心療内科医・桑山紀彦:能登半島地震、ガザ、ウクライナ―災害・紛争の現場で苦しむ人々の心のケアに取り組む

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世界各地で紛争や災害が相次ぐ中で、現地の人々に寄り添い、心のケアに取り組んできた心療内科医の桑山紀彦さん。その活動の原点と、東日本大震災の被災者やパレスチナ自治州ガザの子どもたちとの絆などについて聞いた。

桑山 紀彦 KUWAYAMA Norihiko

心療内科医・NPO法人「地球のステージ(Frontline)」代表。1963年岐阜県高山市生まれ。87年山形大学医学部、92年同大学院卒業。医学博士。94年、ノルウェーのオスロ大学医学部附属「心理社会的難民センター(Psychosocial Care Center for Refugees)」で「心理社会的ケア」を学ぶ。以来、パレスチナをはじめ、世界各地の紛争地、災害の現場で心のケアに取り組む。2009年、宮城県名取市に「東北国際クリニック」を開設、11年東日本大震災で被災。16年、神奈川県海老名市に「海老名こころのクリニック」を開設、不登校児の心の支援を中心に行っている。

ガザの人々との絆

顔に日の丸やハートマークなどを描いた子どもたちが、カメラに笑顔を向けている。1月初旬、桑山さんが主宰するNPO「地球のステージ」のホームページで公開された写真だ。

ガザ最南部ラファの子どもたち(撮影:モハマッド・マンスール/提供:地球のステージ)
ガザ最南部ラファの子どもたち(撮影:モハマッド・マンスール/提供:地球のステージ)

パレスチナ自治区ガザ南端の都市・ラファの子どもたちが、1月1日に発生した能登半島地震で被災した人たちに、フェイスペイントで「地震に負けないで」というメッセージを送ってくれているのだ。

長年、海外の紛争国や被災地で、緊急医療支援を行ってきた桑山さんは、2003年以降の20年間、パレスチナに45回渡航している。そのたびに、空爆の恐怖やトラウマ(心的外傷)/PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ人たちを治療し、笑顔を取り戻してきた。

「ガザには、僕を家族の一員だと思ってくれる人たちがいます。僕の活動の根本にあるのは、世界平和を願うような崇高な理念ではありません。友達であり、家族でもある人たちの苦境を、見て見ぬふりはできないという思いです」

「能登半島地震のニュースを知り、すぐにメッセージを送ってきてくれたのは、彼らもまた痛みを知る人間だからです。明日の命も保障されない緊迫状態にありながら、他人の心の痛みを想像できるのはパレスチナの人々だからだと思う」

「僕の正義は真実を届けること」

今、ガザ地区には医療ボランティアも入国できず、援助物資もなかなか届けられない状況だ。最悪の状態に陥っていると、桑山さんは顔を曇らせる。

「初めてガザ地区を訪れて以来、これまで5回の戦争がありましたが、今回の状況が一番ひどい。以前は主に空爆の恐怖でしたが、今は食べるものがないため餓死の恐怖、そして医薬品がないので感染症で死ぬ恐怖と、3重の恐怖と闘っています」

撮影:花井智子
撮影:花井智子

一つの救いは、2021年、現地に設立した「心理社会的センター」が機能し、ラファの子どもたちの心のケアが継続できていることだ。支援してきた現地のスタッフが、自立運営している。その中心になっているのはモハマッド・マンスール(27歳)という青年だ。

桑山さんがモハマッドと出会ったのは、彼が13歳の時だった。子どもたちに街の絵を描かせたところ、彼の絵には色がなかった。理由を尋ねると、「空爆を受けた自分たちの街には色がない」と答えたという。強い憎しみも抱いていた。桑山さんの心のケアを受けた後、大学でメディア論を学び、「僕の正義は反撃ではなく、真実を届けること」だと、毎日のようにガザの現状を写真に収め、桑山さんに送ってくる。フェイスペイントの子どもたちの写真を送ってきたのも、モハマッドだった。

日の丸と「Frontline」(地球のステージの英語名)のロゴの入ったベストを着た現地スタッフ。左から2人目がモハマッド・マンスール(提供:地球のステージ)
日の丸と「Frontline」(地球のステージの英語名)のロゴの入ったベストを着た現地スタッフ。左から2人目がモハマッド・マンスール(提供:地球のステージ)

支援現場での人材育成にも力を入れ、今では各地にモハマッドのような頼りになる現地スタッフが育っているという。

東日本大震災の記憶継承

桑山さんを取材したのは、1月中旬、能登半島地震の被災地、石川県輪島市から戻って間もないときだった。避難所を訪問し、多くの人たちの話に耳を傾けながら、今後のPTSDケアのアプローチを考え、実践していくという。

能登半島地震の被災者に寄り添う(提供:地球のステージ)
能登半島地震の被災者に寄り添う(提供:地球のステージ)

東日本大震災の際にも、多くの被災者の心のケアを行っている。震災の2年前に名取市閖上(ゆりあげ)地区に診療所を開設していたので、被災の当事者でもあった。

「診療所は辛うじて津波に飲み込まれませんでしたが、辺り一面真っ黒な泥に埋まった。大事な友人や知人を亡くしました」

翌日から診療を開始。家族を失い、自分だけが生き残ったという罪悪感に苦しむ多くの被災者の話を聞きながら、桑山さんはそのたびに大粒の涙を流した。医師の涙は、患者の固く閉ざされた心を溶かした。

「先生が泣くなら、私も泣いていいのだと、初めは無表情だった人たちが、徐々に表情を取り戻していきました。トラウマに対処するためには、蓋(ふた)をするのではなく、しっかりと向き合い、体験を声に出せる物語に昇華して、社会に還元することが大事なのです」

心のケアをした人の中には、東日本大震災の語り部になった人も多い。中学生の息子を津波で失い、息子との思い出の品も全てなくし、生きる希望を失っていた丹野祐子さんもその一人だ。桑山さんとの出会いをきっかけに、前向きに自らの経験を共有したいと思うようになった。

震災の翌年、息子を含む14人の生徒が犠牲となった旧閖上中学校の敷地(2015年近隣地に移転)に、桑山さんの協力の下、遺族たちとともに津波復興祈念資料館「閖上の記憶」を設立し、震災の記憶の語り部として活動している。

世界と関わるきっかけ

岐阜県高山市に生まれた桑山さんは、人とうまく会話できず、何をしても皆と同じようにできないというコンプレックスに苦しんでいた。14歳でギターとバイオリンを始めるが、上達しない。一層、自分の殻に閉じこもった。心機一転、高校ではバンド活動を始めたが、やはり周囲となじめない。兄からは「お前は歯車が1個欠けている」と言われ、「なるほど、自分は普通ではないのだと」と腑(ふ)に落ちた。そんな自分を「治したい」という思いが、精神科医を目指すきっかけとなった。

医学生時代にはバックパックで海外を旅してさまざまな出会いを経験した。医師になって間もない頃、マニラで知り合った少女の祖母がひどい結膜炎だったので、手持ちの目薬を差しだすと、泣いて喜ばれた。ささいなことでも、人の役に立てるのだと実感した。

山形で勤務医をしながら、カンボジア難民キャンプ、湾岸戦争後のイラク、ソマリアなどの紛争国で医療支援に携わり、トラウマに苦しむ多くの人々に接した。高度な心理ケアの技法を習得しようと、1994年、オスロ大学で心理社会的支援のノウハウを学び、翌年、紛争下にあった旧ユーゴスラビアで実践経験を積んだ。

現地の人に勇気づけられることも

2002年、国際機関や政府関連機関とは違う支援を目指し、「地球のステージ」を設立。

「救済国のアドボカシー(権利擁護)や政策提言などは、公の大きな組織がやればいい。僕はその国に生まれ育った人たちにとことん寄り添い、その思いや願いをかなえるお手伝いをしたい」

以降、ガザなどの紛争地、イラン南東部地震、スマトラ沖地震で破壊されたスリランカ、ジャワ島地震、パキスタン北部地震などの被災地、ヨルダン、イラク、南スーダン難民の多いウガンダなどで、緊急医療支援や心のケア活動などを行ってきた。最近は、ウクライナでも活動を開始した。

医療支援にとどまらず、ミャンマーでは少数民族・パオ族の教育支援、東ティモールでは母子保健事業にも取り組む。

撮影:花井智子
撮影:花井智子

「支援しているはずの僕が、厳しい状況下の現地の人たちのたくましさや生への執念、慈悲深さにかえって勇気づけられることが多い。日本で小さなことにくよくよしている自分があほらしくなる。だから、彼らに愛情も湧くし、家族のように思う。家族が困っていたら誰だってサポートしたくなる。それが僕の活動の原点ですね」

弾き語りと映像で世界を伝える

「地球のステージ」は、支援した国々の現地の様子を映像と歌に乗せて紹介するイベントを、日本全国の中学・高校で開催している。弾き語りをするのはもちろん桑山さんだ。 

NPO設立前の1996年に始め、すでに4000公演を超える。一時は年間250回以上実施していたが、コロナ禍以降は年間50回程度に激減した。

ライブ音楽と映像、スライドや語りを組み合わせたイベントで、困難な環境にありながらもたくましく生きる人たちの今を伝える(提供:地球のステージ)
ライブ音楽と映像、スライドや語りを組み合わせたイベントで、困難な環境にありながらもたくましく生きる人たちの今を伝える(提供:地球のステージ)

「今、世界は激しく動いているのに、コロナ禍の影響で、学校がイベント開催にまだ及び腰なのが残念です。ガザやウクライナ、能登半島地震の映像など、子どもたちに現地のリアルな状況を伝えたいし、多様性や平和、心の強さ、人とのつながりなどについて考えてほしい。僕のステージを見たかつての子どもたちが、成長して医師になり、国際支援機関に就職したという報告を受けることもあります。続けてきて良かったと思える瞬間です」

トラウマと向き合える社会に

2016年、名取市から神奈川県海老名市に移り、「海老名こころのクリニック」を開院した。現在は不登校児のケアに絞っているが、自治体や警察からの依頼もあり、犯罪被害者やその家族の心のケアも行っている。神奈川県の知的障害者施設で19人が殺害された「やまゆり園事件」の被害者家族のケアにもあたった。 

桑山さんが行う「心理社会的ケア」は、PFA(心理的応急処置)やPTSDに頻繁に利用されている国際標準的な手法で、集団で向き合うアプローチだ。

ワークショップでつらい記憶やそれにまつわる感情を、絵を描くことや粘土工作、映画制作、演劇など創作活動を通して表現することでトラウマに向き合い、仲間や地域の人たちと共有する。その過程で、自分が傷ついた経験が他の誰かの役に立つという気づきを得て、心理的孤立状態から抜け出し、社会ともう一度つながることができる。

「心理社会的ケアは、人間の本能、自然治癒力に根差しています。つらい体験から、ある一定の時間が過ぎると、誰かに伝えたくなる。それができるようになると、自分の経験を社会に還元したいという本能が働くのです」

日本にこのケアモデルが浸透しないのは、トラウマに対する独特の偏見があるからだと言う。

「“寝た子を起こすな” “そっとしておけば忘れる”という考え方です。でもトラウマは消せないし、消す必要もないものと位置付けることが大事。誰かと一緒に向き合うことで、成長のための資源、転機になるのです。もっとトラウマに向き合える社会、語り合える社会であってほしい」

支援先を含め、心理社会的ケアの実践者を国内外で育成する活動も始めている。昨年還暦を迎えたが、今後も、できうる限り「世界と関わって」いくつもりだ。

「毎回、現地の人から、さまざまな恩を受けています。その恩を返そうと次なる紛争国に向かっても、またそこで恩をいただく。恩の貯蓄は僕の中であふれそうになっているので、一生かかっても恩返しの活動は終わりそうにないかな」

インタビュー:吉井妙子(ジャーナリスト)/構成:板倉君枝(ニッポンドットコム編集部)

バナー写真:「海老名こころのクリニック」で(撮影:花井智子)

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