美人画の巨匠・喜多川歌麿 : “プロデューサー蔦重” との蜜月と別れ
文化 歴史 美術・アート- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
哥(歌)麿の画号を使いはじめたのは1781年
美人画の名手として世界的にも知られる喜多川歌麿だが、その生涯については正確な記録が少なく、生まれや家系はほとんど分かっていない。
歌麿が葬られた浅草の専光寺(関東大震災で焼失し、世田谷区に移転)の過去帳には1806(文化3)年9月20日没とある。通説では死去時に数え54歳だったとされるため、逆算して1753(宝暦3)年生まれということになる。
出身についても、京都・江戸・川越など諸説あるが、1700年代半ばから江戸で活躍していた絵師・鳥山石燕(とりやま・せきえん)に幼くして師事した形跡があり、幼少期から江戸にいたと考えていいだろう。なお、石燕門下には “黄表紙の祖” と呼ばれる恋川春町もいた。

『画本虫撰』所収、鳥山石燕の跋文=あとがき。傍線部は「今門人哥麿(歌麿)が著す虫中の生を写すは是心画なり、哥子幼昔物事の細成か」とあり、歌麿は自分の門人で幼少時から知っていると述べている。左の赤線枠は石燕の署名。国立国会図書館所蔵
本姓は「北川」。幼少期は「市太郎」「勇助」と名乗った。1770(明和7)年頃、石燕が絵を寄せた歳旦帳『ちよのはる』に、「少年石要画」との署名を付した茄子(なす)の絵があり、これがデビュー作と目されている。
続いて1775(安永4)年、浄瑠璃正本の表紙などを描きはじめ、「北川豊章」と名乗った。この時期には黄表紙の挿絵も手がけている。

(左)『ちよのはる』、茄子の絵の上に「少年石要画」の署名がある。東京大学総合図書館 洒竹文庫蔵 出典:国書データベース/(右)蔦重が版元の黄表紙『身貌大通神略縁起』には「画工 忍岡哥磨」とある。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

「北川豊章」時代の『通鳧寝子の美女 / かよいけりねこのわざくれ』は1778(安永7)年刊。国立国会図書館所蔵
豊章から「哥麿」へと改名した初めての作品が、1781(天明元)年の『身貌大通神略縁起 / みなりだいつうじんりゃくえんぎ』で、蔦重制作の黄表紙だった。蔦重が板元(版元)となって7年目のことである。
巻末に「画工 忍岡哥麿」と記されている。「忍岡」(しのぶがおか)は、上野寛永寺の一角の旧称で、現在の上野公園のあたりだ。歌麿はその付近に住んでいたのだろう。
その後は、大田南畝らが編纂した浮世絵の名鑑『浮世絵類考』に「(歌麿は)絵草紙問屋蔦屋重三郎方に寓居(ぐうきょ)」、つまり居候と記されている。出版社が流行作家を缶詰状態にしているようなもので、それだけ歌麿を起用する機会が多かったからと考えられる。
本姓の「北川」を「喜多川」と表記するようになったのは1783(天明3)年の『燈籠番附青楼夜のにしき』から。この年、『風流花之香遊 高輪の季夏 / ふうりゅうはなのかあそび たかなわのきか』も描いている。高輪(品川宿)の遊里を描いた2枚続の豪華錦絵で、いよいよ本格的な浮世絵師として頭角を現すようになった。

1783(天明3)年の『風流花之香遊 高輪の季夏』。いよいよ美人画のジャンルに進出しはじめる。出典:ColBase
狂歌絵本で才能が一気に開花
1788(天明8)年には、蔦重のもとで狂歌絵本の制作に着手した。狂歌絵本とは“天明の狂歌ブーム”を背景に、多色刷りの浮世絵に名だたる狂歌師の詠を載せたもので、代表作『画本虫撰 / えほんむしえらみ』『潮干(しおひ)のつと』はこの年の作品だ。
さらに雪月花三部作といわれる『深川の雪』『品川の月』『吉原の花』、また『画本虫撰』の「鳥の部」を発展させた『絵本 百千鳥 / ももちどり』も上梓した。
特筆されるのは『画本虫撰』で、狂歌絵本の最高作と推す人も少なくない。収録された絵は全15図。1図に2種類の虫と2首の狂歌が載っている。序文を担当した宿屋飯盛(やどや・めしもり)をはじめ、蔦重と交流を持つ著名な文士30人が狂歌を寄せた。歌麿はそれらの文士と同等の地位を築いたのである。
時代が寛政に入ると、蔦重の周囲は慌ただしくなった。1791(寛政3)年、耕書堂のヒットメーカーだった戯作者・山東京伝作の黄表紙が、幕府の出版統制の対象となり発禁処分を受けた。京伝は手鎖50日、蔦重も身上半減の罰。これによって世相を皮肉って庶民をあおる黄表紙の制作は停滞し、それに代わる新機軸の媒体が必要となった。
蔦重は、歌麿が「女性を描く」のに稀有な才能を持っていると気づいていた。吉原の妓楼オーナーたちと組織していた狂歌師グループ「吉原連」に歌麿を参加させ、女性を身近に“観察”させた。この体験が「美人大首絵」の制作に結実していく。
やがて2人は袂を分かつ…
「大首絵」とは、今でいう「バストアップ」の構図の浮世絵のこと。役者絵では定番だったが、女性をモデルに描くには髪や顔の細部を巧みに描き出す力量が求められた。歌麿は、その要望に応えることができた。
1792〜93(寛政4~5)年にかけて『婦女人相十品 / ふじょにんそうじっぽん』『婦人相学十躰 / ふじんそうがくじったい』、続いて『歌撰戀之部 / かせんこいのぶ』といった大首絵のシリーズを矢継ぎ早に出す。『婦人人相十品』の「ポッピンを吹く女」は2025年5月、初期に刷ったとみられる貴重な作が発見され話題になったばかりだ。1981年に競売にかけられて以降行方不明だったが、保存状態も良いという。
また、『婦人相学十躰』は、歌麿が女性の性格や運勢を診る「相見(そうみ)」に長けた絵師であるとアピールし、「この相の女性は浮気症」「これは愉快な人柄」など表情豊かに描き出した。
『歌撰戀之部』は女性が美しいのは「恋をしているから」をテーマに描いた5作。それまでの女性画は鮮やかな色遣いに注力するばかりで、心の内面に切り込んだ歌麿の画は斬新だった。
ごく普通の町娘をモデルにした『江戸三美人』も好評だった。茶屋・難波屋の看板娘「おきた」、煎餅屋・高島屋の「おひさ」、浄瑠璃の名取だった「富本豊雛(とみもと・とよひな)の3人を描いた大首絵で、「おきた」は鷲鼻、「おひさ」は目と口が小さく、「富本豊雛」は色っぽい仕草が特徴だった。
一般女性をモデルに起用したことが評判となり、男性客が彼女たちを目当てに続々と店にやって来た。幕府はこれを「風紀を乱す」として、モデルの「名前」を浮世絵に入れることを禁じた。
そこで歌麿は「判じ絵」という手法を使い、『高名美人六歌撰』を出す。例えば、富本豊雛の絵の右上に富くじ(とみ)、藻(も)、砥石(と)、戸板と行灯=夜(と、よ)、紙のひな人形を描き、頭の文字をつなげると「とみもととよひな」と、名前を連想させたわけだ。苦肉の策だが、権力に屈しない歌麿の気骨を表しているといえる。なお、この方法も1796(寛政8)年には禁止となる。

(左)『江戸三美人』/(右)判じ絵の手法を使った『高名美人六家撰 富本豊雛』。2点とも出典:ColBase
実は『三美人』は耕書堂から発売され、『高名美人六歌撰』は異なる版元から出版されている。つまりこの間に、蔦重と歌麿は袂を分かち、関係は途絶えている。
蔦重が規制に屈したからとも、または東洲斎写楽の売り出しに専念した蔦重を歌麿が快く思わなかったからとも、理由は諸説あるが、真相は藪の中だ。
蔦重は1797(寛政9)年に没した。歌麿はその7年後、1806(文化3)年に逝った。歌麿の死は、豊臣秀吉を題材として描いた大判の錦絵が出版統制に引っかかり、手鎖50日の刑を受けた半年後だった。2人の生涯は、ともに発禁に関わるなど、やはりどこか重なっている。
【参考図書】
- 『蔦屋重三郎 江戸のメディア王と世を変えたはみだし者たち』山村竜也監修 / 宝島社新書
- 歴史人増刊『蔦屋重三郎とは、何者なのか』/ ABCアーク
- 歴史人2025.2月号『蔦屋重三郎の真実』/ ABCアーク
- 『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』松木寛 / 講談社学術文庫
バナー画像:(左)「哥麿」の落款(らっかん)/ (右)『婦人人相十品 ポッピンを吹く女』2点ともColBase
