなく自分で竹の“個性”を知るしかない
竹工芸の技術の基礎は、創作活動のかたわら後継者の育成に尽力していた八木澤啓造氏に教わった。しかし、師事してわずか1年半で「もう教えることはない」と告げられて独立。それからは生野氏の作品集を手に、自ら技術を積み上げていった。
「長く教わらなくてよかったと、いまでは思います。結局、竹という素材を生かすためには、自分で竹に触れて、竹の“個性”を知っていくしかありません。それに、指導されるとマネしかできなくなる。教わった伝統的な技法だけで作ると、デザインやなんかがどうしても過去の作品と似てしまって、新しいものは創り出せないんです」
そうして1992年、独自の技法が生まれる。藤沼さんは伝統的な束編(たばねあみ)技法で作品を制作していた際、ふとした拍子に誤って竹ひごの束をひねってしまった。ところが、その“ひねり”が思いがけない効果を生んだのだ。
「伝統的な技法だと籠の口は水平になります。でも、このひねりを加えた技法だと、波打った形にすることができるんです」
その独自技法が用いられた近作が、束編花籃「五行」である。「五行」は、細く割って染色した竹ひごを、二層構造で編み上げた作品だ。伝統技法を応用した透かし網代(あじろ)で編まれた内側は、竹の繊細さを、束編にひねりを加えた独自技法で編んだ外側は、竹の強靭さを表現。伝統的な花籠には見られないユニークな造形が、竹の有機的な美しさをより一層際立たせている。
次の世代の人たちの刺激となるような作品を
独自の技術と美的感覚によって生み出される藤沼さんの作品は唯一無二の魅力を持ち、知り合いの時計店のショーケースに作品を並べ初めて作品を発表したときから、買い手が絶えることはなかった。
次第に評判も広まり、やがて東京で展覧会を開催。2000年ごろからは海外のアートショーに出品するようになり、2011年には全米有数の規模と歴史を誇るシカゴ美術館で個展を開くまでに至った。
そうして着実に活躍の場を広げていった藤沼さんが、重要無形文化財に認定されたのは2012年、67歳のときだった。
認定にあたっては、「伝統技法を踏まえながら独自の工夫を加え、精緻な網代編や繊細な束ね編などが作る端正な編み目や千筋の透かしの効果を活かした制作を行うほか、自在な荒編なども手掛ける。同人が『気』をイメージした作品は、空間の広がりを内包したおおらかな造形と力強い意匠構成を特色とし、格調高く独創的な造形美が高く評価される」と称賛された。
「僕は生野先生の写真集に出会ったからこそ、作家としてのいまの自分があると思っています。だからこそ、次の世代の人たちが『ものづくりをやってみたい』と思えるような、刺激となる作品を残したい。そのためには、人の評価を気にするのではなく、ただ純粋に、自分の思いを作品に込めることに集中しなくてはと思っています」
一度作り始めると作品のことで頭がいっぱいになり、寝る間も惜しんで制作に没頭してしまうという藤沼さん。作品のデザインやアイデアも、制作中に次々とあふれ出してくるのだという。
その勢いはとどまるところを知らず、2028年には、日本の竹工芸と現代アメリカ美術に焦点を当てた米サンタ・フェ(ニューメキシコ州)のアートギャラリー・TAI Modernでの個展開催が決定している。テーマは「力強さ」。その表現を追い求め、藤沼さんは今日も制作に向き合っている。
取材・文:杉原由花、POWER NEWS編集部
写真:横関一浩(バナー・本文中ともに)
バナー写真:作品を制作する藤沼さん







