江戸のメディア王・蔦重が生きた時代

令和と丸かぶり!? 備蓄米放出、規制緩和でも収まらなかった「天明の米騒動」は暴動と政権交代へと発展

歴史 文化 社会

“令和のコメ騒動” は先の参院選の争点の一つとなった。NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺』の舞台となった天明年間(1781〜1789)にも凶作、価格つり上げ、幕府の介入といった、今の時代と相似の事態が起こっていた。250年近い時代を経ても、コメは政治を揺るがす?

打ちこわしを茶化した『天下一面鏡梅鉢』

寛政元(1789)年に出版された『天下一面鏡梅鉢』(てんかいちめんかがみのうめばち)は、天明3(1783)年の浅間山の大噴火と、噴火がもたらしたコメの凶作、飢饉による民の窮乏を取り上げた黄表紙(草双紙)だ。タイトルに時の老中・松平定信の家紋である「梅鉢」を織り込むことで、有効な打開策を打ち出せないご政道を批判する内容となっている。

浅間山の大噴火で諸国に降り注いだ火山灰を、『天下一面〜』は金の小判に置き換え、人々が熱狂して拾っている姿を描き出している。

金が空から降ってくるほど平和で金回りの良い世の中に戸締りなど必要ないと、大衆が家の戸を破壊しているのが冒頭に掲げた画像だ。当時相次いだ米屋の打ち壊しの比喩だ。

つまり火山灰による災害の拡大と、それに伴う米の高騰、打ちこわしに至る、民の不安と不満を代弁したものだが、幕府の側からすれば難局を茶化す不謹慎極まりない作品で、絶版(発禁)に追い込まれた。

火山(左上)が噴火し、小判が空から降ってくるという滑稽な絵を載せた『天下一面鏡梅鉢』国立国会図書館所蔵
火山(左上)が噴火し、小判が空から降ってくるという滑稽な絵を載せた『天下一面鏡梅鉢』国立国会図書館所蔵

浅間山の大噴火を描いた『天明三年浅間山大焼画図』出典:ColBase
浅間山の大噴火を描いた『天明三年浅間山大焼画図』出典:ColBase

巻末に「長喜(ちょうき)画」と絵師の名前があるだけで、作者や版元についての記述はないが、後の研究で人気戯作者の唐来参和(とうらい・さんな)、版元は蔦屋重三郎が経営する耕書堂だったと分かっている。「耕書堂版本総目録」(『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』太田記念美術館所収)などでも、蔦重プロデュースの本として記載されている。

火山噴火がさらに大水害を招いた

天明年間は災害が連続して起きた。浅間山大噴火で溶岩が川に流れ込んだり、火山灰が堆積したために川底が高くなったりが原因で、各地に洪水被害が頻発した。農作物は不作に陥り、北関東と東北を中心に餓死者が92万人(推定)に達した。「天明の大飢饉」だ。農村は荒廃した。

最も被害がひどかったのは弘前藩(青森)で、餓死者8万人といわれるが、ここでは大田原藩(栃木県那須郡)の被害状況を詳しく見てみよう。石高1万1416石、東北に接した小藩である。天明2年から同6年の5年間、冷害・暴風雨・長雨等の異常気象が続き、さらに浅間山爆発に伴う火山灰の災害によって作物は実らず、多数の餓死者を出した。

藩は城中に備蓄した米1000石を救済にあてたが、こうした状況にあっても米を買占めて利益を得ようとする商人が存在し、全村の農民が大暴動を起こしたという。 領内で暴動が起きるのは、藩にとって由々しき事態だった。幕府に知られては統治不能のらく印を押され、罰せられる可能性があったからだ。藩主自らが農民の代表者に面接し、彼らの窮状を聞いたという。

地方では食うに食えず、救いを求めて江戸に流れ着く流民も多かった。幕府は彼らを収容する「お救い小屋」を開設したが、すべてに対処するのは到底無理で、市中には飢えてさまよう人があふれた。

何より江戸の町人たちでさえ諸物価の高騰、特に米価の値上がりの直撃を受け、疲弊しきっていた。

飢民を救済・収容するお救い小屋。これは1833年に始まった「天保の飢饉」の時のもの。『荒歳流民救恤圖』国立国会図書館所蔵
飢民を救済・収容するお救い小屋。これは1833年に始まった「天保の飢饉」の時のもの。『荒歳流民救恤圖』国立国会図書館所蔵

『炊き出しの図』。この絵も「天保の飢饉」のもので、打ちこわしで奪った米の一部を往来に持ち出した大釜で炊き、飢えた者に支給したという。出典:しながわデジタルアーカイブ
『炊き出しの図』。この絵も「天保の飢饉」のもので、打ちこわしで奪った米の一部を往来に持ち出した大釜で炊き、飢えた者に支給したという。出典:しながわデジタルアーカイブ

米価の安定に奔走した田沼意次

老中・田沼意次は、米価対策として天明4(1784)年1月、「米穀売買勝手令」を公布する。それまで米の流通・販売を認可されていたのは株仲間に限られていたが、大胆な規制緩和で、誰でも自由に販売できるようにしたのだ。

だが、この策は失敗だった。新規に参入した業者たちが投機目的で米を買い占めたため、逆に値段をつり上げてしまったのである。そこで幕府は20万両を投じて商人から米を買い上げ、それを安価で直接庶民に売り、非常事態をしのごうとした。

これが功を奏すると思えた天明6(1786)年8月、意次の後ろ盾だった10代将軍・徳川家治が死去。後見を失った意次は失脚し、代わって政権は松平定信が掌握する。

災害と飢饉で社会が不安定なときに、政権交代が起きたことによって、さらに混乱に拍車がかかり、飢民の救済も遅れた。事実、米価が最高値となったのは意次が失脚してのちの天明7(1787)年前半で、平時では100文で米約1升を買うことができたのに、2合5勺(しゃく)しか買えなかった。1升は10合だから、約4倍高騰したことになる。大衆の怒りは頂点に達した。

5月、大坂の米屋が庶民の襲撃を受けると、アッという間に騒乱が全国に波及し、のちにいう「天明の打ちこわし」が始まった。

黄表紙『新建哉亀蔵』(あたらしくたつやかめぞう)にも、天明の打ちこわしの様子が登場する(この本は耕書堂から出版されたものではない)。国立国会図書館所蔵
黄表紙『新建哉亀蔵』(あたらしくたつやかめぞう)にも、天明の打ちこわしの様子が登場する(この本は耕書堂から出版されたものではない)。国立国会図書館所蔵

江戸でも5月だけで1000軒超の米屋が襲われた。『天下一面〜』は、そうした世相を皮肉っていたのである。

江戸の打ちこわしは、治安維持を担っていた奉行所も圧倒されるほどの勢いだった。幕府は5月22日、江戸城の警護部隊であった御先手組を投入し、「手に余り候は切捨にいたしても苦しからず」、つまり場合によっては切って捨ててもかまわないとお達しを出した。このような強硬手段をもって5月末、暴動はようやく鎮圧した。

翌月、松平定信が老中首座となる。なおこの時、御先手組にいたのが長谷川平蔵で、平蔵はこのときの活躍が認められて火付盗賊改に抜擢される。

田沼意次は商業に重点を置き、幕府財政を建て直そうとした政治家として知られる。米に依存していた財政から、重商主義へと転換しようとしたが、このため農村まで目配りがきかず、飢饉の救済が後手にまわったと批判を受け、米不足に対しても打開策を見出せず、失脚の一因となった。

一方の蔦重は、田沼政権の自由な社会情勢下、奇想天外な出版活動で台頭してきたが、意次が失脚し、松平定信が経済・風紀の引き締めをはかり始めると、その余波をもろに被り、出版物も規制されていくのである。

【参考図書】

  • 『別冊太陽 蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』鈴木俊幸監修 / 平凡社
  • 『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』/ 太田記念美術館
  • 『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』安藤優一郎 / PHP新書
  • 大田原市 / 地域史資料デジタルアーカイブ

バナー写真:商店の打ちこわしを茶化した『天下一面鏡梅鉢』国立国会図書館所蔵

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