私たちは謎の絵師・写楽の正体にどこまで近づいているのか
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蔦重が躍起になって売り出すも個性が強すぎて失敗
写楽は蔦屋重三郎に発掘され、1794(寛政6)年5月から翌年正月にかけ、主に役者絵を中心に約140点の絵画を残して姿を消した。
デビュー当初は歌舞伎役者の胸から上を描いた「大首絵」を特徴とした絵師だったが、その後は全身や、複数の役者を同時に描くなど作風が変化。点数は少ないが相撲の力士絵や武者絵も手がけた。制作・発売はすべて蔦重率いる地本問屋・耕書堂で、他の版元は一切関わっていない。

(左)バナー写真の女形に役者をもう1人描いてアレンジした『三代目沢村宗十郎の名護屋山三と三代目瀬川菊之丞の傾城』 / (右)キャリアの後半に登場した相撲絵『大童山文五郎の碁盤上げ』2点ともColBase
写楽の絵は、売れなかったという。「歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあからさまにかきなせし故」、つまりリアルに描こうとし過ぎたのが理由だったと、同時代の知識人・大田南畝が編纂した『浮世絵類考』(浮世絵師の名鑑)は記している。

『浮世絵類考集』の写本。写楽の項に「あまり真を画かんとてあからさまにかきなせし故(中略)一両年にて止む」と記されている。国立国会図書館所蔵
例えば歌舞伎の女形が白塗りの化粧をしたところで、男性らしさは完全には拭えない。それを写楽はそのまま描き出したため、見方によっては醜くも映った。その結果「長く世に行はれず一両年にて止む」(『浮世絵類考』)──すなわち世間に浸透せず、写楽シリーズは1年もたずに終了したわけである。
デビュー直後の大首絵は10枚以上が現存しているのに対し、以降の作品は1枚のみしか残っていないケースが多い(美術評論家・瀬木慎一調べ)。このことが物語るのは、最初は物珍しさから興味を持たれたので刷った枚数も現存数も多いが、次第に人気がなくなり増刷を控えたため、残存する数が少ないと考えられるのである。
写楽の売り出しは失敗に終わり、蔦重は精神的に、耕書堂は経済的に打撃を被った。蔦重が世を去るのは、このわずか2年後の1797(寛政9)年5月31日である。出版人として栄華を築いた風雲児が晩年に味わった屈辱だったのではないだろうか。
ただし、これだけなら、キャリアの終盤を迎えた出版人が、売れない絵師に夢中になっただけで済んだはずだった。
正体は誰か? 仮説は20人以上に及ぶ
運命の悪戯(いたずら)か、ドイツの市井の絵画研究者・著述家ユリウス・クルトが、1910(明治43)年に評伝『Sharaku』を著すと、日本のみならず世界的に注目を集めるようになる。
クルトの著書に記述があるわけではないのだが、いつの頃からか、レンブラント、ベラスケスと並ぶ「世界三大肖像画家」と紹介されるようになり、国際オークションで高値がつくようになった。
同時に正体不明の画家という神秘性が加わり、いったい写楽は何者なのかと“身元調べ”が盛んに行われ、今もさまざまな人物が“中の人”として話題になる。
『写楽 江戸人としての実像』(中野三敏/中公新書)に、写楽の正体諸説の一覧があり、円山応挙・谷文晁・酒井抱一・鳥居清政・葛飾北斎・喜多川歌磨・歌川豊国ら、同時代を代表する画家の名がずらりと並ぶ。山東京伝・十返舎一九の戯作者兼絵師、版元の蔦屋重三郎こそが写楽と推理する説もあり、その数は20人を超える。
提唱者は浮世絵研究者に限らない。漫画家の横山隆一、作家の松本清張・高橋克彦、哲学者の梅原猛の名も見え、誰もが自由に新説を唱えていた。
「蔦屋工房説」を検証すると…
現在にわかに注目されているのが、「蔦屋工房説」だ。蔦重をはじめとした当時のクリエーターたちの共同作業、要は「合作」が写楽だったというもので、45年前に出版された『江戸の本屋 下』(中公新書/1980・昭和55年)で、著者の鈴木敏夫が提唱。その説がテレビドラマで取り上げられたことによって、再び注目されているのである。
鈴木は工房に参加したのは「北斎・歌磨・(式亭)三馬あたりで、蔦重自身もクサい(中略)顧問は蜀山人(大田南畝)であろう」と分析。鈴木単独で推理したのではなく、すでに何人かの浮世絵研究家などが説いていた「写楽=蔦重説」を発展させたのが工房説だとした。

1794(寛政6)年7〜8月に販売された『篠塚浦右衛門の都座口上図』。役者をモデルとしていない、写楽にしては珍しい作品。鈴木敏夫はこの絵は「写楽独特の芋虫のような指」と違い、描き方が歌磨に似ていると指摘している。出典 : ColBase
自説を補足するため、写楽の活動期間がわずか10カ月だったことを挙げている。その短い期間に140点を超える作品を創作し、かつ作風を変化させるなど、たった1人の絵師が完遂できる仕事ではない。速筆で知られる北斎と歌磨がいたことによって初めて可能だったという。
さらに写楽の画号は、ダジャレを好んだ狂歌師の南畝が「洒落(しゃら)くさい」をもじったとも…。「写楽の身元詮議など、しゃらくせぇことはご無用」(鈴木)から来たのではないかと、「珍説すぎようか」(同)と謙遜しつつ力説している。
そして、蔦重は写楽の正体について関係者に箝口令をしいた──。「物語」としては成立しているが、状況証拠を並べただけの説という印象は拭えない。
能楽師「斎藤十郎兵衛」を追う
では正体は誰かというと、四国徳島藩のお抱え能役者だった斎藤十郎兵衛が有力といって良い。すでに19世紀前半、前述の『浮世絵類考』が書写によって何度も改訂を重ねる過程で以下の補記を追加し[( )は補記者]、八丁堀に住んでいた斎藤十郎兵衛こそが写楽と言及している。
- 1821(文政4)年 「写楽号東洲斎、江戸八丁堀に住す、半年余行ハルルノミ」(式亭三馬/しきてい・さんば、作家・浮世絵師)
写楽は八丁堀に住んでいたが、絵師としての活動は半年余り行っただけ。 - 1844(天保15)年 「(写楽は)天明寛政年中の人。俗称斎藤十郎兵衛。居、江戸八丁堀に住す、阿波候の能役者也」(斎藤月岑/さいとう・げっしん、考証家・著述家)
「阿波候」とは四国徳島藩主・蜂須賀家を指す。 - 年時および補記者不明 「写楽は阿州候の士にて斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり」
浮世絵師の「栄松斎長喜(えいしょうさい・ちょうき)」は蔦重と親しい関係にあり、写楽の正体を知っていても不思議ではない。

『浮世絵類考』に赤字で追記した「写楽は阿州候の士にて斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり」の箇所。国立公文書館所蔵
ところが、『浮世絵類考』のこれらの記載は、少なくとも昭和初期までは信用に値しないと見る人も少なくなかった。その理由は、
- 斎藤十郎兵衛が実在した人物なのか確認できない
- 実在したところで、能楽師がなぜ浮世絵を描いたのか説明できない
- 『浮世絵類考』の改訂は写楽が姿を消した27〜50年後であり、一次史料といいかねる
…などで、信頼できないゆえ、さまざまな説が雨後のタケノコのように出現するのである。だが、蜂須賀家が残した分限帳(家臣の名前や役職を記した書類)などに斉藤十郎兵衛の名があったことから、次第に実在の人物だったと判明していく。十郎兵衛は役者でありながら士分(武士の身分)であり、蜂須賀家から給金も得ていた。
新たな文献史料も登場した。前述の中野三敏が1976(昭和51)年、『江戸方角分』(江戸の文人の住まいを地域別にまとめた人名録)が「八丁堀地蔵橋」の付近に、「寫樂齊」の画号を持つ浮世絵師がいたことを記していると発表。

『江戸方角分』の「(八丁堀)地蔵橋」の章に「号寫樂齊」とある。国立国会図書館所蔵
中野はまた、『八丁堀明細図』(1795/寛政7年版)という地図に、「斎藤与右衛門」なる能楽師が住んでいたことも発見した。
後に浮世絵研究家の内田千鶴子が、与右衛門は幕府公式の能楽師名簿などによると、1791(寛政3)年誕生で、1761(宝暦11)年生まれの十郎兵衛の息子であること、斎藤家が代々、十郎兵衛と与右衛門を交代で名乗った能楽師の一族だったことを解き明かしている。
こうして、能楽師・斎藤十郎兵衛が八丁堀に実在し、写楽が活動していた頃は30代前半の働き盛りの年齢であったことが、はっきりしたのである。残された文献をもとに実証していくのが歴史の基本とすれば、実在が確認された斉藤十郎兵衛説が現時点では最有力といえる。
しかし、それでもなお、なぜ役者が浮世絵を描いたのかという疑問は解決されておらず、200年たっても正体は謎──それが写楽だ。
正体が不明ゆえに時代を超えて語り継がれる、それが写楽の魅力なのかもしれない。
【参考図書】
- 『江戸の本屋 下』鈴木敏夫 / 中公新書
- 『写楽 江戸人としての実像』中野三敏 / 中公新書
- 『〈東洲斎写楽〉考証』中嶋修 / 彩流社
- 歴史群像ライブラリー2『決定版 写楽』 / 学研
- 『特別展写楽図録』 / 東京国立博物館、他
バナー写真:(左)「東洲斎写楽」の落款(らっかん)/ (右)代表的な大首絵の1作『二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木』2点ともColBase