蔦屋重三郎とはビジネスセンスに長(た)けた「ブランディング」の天才だった
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「巧思妙算」──思考が巧みで計算高い
東浅草の正法寺(東京都台東区)には、蔦屋重三郎とその母の顕彰碑がある。もともとは蔦重と母親の墓がふたつ並び、それぞれ墓碑があったようだが、関東大震災や東京大空襲などによって焼失してしまい、正法寺の先代住職によって再建されたという。
現在の顕彰碑に刻まれている碑文は、石川雅望(いしかわ・まさもち)が蔦重の、大田南畝(おおた・なんぽ)が母親の墓碑に寄せた撰文をひとつの碑にまとめて刻んだものだ。雅望と南畝はともに狂歌師で、雅望が狂歌名・宿屋飯盛(やどや・めしもり)を号し、南畝が四方赤良(よもの・あから)を名乗った。天明期(1781〜1789)の江戸を代表する文士であり、蔦重が狂歌本を制作する際のブレーンであった。
注目したいのは、雅望が寄せた「巧思妙算」という文言だ。「巧思」とは巧みな考え、「妙算」は謀りごとに優れて計算高いとでも訳せば良いだろうか。
大田南畝も、「吉原に行って破産する者は多いが、吉原から起業して大商人となったのは蔦屋の他に聞いたことがない」と、蔦重の商売人としての成功を称賛している。
蔦重が制作した本は寛政の改革の柱のひとつに掲げられた出版統制の煽りを受け、数冊が絶版(発禁)処分を受けている。それでも負けじと本や浮世絵の発売を続けたことから、政治体制に批判的な「反権力」の象徴にように描かれることも多い。
だが、蔦重と同時代を生きた文化人たちの目には反体制的な人物と映っていなかった。「巧思妙算」つまり風を読むのに長け、計算高く、巧妙な、優れたビジネスマンと評価されていたとわかる。
思いつきではなく緻密な計算
蔦重は吉原遊郭の生まれで、そもそもは遊女たちが空き時間に読む本を貸し出す小さな「貸本屋」を営んでいた。それが吉原に詳しく情報収集力に長けていた点を買われ、ガイドブックである『吉原細見』の改(あらため/改訂版の編集担当者)を任されるようになる。
その最初が『細見嗚呼御江戸』で、平賀源内が「福内鬼外 (ふくちきがい)」のペンネームで序文を寄せた。1774(安永3)年頃のことだ。この時期、吉原大門の前に書店・耕書堂もオープンしている。

福内鬼外(平賀源内)が序文を書いた『細見嗚呼御江戸』国文学研究資料館所蔵
吉原出身の蔦重が細見を編集するのは、遊郭の関係者たちにとって大きなメリットがあった。内部の人間が「宣伝・広報活動」を担ってくれるようなものだからだ。吉原で今、どんな遊女が人気かなどの情報を発信するのに、蔦重ほど適材はいなかったといえよう。
しかも蔦重は細見の改を皮切りに、次々と新規事業を開拓していく。例えば人気絵師の礒田湖龍斎(いそだこりゅうさい)を起用した『雛形若菜初模様』(ひながたわかなはつもよう)は、吉原遊女に最新の着物を着せて描いた大判の美人画で、一般の女性にとっては流行を知る手がかりとなり、購買欲を刺激したのである。
こうした、従来にはなかった仕掛けを導入したビジネスセンスこそが蔦重の真骨頂だった。決して思いつきではなく、『雛形若菜初模様』でいうなら誰に(一般女性)に、何を(新作着物)訴えかけていくか、明確に計画していたといえよう。
著名人を起用してブランディング
人脈を作るのに長けていた点も見逃せない。『雛形若菜初模様』の礒田湖龍斎もそうだし、のちに戯作者の朋誠堂喜三二・恋川春町・山東京伝、狂歌師の大田南畝・宿屋飯盛・唐来三和(とうらい・さんな)ら、人気文士たちと次々と懇意になっていくのも、そうだった。おそらく人とのコミュニケーションにかけては抜群の力を有していたと思われる。
著名人たちの作品を制作・販売する場合、本の「序」(巻頭)や奥付(巻末)に、「富士山形に蔦の葉」の耕書堂屋号紋や版元の署名が入る。こうした広告は今では当たり前だが、戦略的に展開したのは蔦重が初めてであった。いわば、「蔦屋重三郎」の名前のブランディングといえる。

(右)黄表紙の巻頭にある蔦屋の屋号紋「富士山形に蔦の葉」(左)巻末には蔦屋重三郎の名前と日本橋の住所。これらがブランディングに役立った。2点とも国立国会図書館所蔵
当時、蔦屋のブランドは「通」の象徴でもあった。
「通」とは最先端の「洒落」に通じる意味で、蔦屋の本を読むことは江戸っ子にとってイケていたのである。昭和の時代に女子大生が『anan』、若い男性が『Hot-Dog PRESS』を持ち歩くのが最先端の象徴として時代を映していたが、その先駆けとなったのが、蔦重プロデュースの本だったと考えれば良い。
実は販路の新規開拓にも熱心だった
どんなブームにも終わりが訪れる。ヒットメーカーも一世を風靡したのちに消えていくケースは多い。
しかし、蔦重は約四半世紀にわたってトップランナーであり続けた。むろんその間には紆余曲折もあり、絶版事件では身上半減(財産半分没収)の処分を受け、経営的に厳しい時期もあったろうが、そのたびに何らかの策を講じた。あきらめるということを知らない。
例えば、寛政の改革によって江戸の出版界が大打撃を受けると、時代が「学問奨励」に熱心なのを逆手にとり、それまでの狂歌本や黄表紙とは一線を画すお堅い書物のジャンルにも参入しようとした。
現代でも辞書・学術・研究書と、一般向けの小説・漫画・雑誌等を発行する出版社はすみ分けがあるように、江戸時代も学術系は「書物問屋」、娯楽書は「地本問屋」が制作・販売していた。地本問屋の蔦重が書物問屋になるには、「株仲間」と呼ばれるカルテルに加入しなければならず、新規参入を阻む壁となっていた。
だが、詳細は不明だが何らかの人脈を使ったのか、ちゃっかり株を取得している。その結果、江戸の外の名古屋などにも販路が開き、高価な学術書と一緒に黄表紙などの江戸地本を出荷している。販売ルートの新規開拓である。
蔦重の死後、この販売ルートは他の版元たちがさらに発展させ、大坂までの流通網ができた。これに乗ってヒットしたのが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』だ。一九は晩年の蔦重の元で修行して作家になった人物だが、蔦重亡き後も恩恵を受けていたことになる。
蔦重の「風を読む力」は、次の時代への道も切り拓いていた。

『東海道中膝栗毛』は「東都(江戸)」から大坂に出荷された。国立国会図書館所蔵
江戸時代を代表する立身出世
日本文学研究者・書誌学者の鈴木俊幸は、こう語る。
当時の江戸人の多くは、彼(蔦重)の戦略にうまうまと乗せられて、蔦重版(の本や浮世絵)を嬉しがって手に取っていた。彼の残した出版物によって、この時代の文化を捉えようとしているわれわれも、同じ術中にはまって当時を幻視している(『「蔦重版」の世界』NHK新書)
蔦重が世に問うた本は、いまも斬新だ。例えば山東京伝作『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)は大学受験の参考書に登場するほどで、文学史において重要な1作となっている。裕福な商家の御曹司が堕落していく滑稽な内容だが、これが現代の高校生たちにどのように映っているか──ばかげたお笑いと映っているか、教訓と捉えているか、興味深い。
実際のところ、ブランディングによって蔦重がどれほどの利益を得ていたかは、データが皆無なので推測する他ない。ただし、大田南畝が墓碑に寄せた「大商人となった」を文字通りに受け取れば、当時にあって商業的な成功者と見られていたことは疑いない。
社会の下層に属する吉原から、大店(おおだな)が軒を連ねる日本橋に出店したのは蔦重しかいない。そうした意味でいえば、江戸時代に立身出世を遂げた町人の代表格、それが蔦屋重三郎の実像と言えるのではないだろうか。
【参考図書】
- 『[新版]蔦屋重三郎』鈴木俊幸 / 平凡社ライブラリー
- 『蔦屋重三郎』鈴木俊幸 / 平凡社新書
- 『「蔦重版」の世界』鈴木俊幸 / NHK新書
バナー画像 : (左)山東京伝作『箱入娘面屋人魚』の巻頭を飾る蔦重の肖像画(右)蔦重死後の耕書堂を描いた『狂歌東遊』から。「富士山形に蔦の葉」の屋号紋が見える。絵は葛飾北斎。2点とも国立国会図書館所蔵

