日本の民芸運動に影響を与えた台湾竹工芸

文化 国際交流

「恐らく世界の何処(どこ)を探しても滅多にあるものではなく、工芸の村として吾々が頭で考えている一つの理想に近いものが、この世に実在している」

日本民芸運動の父と呼ばれ、日本を代表する思想家の一人である柳宗悦(やなぎ・むねよし)は、1943年の台湾視察で竹細工を作る村を訪れたときの驚きを、こんな風に書き記している。

日本統治下の朝鮮で目にした朝鮮陶磁器に魅せられた柳は、鑑賞用の美術品ではなく、その土地に暮らす人々が風土に合わせて創意工夫を凝らした日用品にこそ美しさが宿るとし、「用の美」と呼んだ。柳の目に映った台湾の竹工芸は、まさしくその「用の美」を体現したものだったのだろう。

台湾の生活に溶け込む多彩な竹細工

竹材の豊富な台湾では、古くから身の回りのいろいろなものが竹(バンブー)で作られてきた。割る、裂く、曲げる、組む、編む。風に吹かれサワサワと音を立てる竹林が、風土と人々の生活に合わせてしなやかに姿を変える。扇、茶道具、筆、かさなどの小物から、農具や背負い籠、椅子、机、棚といった家具に乳母車、川を渡る「いかだ」に家屋まで。生活の中で必要な思い付く限りのものに、竹が用いられてきたのだ。

「竹の各部位とそこから作られたものを描いた図」、国立台湾工芸研究発展中心(筆者撮影)
「竹の各部位とそこから作られたものを描いた図」、国立台湾工芸研究発展中心(筆者撮影)

ユニークなものに、花籠を長い筒にしたようなものがある。「竹夫人」という抱き枕で、暑さの厳しい台湾ならではの寝具だ。寝転がってこの「竹夫人」に手足を乗せれば、身体の熱を逃がして寝苦しい夜も快適に過ごすことができる。

「母子椅子」(台湾語:ブー キャア イー)と呼ばれるベビーチェアも面白い。幼児がつかまる前側の部分には輪切りの竹が通され、くるくると回したり動かしたりして遊べる仕掛けになっている。成長に合わせて向きを変えて使うこともできる。釘を使わず竹で組み立ててあるから丈夫で安全だし、これこそ柳の唱えた「用の美」そのものではないかと感心してしまう。

「母子椅子」、林秀鳳作(筆者撮影)
「母子椅子」、林秀鳳作(筆者撮影)

実際、これら台湾の竹デザインは日本の作家たちの心をも深く捉えた。民芸運動で活躍した陶芸家の河井寛次郎にも台湾の竹工芸は大きな影響を与えており、京都市にある河井寛次郎記念館には、河井が幼い娘のために竹職人に制作を依頼した「母子椅子」や竹家具シリーズが残されている。

「台湾の竹家具ぐらい『竹』の立派な素質を出しきっているものはまれらしいと思う」とも述べた河井によれば、「京都市外洛西の上桂に大八木治一という人が、日本竹製寝台製作所というものを作って」いて、「此処には台湾の人が十人くらい居て」「自分の考のものをいろいろとそこで作って」もらうようになったという。このことは、当時の台湾の職人が、京都の工房に招かれて竹に関する技術提供をしていたことを示している。
(1941年8月号『月刊民芸』の竹の特集における、柳宗悦、式場隆三郎との鼎談/民芸737号、寛次郎の娘・鷺珠江のエッセイより)

日台の技術交流で発展した「用の美」

一方、日本の竹工芸が台湾へ影響を与えた事象も見られる。もともと竹工芸の盛んな台南・関廟と南投・草屯には日本時代、台湾総督府によって「竹材工芸伝習所」が設置されたが、ここに日本(内地)から職人が来て指導することもあったからだ。日本時代の台湾の文化発展に関して、統治側の日本による一方的な影響が目立っていた中で、少なくとも竹工芸に関しては、台湾と日本が対等に技術交流し、影響を与え合いながら発展したといえそうだ。

台湾は実にさまざまな文化が融合している。主に中国東南部のホーロー、客家、スペイン、オランダ、日本、戦後の中華文化、そして近年大きく見直されている先住民族文化と、台湾の工芸は人々の背景の複雑さを物語り、玉、漆、植物編み、陶、金工、ガラス、染織、刺しゅう、紙、木工など、種類は多岐にわたる。中でも台湾と日本との相互交流が見事な融合を見せた竹工芸には、多様性豊かな台湾ならではの「用の美」が、深く感じられるように思う。

暮らしと仕事の中で育まれた数々の作品

戦後になり、南投・草屯の「竹材工芸伝習所」は顔水龍(1903~97)によって54年に「南投県工芸研究班」として生まれ変わる。顔は東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業した芸術家で、台湾民族研究者および教育者として「台湾工芸の父」とも呼ばれている。その後いくつかの名称変更を経て、2010年には「国立台湾工芸研究発展中心」となり、台湾工芸の研究・技術保存と人材育成という役割を担い続けているが、ここで竹工芸を教えているのが、16年に台湾の人間国宝(無形文化財保持者)に認定された李栄烈だ。

1936年、草屯の郵便局員の家に生まれた李は、18歳で南投県工芸研究班に入学。台湾竹工芸の大家・黄塗山の一期生で、竹との付き合いは60年を越える。1960年には、来台した日本の人間国宝・飯塚小玕斎(いいづか・しょうかんさい)の指導も受け、78年に漆芸家・陳火慶について漆芸技法を習得。漆と竹とを組み合わせた「籃胎漆器」(らんたいしっき)という技法を取り入れた。顔とも深い親交を結び、顔とのコラボレーションである「木製餐桌椅組」も制作している。

林栄烈が顔水龍と一緒に制作した「木製餐桌椅組」(筆者撮影)
李栄烈が顔水龍と一緒に制作した「木製餐桌椅組」(筆者撮影)

代表作は籃胎漆器の技法で作った、テーブルと椅子、茶道具のセットだろう。この急須を一つとっても制作に1年を費やしたというが、いぶした竹編みの上に何層も漆を塗り重ねて作られた茶器や籠は深い色味を帯び、温かみと強靭(きょうじん)さを併せ持つ。

李栄烈が「籃胎漆器」の技法で制作したテーブルと椅子(左)、茶道具セット(右)(筆者撮影)
李栄烈が「籃胎漆器」の技法で制作したテーブルと椅子(左)、茶道具セット(右)(筆者撮影)

「暮らしが仕事、仕事が暮らし」という言葉を遺したのは河井だが、李の作品にもまた、素朴で明るい手を動かして作ることへの喜びが感じられる。そこで李が根っからの職人なのかといえば、そうでもない。それが証拠に李のスタジオには、一つとして同じ作品がない。

「一つ完成したら、また少し難しいことに挑戦するのを大事にしている」

注文を受けて作ることはあるのかと聞くと、

「少ない、こんなものを作りたいという気持ちに従って作っているから」と李は答えた。

李は「竹」そのものだ。南投草屯の地に広く深く根を張り、多様な技術を吸収し、経験をため込んで強度を備え、80歳になった今も地元で後進を育てることに力を注ぐ。李の作品を通して見えるのは、暮らしと仕事の結び付きの中に生まれる、しなやかな美しさである。

バナー写真=2016年、台湾の人間国宝に認定された李栄烈(筆者撮影)

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