蔦重の下から巣立った江戸後期3巨匠 : 挿絵画家からスタートした北斎、耕書堂に居候した曲亭馬琴、十返舎一九
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[葛飾北斎]勝川春朗の時代に黄表紙の挿絵を数多く手がける
蔦重が北斎を絵師として初めて起用したのは、1791(寛政3)年。吉原遊郭で開催される即興芝居「俄(にわか)」を題材にした、浮世絵のシリーズ作品『仁和嘉狂言(にわかきょうげん)』の絵師・勝川春朗(かつかわ・しゅんろう)こそ、後の葛飾北斎である。
1792(寛政4)年になると、耕書堂から出た山東京伝や曲亭馬琴の黄表紙の挿絵にも「春朗」の署名が見られるようになる。

(左)勝川春朗の落款。浮世絵『三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん』より。出典:ColBase(右)北斎画・京伝作の『昔昔桃太郎発端話説』国文学研究資料館所蔵
山東京伝作の1冊が『昔昔桃太郎発端話説』で、桃太郎の前世が実は舌切り雀で、老人から受けた恩を忘れずに桃太郎に転生するというストーリーだった。春朗の挿絵によって、物語がより劇的に語りかけてくる。
だが、耕書堂ではその後、浮世絵師として目立った活躍はなく、黄表紙に署名が見られる程度である。その理由は、蔦重が1792(寛政4)年から喜多川歌麿の美人画、1794(寛政6)年に東洲斎写楽の役者絵に注力するようになったからだ。蔦重にとっては、春朗は2人よりも優先順位が低かったということだろう。またこの時期、春朗は所属していた“勝川派”と関係が悪化し、浮世絵の制作自体から遠ざかっていた。
蔦重が死去するのが1797(寛政9)年5月。同じ年に耕書堂から出た絵本『柳の絲(やなぎのいと)』に所収された「江島春望(えのしましゅんぼう)」が、おそらく蔦重と組んだ最後の作品と考えられる。
このときは「北斎宗理(ほくさいそうり)」の画号を用いている。のちの代表作『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』に描かれる“波”のルーツを、この画に求めるファンもいる。

初代・蔦重の元での最後の仕事『江島春望』出典:ColBase

『画本東都遊』の巻末を飾る耕書堂の店頭を描いた絵。国立国会図書館所蔵
蔦重の死後、耕書堂の番頭だった勇助が「二代目蔦屋重三郎」を名乗ると、北斎は蔦屋を支えるエース格の絵師となり、『画本東都遊』(1799 / 寛政11年)、『東都名所一覧』(1800 / 寛政12年)などを矢継ぎ早に刊行した。
『画本東都遊』に掲載された絵草紙店(書店)は、耕書堂の店頭を描いたものとして有名である。
[曲亭馬琴]耕書堂の使用人から江戸を代表する作家へ
曲亭馬琴の処女作は25歳の時、黄表紙の『廿日余四拾両 盡用而二分狂言(はつかあまりにしじゅうりょう つかいはたしてにぶきょうげん)』。1791(寛政3)年刊、版元は和泉屋市兵衛で、蔦重ではない。著者は「京傳門人/大栄山人(だいえいさんじん/馬琴の別名)」と記されている。
馬琴は大身旗本の家に仕える用人の子として武家屋敷に生まれたが、奔放で横柄な性格の変わり者だったため武士がつとまらなかった。半面、儒学や俳句を好む文化的な資質に恵まれていたため、戯作者を志す。そこで人気作家・山東京伝に弟子入りを願った。京伝は入門を拒んだが、戯作者同士親しく交流しようと持ちかけたという。
処女作で「京傳門人」となっているのは、おそらくこのエピソードを知っていた版元がどこの誰かもわからない新人作家より、「山東京伝の弟子」とする方が売れると判断したからだろう。
蔦重との関係は処女作の翌年の1792(寛政4)年、耕書堂の手代(使用人)として住み込みで働くようになってから本格化する。これには京伝の口利きがあったと考えていい。
蔦重も単なる使用人ではなく、最初から作家として起用しようと、もくろんでいたようだ。耕書堂からの第1作は、『花道虱道行(はなはるしらみのみちゆき)』(1792年)だったという。挿絵が勝川春朗(北斎)で、北斎と馬琴がタッグを組んだ初めての作品である。ただし、『花道虱道行』は山東京山(京伝の弟)が著した随筆集『蛛の糸巻』に「類焼の時失せぬ」、つまり火災で焼失してしまい、実際には未確認で、内容も定かでないと記されている。
また同年、山東京伝著・勝川春朗画で刊行した『実語教幼稚講釈(じつごきょうおさなこうしゃく)』は庶民教育用の教訓本だが、馬琴はのちに『近世物之本江戸作者部類』で「本当は自分が代筆した」と語っている。ただし、この発言の裏づけはなく、『江戸作者部類』自体に誤伝も多いことから真相ははっきりしない。
馬琴&春朗のコンビ作で確認できる最も古いものは、『福壽海旡量品玉(ふくじゅかいむりょうのしなだま)』(1794 / 寛政6年)で、これも蔦重のプロデュースだった。人は見る者によって菩薩(ぼさつ)にも閻魔(えんま)大王にも姿を変えるという仏教説話をテーマとした本で、“笑い”より“教え”に主眼を置いている。黄表紙が相次いで発禁処分となった後だけに、時代が求める本の作風が変わったことを印象づける。

『福壽海旡量品玉』の表紙(左)と菩薩の絵(右)。国立国会図書館所蔵
大正期に編さんされた『名人奇人珍談逸話』によれば、蔦重の縁者である吉原茶屋の娘が馬琴に恋してしまい、婿にならないかと持ちかけるほどの色男だったが、この話を辞退し、飯田町(現在の千代田区九段下の辺り)にあった履物屋の未亡人の入婿になったという。
馬琴作の黄表紙『曲亭一風京傳張』には馬琴(左)の家を山東京伝(右)が訪ねてきて会話を交わす場面が描かれている。左上の額縁に「著作堂」とあり、これは馬琴の家の書斎のこと。ということは、茶を出そうとしている女性が、未亡人から馬琴の妻となった「お百」だろうか。

『曲亭一風京傳張』に登場する馬琴(左)と京伝(右)。国立国会図書館所蔵
[十返舎一九]文と絵の二刀流 “ポスト山東京伝”
“弥次さん喜多さん”でおなじみの『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九の本名は重田貞一。もともとは駿河国(静岡県)の武士で(出生については別の説もある)、江戸に出ると駿府町奉行の経験を持つ旗本・小田切直年に仕え、小田切が大坂町奉行に就くと一緒に上方に赴任したという説も残っている。
しかし文・絵の才能に恵まれていたことから創作に専念したいと考え、1794(寛政6)年に江戸に戻り、ちょうど馬琴と入れ替わるように耕書堂に転がり込んで居候した。蔦重の下では本に使用する紙の加工や、挿絵の制作を手伝ったという。
処女作は山東京伝著の滑稽本『初役金烏帽子魚(はつやくこがねのえぼしうお)』に寄せた挿絵だった。一九の絵の師匠は不明だが、素朴で独特の親しみやすさがあり、その味わいを蔦重は愛したのかもしれない。

一九の絵師としてデビュー作『初役金烏帽子魚』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

『心学時計草』で、一九は戯作者の仲間入りを果たした。国立国会図書館所蔵
続いて1795(寛政7)年、『心学時計草』の作・画の両方を手がけ、戯作者としてもデビューする。売れっ子の花魁(おいらん)が複数の客を相手にする手際の良さと、それに不満の客とのやり取りをテーマとした作品で、庶民的なユーモアが楽しい。
一九は、“ポスト山東京伝”と呼ぶにふさわしい、戯作と絵の双方をこなす器用さを持ち合わせていたが、30歳を超えてもほんど無名の存在だった。世間が才能を認めるには、1802(享和2)年の『東海道中膝栗毛』まで待たねばならなかった。
アイデア豊富な絵画の鬼才・北斎
希有なストーリーテラー・馬琴
庶民的なユーモアを持った一九
三者三様の個性は、倹約重視で堅苦しかった寛政の改革が終わった後の江戸文化を、鮮やかに彩っていく。蔦重は自らが生きた時代と、3人が花を咲かせる時代との橋渡しを担ったといっていいだろう。
【参考図書】
- 『「蔦重版の世界」江戸庶民は何に熱狂したか』鈴木俊幸 / NHK出版新書
- 『蔦屋重三郎 江戸のメディア王と世を変えたはみだし者たち』山村竜也監修 / 宝島社新書
- 『別冊太陽 蔦屋重三郎』鈴木俊幸監修 / 平凡社
- 『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』/ 大田記念美術館
- 『名人奇人珍談逸話』好日庵主人編 / 一誠社
- 『世界大衆文学全集 第68巻』/ 改造社
バナー写真:(左)葛飾北斎『戯作者考補遺』(中)曲亭馬琴『南総里見八犬伝 9輯98巻』(右)十返舎一九『肖像2之巻』/いずれも国立国会図書館所蔵