寛政の改革と出版統制 : 蔦屋重三郎を追い詰めた松平定信という男
歴史 文化 社会- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
松平定信は8代将軍・吉宗の孫
松平定信は、江戸幕府の“中興の祖”といわれた8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる。吉宗が創設した徳川御三卿(田安家・一橋家・清水家)のうち、田安家の初代となった吉宗の子・宗武(むねたけ)の七男として生まれた。幼名は賢丸(まさまる)。
兄たちは早世し、幼少期から学門に励み聡明であった賢丸は周囲から田安家の後継者と目され、いずれは将軍にもなり得る器と評された。しかし、10代将軍・家治の命で陸奥白河藩(福島県白河市)の養子となり、将軍への道は断たれた。
天明の大飢饉(1782〜)では、義理の父である前藩主・松平定邦に比較的余裕がある周辺の藩からコメを買い集めて確保するなどの対策を提言して藩内の餓死者数を抑え、賞賛される。その手腕が認められ、1786(天明6)年に家治が死去すると幕政に参加し、政敵だった老中・田沼意次を失脚させることに成功。翌年6月に老中首座に就き、政権を掌握した。

大名の名簿『武鑑』1791(寛政3)年版の松平定信のページ。日本古典籍データセット / 国文研所蔵
さっそくそれまでの政策にメスを入れ、財政再建と質素倹約、農村復興を柱とした寛政の改革に着手する。改革の骨子の1つに「文武奨励」の推進があったことを思い浮かべる人も多いだろうが、この奨励策は、決して評判が良いとはいえなかった。
「世の中に 蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて 夜も寝られず」(詠み人知らず)
「文武」を蚊の羽音の「ぶんぶ」に置き換え、鍛えろ、勉強しろと、うるさいったらない──定信の政策を皮肉った狂歌である。
さらに書物や草双紙の制作・流通を制限する出版統制も強化し、自由な文化活動を許さなかった。これによって、蔦屋重三郎率いる地本問屋・耕書堂は大きな打撃を受けることになる。
宝暦年間に起きた講談師・馬場文耕の獄門事件
江戸時代の出版統制は、定信の時代より100年以上さかのぼる1673(寛文13)年に公布された法令が最初だといわれている。この年、「公儀(幕府・役所)に関すること」「諸人が迷惑すること」「珍しいことを新たに刊行する」書物を出す場合は、町奉行所に届け出て差図(判断)を仰ぐと定められた。「これ以前も板木屋(版元=出版社)共に仰せ付け候」と一文付加されていたので、非公式な“命令”としてはさらに前からあったと考えられる。
「公儀に関すること」とは幕府の政(まつりごと)や為政者を批判・揶揄・中傷することを指すが、一方の「諸人が迷惑すること」「珍しいこと」は曖昧で、どのようにも解釈できる。そこで法令をさらに細分化して徹底したのが、「越前守」として知られる大岡忠相(おおおか・ただすけ)だった。
忠相は1722(享保7)年、出版規制の方針を周知する触書(ふれがき / 法律などを一般に公布する文書)を作成した。内容は、
- 好色本(遊里などを舞台とした浮世草子)は段階を踏んで絶版
- 家康公と徳川家に関する本は出版禁止
- 他人(大名など)の家系に勝手に手を加えてはならない
- 必ず作者名と版元名を明記
- 版元で株仲間を組織し出版物を相互に検閲(自主規制)
…等々で、以降これが規制の基本となる。

歌舞伎の役者絵に描かれた大岡忠相。『扇音仝大岡政談』(おうぎびょうし おおおかせいだん)東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
こうした規制に抵触したのが、講談師・馬場文耕(ばば・ぶんこう)が1758(宝暦8)年に著した実録本『森の雫』。文耕は、大名の金森氏が治めていた郡上藩(岐阜県郡上市)で勃発した一揆を、講談にまとめて出版していた。一揆はまさに大名の統治の不備や、それを審理して処罰する幕府の役割に関わる問題で、横槍をさす本を出すなどもっての他だった。
文耕は打ち首獄門。厳し過ぎる判決にもみえるが、そもそも文耕は『近世江都著聞集』といった真偽不明の風聞集を出したり、『明君享保録』など徳川吉宗の伝記を恐れ多くも作成したりなど、お騒がせ人物として有名だった。処刑は出る杭を打つ“見せしめ”の意味があったと思われる。
「昔のことのように装った不謹慎」な本
それから半世紀以上を経た1700年代末、規制は次第に緩くなり、吉原などの遊里を舞台とした好色本は大っぴらに流通。御正道と要人を皮肉った草双紙も人気を博していた。
寛政の改革をスタートさせた松平定信は、まず蔦屋重三郎が刊行した草双紙『文武二道万石通』(朋誠堂喜三二著)、『鸚鵡返文武二道』(恋川春町著)の2作を、1789〜90(寛政元〜2)年にかけて発禁に処した。
2作はともに「昔の時代」(架空の鎌倉時代)、時の権力者が武士たちに文武を奨励するが、平和な時代を呑気に生きてきたせいか怠け者ばかりで、とても会得できないというのが共通のストーリーだった。文武を奨励する指導者の装束に、梅の花びらが開いた優雅な「梅鉢紋」があるのも同じ。
この紋こそ白河藩松平家、すなわち定信の紋なのである。何ら効力のない文武奨励をごり押しする定信を強烈にあげつらっていたわけで、絶版処分は定信を揶揄した結果だった。

『鸚鵡返文武二道』。左上の人物の黒い装束に「梅鉢紋」がある。この男のモデルが定信。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
定信は1790(寛政2)年5月、先の大岡忠相の法令をさらに厳格化する町触を発した。
主な骨子をまとめると、
(1)享保年中相触(大岡が発した法令)が、いつのまにか緩んでいる
(2)好色本の新規制作は好ましくない
(3)近年、子ども向けの草紙絵本に、昔のことのように装って不謹慎なことを書くものが増えた
『文武二道万石通』『鸚鵡返文武二道』は(3)に相当していたから真っ先に処罰したと、言わんばかりだった。
その5カ月後、規制はさらに強化された。印刷物を、地本問屋同士で事前に検閲するのを徹底せよと、義務付けたのである。この検閲を行事改(ぎょうじあらため)という。『類集撰要』の10月27日付の項に、その「改」を担う地本問屋20軒が記されており、蔦重も名を連ねていた。

『類集撰要』寛政2年10月27日付、地本問屋20名の連署。赤枠に「蔦屋重三郎」の名が見える。国立国会図書館所蔵
山東京伝も3冊が発禁となり実刑判決
ところが1791(寛政3)年、検閲を受けていたはずの耕書堂の戯作3冊が絶版処分を受ける。いずれも山東京伝作の洒落本だった。
なぜ、検閲を受けたのに摘発されたのか。例えば絶版となったうちの1冊『青楼昼之世界錦之裏』は、浄瑠璃や歌舞伎で知られる「夕霧伊左衛門」を登場人物に仮託した物語で、「表向きは当世の江戸を舞台とした設定ではなかった」(『山東京伝 滑稽洒落第一の作者』佐藤至子)。
つまり吉原など、実在する遊里を題材としていない“架空”の話ゆえに、同業者(地本問屋)の検閲は「まあ、良かろう」と、すり抜けることができたのである。しかし、幕府はそう判断しなかった。どれだけ脚色しても、中身はしょせん吉原を舞台とした好色本ではないか──と。
京伝は鉄製の手錠をかけて自宅謹慎させられる「手鎖(てぐさり)の刑」50日、蔦重は「身上半減」の実刑も課された。蔦重の身上半減とは、財産の半分を没収されたという説と、年収の半分という説があり、どちらかは判然としないが、 罰金を払ったのは確かだろう。

発禁処分を受けた山東京伝著『青楼昼之世界錦之裏』。知られざる遊郭の昼の生活を時間の推移に沿って描いていたことから好色本と見なされた。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
定信は隠居後に絶版を命じた作家たちと交流した?
定信と蔦重は交わることのない“宿敵”だったように見える。文化と権力がせめぎ合う社会の縮図といえよう。
だが定信は、実は蔦重がプロデュースする低俗で皮肉めいた本の愛読者だったという説もあり、未刊ではあるが(書籍として発行されないこと)自ら作品を執筆していたのも確認できる。『大名形気』(だいみょうかたぎ)という戯作は、先祖の武功を鼻にかけた大名の若殿がいっぱしの武芸者を気取り、剣術に劣る家臣に「腹を切れ」などと高飛車に接しているが、本人は灸の熱さにも我慢できない小心者。最後は夢に現れた老人に「分別をわきまえるのが主君の道」と諭される物語だ。黄表紙にもありがちなストーリーで、写本が京都大学図書館に現存する。
『心の草紙』なるタイトルの作品もある。序文に「享和二年(1802)三月 楽翁(定信の雅号)しるす」とあり、人の心の裏表を風刺的に綴った随筆だ。

定信著『心の草紙』。絵を描いたのは狩野派の画家・竹沢養渓。国立国会図書館所蔵
また、国立国会図書館所蔵の絵巻物『近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえことば)』は「松平定信旧蔵品」とされ、定信が老中退任後に制作発案に関わった、もしくは制作を指示したという説も根強い。同絵巻物は3巻からなり、絵はすべて鍬形蕙斎(くわがた・けいさい)の筆による。蕙斎は北尾政美(きたお・まさよし)の名義で、前述の発禁本『鸚鵡返文武二道』の挿絵を描いた人物である。
絵に添える詞(文章)を寄せたのは、上巻・大田南畝、中巻・朋誠堂喜三二、下巻・山東京伝だった。定信が発禁に処した著者が2人、残る大田南畝も蔦重の元で社会を風刺する狂歌を多く詠んだ武士だった。定信は自ら処罰した作家たちを起用し、作品の制作にのぞんだ可能性がある。

『近世職人尽絵詞』中巻、仏の彫刻を彫る仏師。文章は朋誠堂喜三二。出典 : ColBase

『近世職人尽絵詞』下巻、蒲鉾屋(左)と豆腐屋(右)。文章は山東京伝。 出典 : ColBase
定信といえば学問主義者で、融通の効かない石頭という印象を持つ人も少なくない。しかし、このイメージはあくまで公的なもので、文化風俗に理解を示す私的な内面があったのかもしれない。歴史にタラレバは無用だが、仮に蔦重と定信が交流していたら、意外と馬が合ったのではないか──そんなことを思わせる。
【参考図書】
- 『江戸の出版統制』佐藤至子 / 吉川弘文館
- 『山東京伝 滑稽洒落第一の作者』佐藤至子 / ミネルヴァ書房
- 『江戸の町奉行』南和男 / 吉川弘文館
- 『蔦屋重三郎』鈴木俊幸 / 平凡社新書
- 『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』安藤優一郎 / PHP新書
- 『森銑三著作集 第11集「楽翁公の戯作」』森銑三 / 中央公論社
- 『心の双紙 : 松平定信の風刺した人心の裏表』松平定信著、橋本登行訳
バナー写真:松平定信肖像(東京大学史料編纂所所蔵模写)、発禁処分を受けた山東京伝『青楼昼之世界錦之裏』の京伝の署名がある奥付