日本と台湾でこんなに違う芝居づくり:原作舞台化で自ら出演

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2017年『私の箱子』と『ママ、ごはんまだ?』の2冊から日台合作映画『ママ、ごはんまだ?』が公開された。2019年3月、今度は舞台「時光の手箱―我的阿爸和卡桑」として台湾で上演され、筆者も出演する。稽古を通じて感じた日台の差異について語った。

2019年3月、舞台「時光の手箱」が台北で公開

私の仕事は、物を書くことと、役を演じることだ。自分の家族の話を本にした。その本を基に映画が撮られた。その映画に、ちょい役で出してもらえた。今度はその本を基に、舞台劇が作られることになった。その舞台には「自分」を演じる主役級で起用されることになった。

私って、何てツイてるの?

他人からしたらバカみたいに思えるだろう。でも、本音だから許してほしい。そんな幸せな思いをかみ締めながら、いま、中国語で「排練」と呼ばれる舞台稽古に励む毎日を冬の台北で送っている。

ここ数年、仕事やプライベートで台湾と日本を頻繁に往来している。日本も台湾も私の故郷、という感覚が年を追うごとに強まっている。でも、今回ばかりは、ちょっと緊張気味だ。なぜなら、今年の3月に、台北で上演される舞台「時光の手箱―我的阿爸和卡桑(時光の箱―私の父さんと母さん)」の稽古のため、約3カ月に渡って台湾に滞在しており、台湾では初めての舞台の仕事になるからだ。

「時空の手箱―我的阿爸和卡桑(時空の箱―私の父さんと母さん)」のポスター(影像文化芸術基金会提供)
「時光の手箱―我的阿爸和卡桑(時光の箱―私の父さんと母さん)」のポスター(影像文化芸術基金会提供)

せりふや脚本は役者次第

台湾での稽古が始まり、まず驚いたのは、舞台の基本となる脚本の扱いの違いだ。私がこれまで出演してきた舞台の多くは、脚本家の描く世界が強く、せりふの一字一句、時には句読点までを忠実に再現することを要求されてきた。ところが、今回の舞台では、役者が言いにくいと思ったせりふを、自分が納得する言葉に換えていくのだ。

「あれ?こんなせりふあったかしら?」「あれっ?前回の内容と違う……」

初めは戸惑ったが、私もすっかり適応し、毎回微妙に違うせりふ回しへと変化させるようになった。確かに、これはやりやすい。でもいいのだろうか。みんないいと思っているようで、脚本家の方も気にしていないようだ。お互いに意見を出し合い、フレキシブルに対応していくやり方は台湾らしい。場合によっては、結果として、よりよい作品へと成長していくはずである。もちろん、日本のようにきっちりと最初から決まっていた方が安心できる部分もある。どちらにも長所と短所がある。やはりお国柄や民族性を反映しているのだろうか。

映画化から3年を経て舞台化が決定

この舞台は、拙著『私の箱子』と『ママ、ごはんまだ?』の2冊を原作としている。この2冊は、亡くなった私の父と母を主人公にして、家族の記憶を描いたエッセーだ。2017年に『ママ、ごはんまだ?』という日台合作映画になった。日本や台湾のみならず、タイや香港などでも上映され、各国の映画祭にも出品されるという幸運に恵まれた。ひとえに映画化の話を持ちかけて下さった白羽弥仁監督にキャストやスタッフ、そしてご覧になって下さった観客皆さんのおかげだと思っている。

そして今度は、舞台という新しい形で作品が生まれ変わることになった。

舞台化が決まったことを知った友人たちからは、『どうやって舞台になったの?』と聞かれるが、実のところ、私もよく分からない。

今から約3年前、台湾の映画監督・李崗さんにお会いした。私は、拙著「私の箱子」の中国語翻訳版を名刺代わりに差し出した。2015年、李さんは、戦前の台湾で活躍した台湾の5大家族のうち「霧峰林家」を題材とした映画「阿罩霧峰雲」を完成させた。彼は、他の5大家族も作品にしたいと考えていた時期だった。私の父は同じ5大家族の一つ、「基隆顏家」の出身だ。私の著作が李さんのアンテナにちょうど引っ掛かった形だった。

李さんは最初、「ドキュメンタリー映画を作ろう」と考えたようだ。企画の細部を詰めていくうちに、顔家に関して語れる人の多くが、すでに他界しており、核になる人物の選定に苦しんだそうで、しばらく連絡も途絶えた。

私の方でも、ドキュメンタリーの話をすっかり忘れていたころ、再び李さんから連絡が入った。

「舞台をつくることにしました」

予期しない形での舞台化だったが、その後はトントン拍子で進んだ。

脚本を担当する詹傑さんは、基隆出身の30代の青年だ。この舞台の脚本を書くことを「運命の巡り合わせ」と表現した。顔家の歴史を知ることで、自分が暮らしている場所の過去をひもとき、故郷の新しい一面に気が付くことができたからだと。そんな風に感じてもらえるのは本当にありがたい。

詹傑さんが多くの資料を読み込み、書き上げた脚本は、日本と台湾をつなぐ歴史が細やかに反映されており、日台間で揺れ動いた私たち家族の真実が大切に表現されていた。

台本を手に他の役者の演技に注目する筆者(影像文化芸術基金会提供)
台本を手に他の役者の演技に注目する筆者(影像文化芸術基金会提供)

日本語、台湾語、中国語の3言語が飛び交う世界

映画の世界で活躍してきた李さんにとっては、初めて手掛ける舞台作品となる。並々ならぬ情熱を持って、作品の方向性や演出についてアイデアを出し、舞台稽古にもしばしば顔を出してくる。

稽古が始まる前日、関係者一同が集まって顔合わせが行われた。それぞれが自己紹介をしていく中、私の番が回ってきた。何を話したか、実はあまり覚えていない。私は、原作者と出演者の両方の身分で出席した。普段は緊張しない方なのだが、いつもより張り詰めた気持ちになっていたようだ。

舞台の時間経過は、第二次世界大戦終戦前後の1940年代から、現代までだ。日本統治時代の台湾、敗戦後の日本と台湾、そして現代をより忠実に表現するため、せりふには主に日本語、そして台湾語と中国語が使われる。

私の役どころは、現代の「一青妙」役だ。台湾を訪れた一青妙は、ドキュメンタリー映画の監督に対して、日本と台湾の間で生きた両親の思い出を説明するという「舞台回し」の役割になる。監督役を務めるのは、台湾演劇のベテラン俳優の朱宏章さん。台北藝術大学の教授でもあり、みんなから「老師(先生)」と呼ばれている。他にも、母の親友役として同じくベテラン俳優の謝瓊煖さんが出演している。この機会に、彼らからたくさん役者としての技術を学び、今後の日台での役者の仕事に生かしていきたい。自分で本人役を演じ、さらにせりふはほとんど中国語。日本語を母語とする私としては、大きなチャレンジとなる。楽しみ半分、不安半分といったところだろうか。

実際に稽古が進むにつれ、驚きの数も増えている。日本と台湾でこんなに違うものかと新鮮さを感じる。例えば、稽古場。私が参加してきた東京の稽古場の多くは、音漏れや周辺住宅の条件から、地下にあるか、地上でも窓があまりないところがほとんどだ。1日の大半を過ごす稽古場なのに、空気は滞り、かび臭く、決していい環境ではない。

それに比べ、台北の稽古場は樹木に囲まれた建物の2階にあり、大きく開け放されたガラス窓がある。稽古場を訪れるだけで、気持ちが明るくなる。稽古場に限らず、台湾の道路幅や建造物の広さには、目を見張ることが多い。日本もこのような都市設計を見習ってほしいと思うところだ。

不安は、自分自身の役どころに尽きる。舞台を中心に役者を20年以上続けてきたが、自分で自分の役をやった経験はもちろんない。想像もしていなかった。インタビューなどで「役者としての醍醐味(だいごみ)は?」と聞かれたら、「自分と違う人になれる」と答えてきたが、今回は自分で自分を演じるのである。

だったら簡単でしょう、などと思わないでほしい。自分を客観視するのは難しい。詩人のランボーが言うように「自己とは他人である」。自分のことを分かっていないのは実は自分なのだ。だから稽古は格闘の日々である。

稽古の様子(影像文化芸術基金会提供)稽古の様子(影像文化芸術基金会提供)

実生活でも日本と縁深いキャストが勢ぞろい

舞台のキャストはそれぞれ個性豊かで、魅力的な人が集まった。

父・顏惠民役の鄭有傑さんは台湾人華僑の家庭で育ってきた。鄭さんの父親は、35歳まで日本で暮らし、台湾に戻った。台湾人の母親を含め、家族間の会話は日本語だったという。亡くなるまで日本語を話し、日本語のテレビや新聞を見ていたという鄭さんの父親は、年代は違うが、私の父と実によく似ている。舞台出演のオファーを受けた際は「命運的安排(宿命)」として、即断してくれたそうだ。ちなみに鄭さんは、現在も日本で暮らす兄と電話で日本語を話している。

父親の影響を受け、流ちょうな日本語を話す鄭さん。でも、セリフのほとんどが日本語という仕事は初めてだそうで、私と同じように緊張している。

母の一青和枝の役は、母と同じように、台湾人と結婚して台湾を拠点に活躍している日本人俳優の大久保麻梨子さんが演じる。

時代は変わっても、国籍が違う人と一緒になることを決意し、異国に嫁ぐ気持ちは本人にしか分からない。中国語を習得し、台湾語まで使いこなせる彼女の起用はまさに適役だと思った。

顔恵民を演じる鄭有傑さん(左)と一青和枝を演じる大久保麻梨子さん(右)(影像文化芸術基金会提供)
顔恵民を演じる鄭有傑さん(左)と一青和枝を演じる大久保麻梨子さん(右)(影像文化芸術基金会提供)

その他の周囲の役を演じてくださる方々も、日本人女性と結婚している楊烈さんや台湾人女性と結婚している米七偶さん、日本舞踊の名取まで取得した王楡丹さんと、実生活で日本とつながりが深い人たちばかりだ。

社会同様、稽古でも「群」より「個」を重視

稽古は、大体午後1時過ぎから、夕食休憩1時間を挟み、夜10時まで続く。

役によって、稽古が休みになったり、夜や昼のみになったりと、フレキシブルな部分がある。一番大変なのは、常に稽古場に居続ける演出家だ。

演出家のことを、中国語で「導演」と呼ぶ。日本では映画は監督、テレビは演出家となるが、台湾では全て「導演」と呼ぶところが日本と違う。

演出家として舞台の命運を握っているのは、まだ30代半ばの廖若涵さんだ。新進気鋭の若手演出家として活躍中と聞いていた。日本の演劇界で指導の厳しさで有名だった蜷川幸雄さんのように、怒鳴り声に襲われると覚悟していたが、全くそんなところはなく、褒めながら役者を育てるタイプの演出家だった。その分、時折言われる鋭い指摘が、ピリリとしたさんしょうのように全身に染み渡る。

私がうれしいのは、稽古が終わると、みんなそれぞれ自宅や仕事に向かってすぐに散り散りになって帰っていくところだ。

日本では「個」よりも「群」を重んじる。稽古でも、誰かが帰るまで待ったり、誰かが飲みに行こうと言えば断れなかったりと、常に他人を気にしなければいけない風潮が強く、個人主義の私には強いストレスになる。

台湾では、稽古が終わって、帰り支度ができた人からとっとと帰っていく。「群」よりも「個」が圧倒的に強い台湾社会の一端の現れだろう。私には、この方がしっくりくる。私にも台湾人の血が流れているのだと実感した。観察すればするほど、台湾と日本で違うところが多く、面白い。

演劇ならではの方法で家族の絆を表現

2019年3月7日に台北市の城市舞台で幕が上がる。舞台には、原作にはない登場人物や、描けなかった内容も含まれている。舞台を通し、日台の歴史に改めて触れてもらう機会となり、誰の家庭にもある家族の当たり前、大切さに気が付くほんのわずかなきっかけとなれば、私としてはとてもうれしい。

稽古は3月上旬の公演までまだまだ続く。日台演劇文化の違いについて、新しい発見を楽しみにしながら、台湾での初舞台までのプロセスを堪能したい。そして、この日本語ばかりの舞台が、いつか日本でも上演できますように。そんな願いを胸に、19年のお正月、神様に向かって私は両手を合わせた。

舞台のキャスト、スタッフ一同(影像文化芸術基金会提供)
舞台のキャスト、スタッフ一同(影像文化芸術基金会提供)

バナー写真=一青和枝を演じる大久保麻梨子さん(手前)と筆者(影像文化芸術基金会提供)

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