iPSの現在地

AIと人間の協業でiPSの社会実装を目指す : 膨大なデータを基に個別化医療や創薬に取り組む

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病気になる前に防ぎ、たとえ健康を損なっても生活の質を保つ医療へ──。AIとiPS細胞という2つの先端技術が、医療のあり方そのものを変えようとしている。AIやデータ解析を用いた医療研究の最前線に立つ千葉大学の川上英良教授に、技術の現在地と未来像、そして今後人が果たすべき役割について聞いた。

川上 英良 KAWAKAMI Eiryo

千葉大学大学院国際高等研究基幹および医学研究院教授。東京大学大学院医学系研究科修了。東京大学医科学研究所、理化学研究所などを経て現職。理化学研究所「予測医学特別プロジェクト」チームディレクター。大規模な臨床情報や検体データと、最先端のAI・データサイエンス技術を組み合わせ、疾患の層別化や発症・予後予測に関する研究を行っている。

AI×iPS細胞が“ピンピンコロリ”を現実に?

病気に苦しむことなく、誰もが健康な状態のまま寿命を迎えられる——そんな未来が、少しずつ近づいてきている。もしそれが実現すれば、私たちの健康管理のあり方は大きく変わるだろう。

例えば、スマートウオッチなどのウェアラブル端末で心拍数や活動量、睡眠などのデータを常時記録し、AIで解析することで、将来起こり得る体の変化や健康リスクを予測し、症状が現れる前に生活習慣の見直しや医療的対応を講じることで、健康な状態を維持しやすくなる。一方で、予防や管理だけでは避けられない病気やけがもある。その「最後の砦」として期待されているのが、iPS細胞(人工多能性幹細胞)を使った再生医療だ。

iPS細胞は、皮膚や血液などの体の細胞に少数の遺伝子を加えて初期化し、さまざまな細胞へと変化できる状態へと戻した細胞である。2006年に京都大学の山中伸弥教授がマウスのiPS細胞の作製に成功してから20年目となる。iPS技術を活用して病気やけがで失われた体の機能を回復させる医療の実用化に向けて世界中の研究者や製薬メーカーがしのぎをけずっている。

川上教授は得意な数学を活かし、AIや機械学習なども含めた数理科学的な手法による医学研究に取り組んできた。同じ診断を受けても、ある薬が効く人と効かない人がいる。また、早期がんと診断された患者が数年で再発する一方で、末期がんと診断された人が何年も再発せずに生き延びる例もあり、こうした個人差を医師の経験的な判断にのみ頼るのではなく、データに基づいて分類し適切な治療を提供するための知見を構築しようという発想だ。

理化学研究所では、AIやメディカルサイエンスを活用し病気を未然に防ぐ医療の実現を目指す「予測医学特別プロジェクト」でチームディレクターを務めるなど、研究の最前線に立っている。

「“ピンピンコロリ”──元気に長生きし、最期は大きな苦しみなく人生を終える。そうした生き方を支える医療は、十分に実現可能だと考えています。5年や10年といった短期間では難しいですが、2050年ごろまでに、現実のものとして見えてくるといいですね」

AI×iPS細胞の現在地

では、AIを活用したiPS細胞医療の研究は、いまどこまで進んでいるのだろうか。

生命科学分野のAI開発を手がけるエピストラ(東京都品川区)をはじめとする研究グループは2022年6月、iPS細胞など再生医療に用いる細胞の培養条件を、AIによって膨大な組み合わせの中から自動的に探し出す「最適化」システム開発に成功したと発表した。

これまでは細胞培養は、熟練した研究者の経験や勘に頼る部分が大きく、効率よく質の高い細胞を安定して作ることが難しいという課題があった。そこでこの研究では、実験用ロボット「まほろ」と、AI解析ソフトウェア「Epistra Accelerate」を導入。温度や栄養の与え方などの条件をAIが選び出し、ロボットがその指示通りに細胞を培養する。そして得られた結果を解析し、次に試すべき条件を決定する──このサイクルを繰り返すことで、以前よりはるかに少ない実験回数で、質の高い細胞を効率よく得られるようになったという。

iPS細胞を培養するロボット「まほろ」(神戸市中央区の理化学研究所)
iPS細胞を培養するロボット「まほろ」(神戸市中央区の理化学研究所)

「生命科学の分野では近年、AIの中核技術である『最適化技術』が重要な役割を果たすようになってきました。iPS細胞作製に必要な『山中ファクター(4つの因子)』もかつて、膨大な候補の中から実験によって見つけ出されたものです。これはiPS細胞作製の例ですが、同じような“条件探索の難しさ”は再生医療に用いる細胞の培養でも起きています。再生医療に使う細胞は、遺伝子やタンパク質など、どの因子をどの順番でどれくらい与えるかによって性質が大きく変わります。多くの時間と手間が必要だった条件探索が、AIを活用した最適化技術により、効率よく導き出せるようになったのです」

再生医療では、患者に移植する細胞を安定して大量に、しかも高品質で作ることが欠かせない。AIとロボットを組み合わせたこのシステムは、作業のばらつきを抑え、時間やコストの削減にもつながると期待されており、iPS細胞由来の再生医療の社会実装を後押しする技術として注目されている。

千葉大学治療学人工知能(AI)研究センター
千葉大学治療学人工知能(AI)研究センター

「ロボットの活用は以前から考えていました。15年ほど前、インフルエンザウイルスの増殖に関する研究で、微量の液体を扱うための使い捨てチップを1日100箱消費するほどの大量の実験を繰り返していて、『これは人間がやる作業ではない』と強く感じました。人の手では長時間まったく同じ条件を保つのは難しく、細胞を扱う繊細な操作はなおさらです。その点、ロボットなら同じ動きを正確に繰り返せる。実験にロボットを取り入れることは、AI技術同様、iPS細胞医療にとって非常に有効だと考えています」

こうした技術が、iPS細胞医療を「職人技」から「再現可能な技術」へと変えつつあるのだ。

患者に合う治療法を見出す「個別化医療」の進展

主にiPS細胞などから作られる「オルガノイド」の研究も、近年大きく進展している。オルガノイドとは、実際の臓器の構造や機能の一部を小さく再現した、直径数ミリほどの3次元の組織のことで、見た目も働きも人の臓器に近いため、「ミニ臓器」と呼ばれる。

オルガノイドは人の細胞の特徴を保ったまま体外で再現できるため、病気が体の中でどのように起こり、進行していくのかを詳しく調べる「病態モデル」の研究で活用されている。また、病気に効く薬を探したり、患者ごとの体質や病状に合った治療法を見つけたりする「個別化医療」の研究にも役立てられる。

具体例として、東京科学大学を中心とする研究チームは、iPS細胞から作った腎臓オルガノイドを用い、指定難病のひとつである腎疾患「ネフロン癆(ろう)」の病気の原因となる遺伝子が欠損したオルガノイドを作製し、正常な場合と比較することで、組織が硬くなる「線維化」に関わる分子の異常を発見。さらに、その異常を抑える薬も発見し、新たな治療法への道を開いた。

こうしたiPS細胞由来オルガノイドの研究は、近年の論文を整理したレビュー論文でも注目されている。AIによる画像解析や、遺伝子やタンパク質などを網羅的に調べる「オミックスデータ解析」と組み合わせることで、創薬や個別化医療が進展していく可能性が議論されている。AIとオルガノイド研究は、まさにいま結びつき始めているのだ。

川上教授もオルガノイド研究の先駆者として知られる武部貴則大阪大学教授とともに新たな研究に取り組んでいく予定だという。オルガノイド研究では立体構造や遺伝子の動き、時間とともに変化する様子など、非常に複雑なデータが生まれる。オルガノイド研究にも導入が進みつつあるAIの役割について川上教授は次のように語る。

「AIと人間の大きな違いは認知能力です。人間が直感的に扱えるのは、視覚で捉えられる単純な構造ですが、AIは時間とともに変化するオルガノイドの複雑な3次元構造を複雑なまま解析できます。オルガノイド研究のように、人が瞬時に把握することができないデータを扱う分野でこそ、この技術が生きるんです。これまで熟練者の経験や勘に頼ってきた判断を、再現性のある形でAIが担うことで、創薬や個別化医療が発展していくと考えています」

試行錯誤する役割は人間が担い続ける

そのような優れた特性を持つAIが社会のさまざまな領域に入り込むなかで、今後、人はどのような役割を担っていくべきなのか。川上教授はこう考える。

「AIは人間より高い知能、高い処理能力を持つと言われますが、実際には、人間が“方向性”や“問い”を与えてはじめて力を発揮します。何の指示もせず自律的に考えさせても、良い成果が出るわけではありません。どのような社会を目指すのか。その方向性をデザインすることは今後も人間の重要な役割です」

ChatGPTのように幅広い用途に使えるAIが現れ、自律型AIの実用化も進んでいる。一方で、少なくとも現在は、目的の設定や価値判断をAIに任せる段階には至っておらず、完全に自律した存在になったわけではない。そうしたなかでもう一つ、人間にしか担えない役割が浮かび上がってくる。

「AIに決定的に足りないのは、“身体性”。AIには体がないため、現実世界に直接働きかけたり、その結果を自分自身で感じ取ったりすることができません。AIはデータをもとに『こうなるはずだ』と予測することは得意ですが、それが現実の世界でどういう結果を生んだのかを体験し、失敗を踏まえてやり直すことはできません。実際に手を動かして環境に影響を与え、その変化を確かめ試行錯誤する役割は、人間が担い続ける必要があると思っています」

そうして人間が問いを立て、現実世界で判断と実践を担い、AIが膨大なデータと複雑な予測を引き受ける。その協力関係が深まった先には、病気になってから治すのではなく、健康な状態を保ちながら人生を歩み、最期まで自分らしく生きられる未来が広がっているに違いない。

取材・文:杉原由花・大越裕(理系ライターズ チーム・パスカル)
編集協力:株式会社POWER NEWS
バナー写真・本文中写真(ロボットまほろを除く):横関一浩

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