iPSの現在地

難病治療への新たな扉 : iPS細胞が拓く「創薬革命」の最前線

健康・医療 科学

治療法のない難病に光を当てる技術として、iPS細胞を用いた創薬と再生医療が急速に進展している。患者由来の細胞から病態を再現し、薬の効果を見極める新たな手法は、従来の開発プロセスを大きく変えつつある。さらに2026年2月には、脊髄損傷を対象とした再生医療製品の実用化に向けて製造体制の構築が発表されるなど、この分野は社会実装の段階へと進み始めている。慶應義塾大学再生医療リサーチセンター長の岡野栄之教授に、iPS細胞を用いた創薬革命について聞いた。

岡野 栄之 OKANO Hideyuki

慶應義塾大学再生医療リサーチセンター長・教授。1959年生まれ。慶應義塾大学医学部卒業。大阪大学医学部教授を経て現職。国際幹細胞学会(ISSCR)理事長、日本再生医療学会顧問などを歴任。iPS細胞を用いた神経疾患の病態解明と創薬、脊髄損傷の再生医療研究で世界をリードする。

治療法のない難病ALSの研究にブレークスルー

岡野教授は、iPS細胞研究を「実際の医療」へとつなげる世界的なトップランナーの一人だ。iPS細胞は、皮膚や血液などの体細胞を初期化して作られ、体内のさまざまな細胞へと分化できる性質を持つ。こうした特性を生かし、iPS細胞から神経疾患の病態を再現し、創薬や再生医療へと橋渡しする研究を牽引してきた。

とりわけALS(筋萎縮性側索硬化症)の治療薬の開発では、基礎から臨床までを一貫して推進し、iPS細胞の実用化を現実のものとしつつある。

ALSは、運動神経が徐々に失われていく進行性の難病だ。脳から筋肉への指令を伝える神経細胞が死滅することで、次第に全身の筋肉が動かせなくなり、呼吸することも困難になる。意識や感覚は保たれるため、自らの身体機能の喪失を認識しながらの闘病を強いられる。日本では約1万人の患者がいるとされ、根本的な治療法や効果的な薬剤は、いまだ確立されていない。

岡野教授は「ALS治療薬の開発では、これまで何度も失敗が繰り返されてきました」と語る。従来の創薬研究では、患者と同じ遺伝子変異を持つマウスを作製し、そのマウスで効果のあった薬を人間に応用するという手法が主流だ。しかし、モデルマウスで見つかった候補薬は10種類以上が臨床試験に進んだものの、人間ではほとんど効果を示さなかった。

「人間とマウスでは、神経細胞の性質や神経回路の構造が根本的に異なります。特に中枢神経系の疾患では、この違いが決定的な障壁となってきました」

この課題を克服するために、岡野教授らの研究チームは、ALS患者の細胞からiPS細胞を作製し、それを運動ニューロン(運動神経細胞)に分化させる独自のアプローチを開発した。

このヒト由来のALS運動ニューロンは、培養皿上で患者の病態を忠実に再現する。神経突起が異常に短くなり、過剰に興奮し、早期に死滅していくといった、まさにALS患者の脳や脊髄で起きている現象が、培養皿の中で観察できるようになったのだ。このモデルの精度の高さが、ALS研究における大きなブレークスルーをもたらした。

既存の薬がALSに高い治療効果を持つことが判明

ヒト細胞モデルを用いて、岡野教授らは既存薬の転用、いわゆる「ドラッグリポジション」により、ALSの治療に有効な薬の探索を試みた。この手法は、すでに安全性が確認されている薬を別の疾患に応用するため、開発期間とコストを大幅に削減できる。

「iPS細胞は患者さんと同じ変異を持った人の細胞をつくることができます。体を構築するあらゆる細胞に分化でき、臓器の構造を再現した3次元オルガノイドも作れるため、実際の病気になった人の細胞で薬を試した方が、打率が高いと考えたのです」

岡野教授らの研究の狙いは当たり、2018年、パーキンソン病の治療薬のロピニロール塩酸塩が、ALS運動ニューロンの異常な表現型を改善することを発見した。

「ロピニロールがALS細胞の神経突起の短縮を改善し、過剰興奮を抑え、細胞死を防ぐ効果を示しました」

この成果は2018年に国際的な医学誌『Nature Medicine』に発表され、大きな注目を集めた。さらに重要なのは、この研究が基礎研究の段階にとどまらず、実際の患者への治験へと速やかに進んだ点だ。

2018年12月、慶應義塾大学はロピニロールを用いたALS患者対象の医師主導の臨床試験を開始した。約20人を対象としたこの治験は良好な結果を示し、現在は次のフェーズの試験に向け準備が進められている。

「iPS細胞を使った創薬から実際の治験まで、このスピード感は従来のプロセスでは考えられないといっても過言ではありません」

iPS細胞による創薬研究のもう一つの重要な側面は、患者ごとの病態の多様性を明らかにできることだ。岡野教授のチームは、約250人のALS患者からiPS細胞を樹立し、それぞれの細胞の特性を詳細に解析した。「同じALSという診断名でも、一人ひとりの病態は非常に多様で、一元的には扱えない」ことが理由だ。

この多様性に対応するため、研究チームはゲノム解析、細胞表現型の評価(細胞のふるまいや特徴の評価)、細胞外小胞の分析(細胞が分泌する微小な物質の分析)など多角的なデータを集めている。最終的にはAIと組み合わせることで、患者ごとに最適な薬剤を選択できるシステム、いわば「AI処方」の実現を目指している。

脊髄損傷患者4人のうち3人に劇的改善

岡野教授の研究は薬の開発だけにとどまらない。iPS細胞由来の神経前駆細胞(神経細胞へと成長する途中段階にあり、さまざまな神経細胞に分化できる細胞)を脊髄損傷患者に移植する再生医療の臨床研究でも、すでに目覚ましい成果が上がっている。重度の四肢麻痺に近い状態にある4症例を対象とした臨床研究では、2人が顕著に病状が改善し、1人は歩行訓練に到達するという驚異的な回復を見せた。

「iPS細胞から作った神経前駆細胞を実際に移植する治療は、世界でも初めての試みでした。明らかに治療効果が上がっているので、3~4年以内の条件・期限付き承認を目指していますが、できればもっと早く実現したいです」

日本では2014年の改正医薬品医療機器法(薬機法)により、再生医療等製品について、推定有効性と安全性が示されれば、早期に患者へ提供できる制度が整備された。承認後7年間でさらなるエビデンスを蓄積しながら、患者に治療機会を提供できるこの仕組みは、世界的にも先進的なものだ。

「ただし、治療の実用化に向けては、製造技術の確立も重要な課題です」と述べる岡野教授は創薬・治療法の開発とともに、基礎研究を実用化するために立ち上げた慶應義塾大学発のバイオベンチャー企業 ケイファーマのCSO (Chief Scientific Officer)として、ビジネス面からも社会実装を推進している。

その動きはすでに具体化しつつある。ケイファーマは、ニコン子会社のニコン・セル・イノベーションと連携し、iPS細胞を用いた脊髄損傷向け再生医療製品について、治験に向けた製造体制の構築に取り組んでおり、2027年にも企業主導の治験開始を目指す。研究段階にとどまらず、製造や供給を含めた医療インフラの整備が進み、日本発の再生医療の実用化に向けた重要な一歩となっている。

診断が難しい精神疾患のメカニズム解明も進む

岡野教授のチームでは、統合失調症をはじめとする精神疾患の研究にも取り組んでいる。

「病気のメカニズムは、多くの場合、動物モデルを使った実験によって確かめられてきました。幻覚、妄想、思考障害といった主観的な訴えによって診断される精神疾患は、言葉を話せない動物では確認しようがなかったのですが、精神疾患の患者由来のiPS細胞から神経細胞を作製すれば、ヒト特有の病態メカニズムを解明できるようになる可能性があります」

現在進めているのが、スイスのマックスウェル・バイオシステムズ社との共同研究だ。このプロジェクトでは、統合失調症患者のiPS細胞から作製した神経細胞の電気的活動や形態を、最先端の分析手法を用いて詳細に計測している。

「統合失調症の人のiPS細胞から作った神経細胞で、どのような電気的活動の異常が起きているかが分かれば、そこに薬を加えて症状が改善するかを調べることで、動物モデルを経由せずに一気に臨床応用へとつなげられる可能性があります」

従来は10年、20年かかっていた薬の開発が、この技術により1〜2年に短縮できるようになれば、世界中の多くの患者に福音をもたらすかもしれない。

「iPS細胞のおかげで、昔よりはるかに早く、効果的な薬や治療法を見つけられるようになりました。しかし、せっかく良い薬が見つかっても、それが病気で苦しむ人のもとに届けられなければ意味がありません。iPS創薬の成果を、いかにして早く社会実装するか、そして全国津々浦々、誰もがその治療法を受けられるようにするか、それが大変重要です」

そう岡野教授は力説する。

山中伸弥教授によるiPS細胞の発見から、2026年で20年が経過し、「何年かかるかわからない」と言われていた夢の治療法が、今、目の前の現実となろうとしている。iPS細胞医療がもたらす革新的な未来は、もうすぐそこにある。

取材・文:大越裕(理系ライターズ チーム・パスカル)
編集協力:株式会社POWER NEWS
バナー写真・本文中写真すべて:横関一浩

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