蔦屋重三郎が頼りにした才人・山東京伝の「頭の中」
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裕福な町人出身の道楽息子
山東京伝は1761(宝暦11)年、江戸深川で生まれた。本名は岩瀬醒(さむる)、通称は伝蔵だった。
父・岩瀬伝左衛門は伊勢(三重県)の出身。江戸に出て深川の質屋の奉公人となり、その後、養子となったが、1773(安永2)年に質屋を離れ、京橋銀座の町屋敷の家主となった。江戸後期の百科事典『守貞漫稿』によれば、家主とは町人の代表として「地主に代わって土地や屋敷を管理し、町内の警護を担う重要な役職」だった。曲亭馬琴が著した山東京伝の伝記『伊波伝毛乃記 / いわでものき』には、岩瀬家は「富むるにあらねども、貧しからずぞ見えし」とあるが、実際には裕福な家庭で、生活は安定していた。

(左)『守貞漫稿 巻4』に描かれた自身番(赤枠)。家主の仕事場で四ツ辻(十字路)に立ち、町屋を管理していた。国立国会図書館所蔵 / (右)『藤岡屋日記』では、家主が火の元に注意せよという触書きを町人たちに読み聞かせている。東京都公文書館所蔵
京伝は、9歳から手習いを始め、長唄や三味線もたしなんだ。1775(安永4)年には絵師の北尾重政に師事し、本格的に浮世絵も学んだ。多くの趣味を持ち、堅苦しい生き方を好まない道楽息子であり、生活のためにあくせく働くなど無縁だった。こうした恵まれた経済環境が、多彩な才能を育むバックボーンでもあった。
実際、京伝には同時代のクリエイターたちとは異なる2つの特徴がある。
- 画工(浮世絵師)と戯作者(小説家)との「二刀流」
- 戯作の執筆は主に武士が担っていたが京伝は町人出身
戯作とは、知識人が「戯れに書いた著作」を指す言葉である。その知識人が幕府の直参である御家人・大田南畝や、地方の藩の江戸藩邸常駐藩士だった朋誠堂喜三二、恋川春町らだった。
それに対して京伝は、10代後半の1778(安永7)年に北尾政演(きたお・まさのぶ)の画号で黄表紙『開帳利益札遊合 / かいちょうりやくのめくりあい』の挿絵を手掛け、絵師としてデビューした。その後も武士たちが著す狂歌集や黄表紙の挿絵を描き、町人の身分でありながら知識層と交流する機会を得て、そこから戯作者としても頭角を現わす異色のキャリアを歩んだ。

京伝の処女作と考えられる『開帳利益札遊合』 国文学研究資料館所蔵
1782(天明2)年、挿絵と戯作の両方を担当した『御存商売物 / ごぞんじのしょうばいもの 』が大田南畝に絶賛される。南畝の黄表紙評判記『岡目八目』には、「作者京伝、かりの名。まことは紅翠斎(北尾重政)門人政演」とあり、当代随一の文士・南畝が京伝と政演が同一人物であることに言及したことによって、「山東京伝」の名が浸透していく。

『御存知商売物』を「大上上吉」、つまり「極上」であると評価した『岡目八目』。国立国会図書館所蔵
なお、山東京伝は「(江戸城の)紅葉“山”の“東”にある“京”橋に住む、通称“伝”蔵」からとったという。
当初、蔦重は京伝をあくまで絵師・北尾政演として見ており、戯作者としては注目していなかったらしい。実際、『御存商売物』を刊行した版元は蔦屋のライバル・鶴屋であり、戯作者としての京伝は鶴屋の“お抱え”だった。
だが、『御存商売物』のヒットに着目した蔦重は自身が経営する耕書堂からも京伝作の黄表紙を刊行し始め、次々と話題作を生み出す。蔦重とタッグを組んで出版した黄表紙から、この才人の「頭の中」をのぞき見ることができる。
自分の分身を投影した『江戸生艶気樺焼』と初めての絶版
1785(天明5)年、蔦重と組んで出した初の黄表紙が『江戸生艶気樺焼 / えどうまれうわきのかばやき』である。
あらすじを簡単に紹介しよう。富豪の商家の跡取り息子・艶二郎(えんじろう)は、小鼻が外側に張り出した平べったい「獅子鼻」で、お世辞にも美男といえない。しかし、うぬぼれが強く、女性からモテたい気持ちは人一倍。そこでカネにあかしてさまざまな策を弄し、世間に浮名を流そうとする。大金をはたいて芸者を雇い、「女房にしてくれないなら死んでやる」と押しかけ女房を演じてほしいと依頼したり、懇意になった吉原の遊女と駆け落ち心中を演じたり──もちろんどれも狂言だ。

『江戸生艶気樺焼』では、艶二郎と吉原の女郎が狂言心中をはかるべく駆け落ちする。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
町人の放蕩息子という設定はまさに京伝そのものであり、「頭の中」にいる分身を主人公とした自伝的な要素をはらんでいた。艶二郎の獅子鼻は「京伝鼻」といわれ、その後の京伝の戯作に欠かせないキャラクターとなった。
一方、1789(寛政元)年に北尾政演(京伝)の名義で挿絵を描いた『黒白水鏡』(こくびゃくみずかがみ)で、初めての絶版(発禁)処分を受ける。この作品の版元は不明。戯作は石部琴好(いしべ・きんこう)という人物が執筆し、その実態は幕府の御用達商人だった。
鎌倉時代という設定だが、実際には田沼意次の息子・意知が佐野政言によって刺殺された事件を題材とし、幕閣の内紛を露骨に風刺していた。それが御用商人によって書かれたことが問題視され、京伝は過料(罰金刑)で済んだが、作者の石部は江戸払い(追放)となった。
奇想天外でエログロな『箱入娘面屋人魚』
過料を科された京伝は、しばらく自粛を考えたようである。しかし、押しも押されもせぬ人気作家を版元が放っておくはずがない。蔦重は京伝の洒落本や黄表紙は、モラルなど無視して自由奔放であるべきと新作の執筆を持ちかけ、1791(寛政3)年、4作を刊行した。
うち1冊が『箱入娘面屋人魚』(はこいりむすめめんやにんぎょう)なるタイトルの黄表紙だ。京伝作、画工は歌川豊国(別の絵師の説もある)である。
『黒白水鏡』で罰金刑を受けた京伝は、もう無茶な戯作の制作に関わりたくなかったと思われるが、蔦重から「いま筆を折られては耕書堂の経営が傾く」と必死の説得を受け、重い腰を上げて執筆した経緯があった。黄表紙は正月に発売される慣例にならい、寛政3年1月に江戸の本屋の店頭に並んだと考えられる。
私たちが最もよく知る蔦重の肖像は『箱入娘面屋人魚』の巻頭を飾るもので、「渋る作者(京伝)をようやく説得して書いてもらった戯作ですから、どうぞ皆さま、お買い上げください」と、「まじめなる口上」を述べている。

『箱入娘面屋人魚』の「まじめなる口上」(左)と、人魚を吉原に売り飛ばす準備を進める漁師(右)。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『箱入娘面屋人魚』は奇想天外な作品だった。亀を助けて竜宮城へ招待された浦島太郎。乙姫と仲睦まじく暮らしていたはずが、美人の鯉と浮気に走り、ついに妊娠させてしまう。生まれてきたのは人面魚体の怪しい生き物、つまり人魚だった。乙姫にばれたらエライことになると考えた浦島太郎は、人魚を捨ててしまう。
拾ったのが漁師の平次。家に連れ帰って同居を始めたが、貧しい平次は人魚を遊郭に売り飛ばす計画を立て、実行する。ところが魚臭いため客がつかず、女郎屋は人魚を平次の家に帰す。さて、どうする?──というストーリー。
あまりにグロテスクで、現代の目で見れば発禁になっておかしくない内容だろう。しかも1回目の発禁処分の後にこんな奇天烈な黄表紙を刊行するのだから、奇才の面目躍如と言って良い。
草双紙の執筆は「かたわらの慰み」
ところが寛政3年に出した他の3作は揃って摘発されて絶版となり、世間を騒然とさせた。それが『仕懸文庫 / しかけぶんこ』、『娼妓絹籭 / しょうぎきぬぶるい』、『青楼昼之世界錦之裏 / せいろうひるのせかいにしきのうら』の3冊である。
遊里を舞台とした好色本であることが問題視され、京伝は鉄製の手錠をかけて自宅謹慎する「手鎖(てぐさり)の刑50日」、蔦重は「身上(財産)半減」の刑を受けた。「山東京伝の筆禍事件(ひっか/幕府のタブーに触れ処罰されること)」と呼ばれる出来事である
この3作で京伝の頭の中を満たしていたのは怖い物知らずの勢いと、“うがち”と呼ばれた滑稽性と意外性を強調する表現手法だった。どうも京伝と蔦重が組むと、途端に羽目を外してしまう。
2度目の摘発にはさすがに懲りたのか、1793(寛政5)年になると銀座に煙管(きせる)などの喫煙用小物販売店を開業し、商人としての生き方を模索し始めた。弟子入りを願ってきた曲亭馬琴に、「草双紙の作は世を渡る家業ありて、かたわらの慰みにすべし」と語ったという。戯作は「家業(本業)」を持ったうえで「副業」で良いというわけだ。

京伝が銀座に開業した煙草小道具の店。右奥に煙管を手に持った京伝がいる。出典:ColBase
だが、すでに京伝は「副業」で済む作家ではなかった。名声を得て潤筆料(じゅんぴつりょう/原稿料)を受け取る立場にあった。今では考えられないが、江戸時代は版元(出版社)が作家に原稿料を支払う概念がなかった。朋誠堂喜三二や恋川春町は武士であるゆえ禄(給料)をもらっているため作家として報酬を得ることはなく、町人出身の京伝にカネを払う慣習もなかったのである。だからこそ「かたわらの慰み」で良いと割り切っていた。
それが原稿料を受け取る職業作家となると、好き放題に書けば良いというものでもなくなってくる。佐藤至子(近世文学研究者)は「京伝にとって楽しいものではなかったと思われる」と述べている(『山東京伝 滑稽洒落第一の作者』ミネルヴァ書房)。
その結果、奔放で笑いを誘う筆力は影を潜め、読本(中国の小説の改作や仏教説話)や、合巻(ごうかん/ 複数の巻を綴じて制作した長編小説)へと作風が変わっていった。
蔦重が世を去ったのは、それから約4年後の1797(寛政9)年である。
京伝と蔦重の交わりは江戸の出版文化を彩ったが、2人の自由闊達(かったつ)さは時に為政者の怒りを買い、後年には毒気を失った。若さゆえの自由な創意が時の経過とともに大人の作風へと移る、その変化を刻んでいるかに見える。
【参考図書】
- 『山東京伝 滑稽洒落第一の作者』佐藤至子 /ミネルヴァ書房
- 『山東京伝の黄表紙を読む』棚橋正博 / ぺりかん社
バナー画像:『箱入娘面屋人魚』の漁師が人魚を海で拾う場面(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)に、山東京伝肖像(ColBase)を組み合わせた